陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「読むこと」を考える その7.

2006-02-08 22:39:56 | 
(※サンプルの「八人の見えない日本の紳士たち」はhttp://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/gentleman.htmlで読むことができます。)

わたしたちは本を読むとき、まずストーリーを追っていく。
ストーリーとは、E.M.フォースターの定義によると、「それからどうなった?」という質問に答えるもの、「時間の進行に従って事件や出来事を語ったもの」である。

けれども、実際の小説は、出来事が時間軸にそったままの形で提示されることばかりではないし、とりわけ出来事や作品内の時間が限られる短編では、ストーリーを追っただけでは、何の話なのかさえわからないことが多い。

サンプルの「八人の見えない日本の紳士たち」のストーリーをためしに見てみよう。

「わたし」がベントリーに入っていくと、日本人の一団が食事をしており、若いカップルはワインを飲んでいる。ふたりは婚約しているらしいこと、娘は本を出版する予定であることがわかるが、結婚の時期をめぐって口論になる。ワインを飲み終えたふたりは出ていくが、娘の方は日本人がいたことに気づいていなかった。

ストーリーを追うだけでは、何の話かよくわからない。つまり、わたしたちはストーリーを追いながら、プロット(出来事の因果関係)を見つけることができない。最大の疑問は、「なぜこの話が語られなければならなかったのか?」ということである。

劇的な出来事が起きたわけでもない。
めずらしいこと、おもしろいこと、悲劇的なこと、何であれ、語るに足るような出来事をわたしたちは見つけることができない。

そういうとき、わたしたちは、つい、「作者は何が言いたかったのか?」と言ってしまいそうになる。
けれども、作者はロラン・バルトが殺してしまったので、わたしたちはもう作者に聞くことはできない。

だから、語り手と、誰が見ているのか、そうして見ている先の登場人物に注目するのである。

1.誰が語っているのか?
2.誰の話なのか?
 a.主要な登場人物はだれか?
 b.副次的登場人物はだれか? また、彼らはどのような機能を担っているか?
3.誰が見ているのか?
 a.この話はいつの時点で語られているのか?
 b.見ている人物は、登場人物についてどこまで知っているのか?

サンプルの語り手は非常にわかりやすい。「わたし」である。内容から、中年のおそらくは男性(性別を明らかにはしていないが、まず美しい娘に目が行くことから、おそらく男性であると理解していいだろう)の、それなりに経験を積んだ作家であることがわかる。

2.は後回しにして、3.を見よう。
この作品は、おそらく出来事が起こってまだ間がないうちであることが予想される。というのも、娘の作品が出版されたかどうか、それが成功したかどうかは、語りの時点では明らかにされていないからである。
語り手は、ほかの登場人物(娘、婚約者、八人の日本人)について、初対面で何らの知識もない。

さて、登場人物は、語り手である「わたし」、「娘」、「婚約者」、「八人の日本の紳士」、「ウェイトレス」である。ほかに会話のなかに「ドワイトさん」「婚約者の母親」「婚約者の伯父」が登場する。

主要な登場人物は誰だろう?
ここではまず、もっとも多く語られる「娘」であると仮定してみよう。

「娘」は「小作りで愛らしい」「人形のような」容貌で、女子大を出て間がない、おそらくは当世風の乱暴なしゃべり方をする、と描かれる。
駆け出しの作家であり、「観察力」を買われている。

つぎに「婚約者」を見てみよう。
婚約者の話に出てくるのは
・娘に結婚式を持ちかけられ
・伯父からはワインの商いをするよう勧められ
・母親からはおそらくすぐに結婚しないように言われていることが想像される。
以上のことから、婚約者は明確な意志を持たない弱い存在であることが描かれる。

娘の強さを強調するための弱さ。
娘が乗り出そうとする文学と、ワインの商いという世俗的な道へ進もうとするの対比。

では、つぎの登場人物、八人の日本人紳士を見てみよう。
彼らの描写で特徴的なのは、
・互いによく似ていること
・礼儀正しく、つねに笑みを浮かべていること
・相手に対して思い遣りを持ったふるまいをすること

これは何と対比させているのだろうか?
娘と婚約者は、日本人と同じように、よく似ている。
だが、その関係は支配的な娘とそれに引きずり回されている婚約者といったように、まったく対照的である。
あるいは彼らの話は、聞いている「わたし」には、まるで理解できない。
同業であるために完璧に理解できる話と、異なる言葉で話されているために、まったく理解できない会話。そういう対照構造ももっている。

さて、ここで語り手のことをもういちど考えてみよう。
語り手の「わたし」は、表面的には、この描かれる出来事のどれにも参加していない。

食事をし、あるいはワインを飲む登場人物のように、語り手がいったい何を食べているのか、あるいは飲んでいるのか、あるいは運ばれてくるのを待っているのか、注文したのかは描かれない。

けれども、見ることによって、聞くことによって、「わたし」は、この出来事に中心人物として関与している、とも言えるのである。

「娘」は最初、美しさで作家の興味を引く。
つぎに作家の同業者であることから、作家の興味はいっそう深いものになる。
「娘」のことを作家はどう見ているか?
「娘」が駆け出しの作家であることを知ったときから、「もっと彼女に見合った人生があるはずだ」という、決して好意的ではなかったあった作家の視線は、ふたりの話を聞きくうちにますます厳しいもの、「わたしは自分が『チェルシーの潮流』が惨憺たる結果に終わったあげく、娘が写真のモデルになり、青年はセント・ジェイムズ街でワインの商いで堅実に身を立てることになればいい、と考えていることに気がついた。」というまでになっていく。

「娘」のことを語りながら、作家である自分の仕事のことを語っている、とも言えるのである。

娘を主要人物として見ることもできるし、作家を主要人物と見ることもできる。

(すいません、今日は終わらなかったのでもうすこし続けます。明日が最終回です)


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