陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「読むこと」を考える その8.

2006-02-09 23:07:05 | 
(※昨日、キンギョの水換えをやったせいなのか、それとも一昨日に雪の中を自転車で走ったせいなのか、とにかく風邪で頭がぼーっとして書いたのを、そのまま読み返さずにアップしてしまいました。そんなに変なことは書いてないんだけど、何か妙にくどい……。ともかく変なところで切れていて申し訳ないんですが、とりあえず先に進みます。)


さて、登場人物を見ながら、つぎにタイトルを考えてみよう。
サンプルのタイトルは「八人の見えない日本の紳士たち」である。
なぜ「見えない」がついているのか?
観察眼を誇っているはずの「娘」に、見えなかったからである。一般人を代表する婚約者にすら見えていたのに。

つまり、「娘」には作家の資質が備わっていないことの決定的な証拠として、最後に語り手が差し出すのが「娘は日本の紳士たちに気がつかなかった」ということなのである。

これで、とりあえずはこの作品が「何を言ったものか」は掴んだ。さて、さらにもう一歩、ここから突っ込んで考えてみよう。

4.語り手を疑う

まず、この語り手はだれに話しているのだろうか。
語り手は、必ず聞き手の存在を前提としている。いくつかの手がかりをもとに、語り手が思い描いている聞き手を推理してみよう。

まず、この作品は英語で書かれている。
しかも、翻訳では「ホテル・ベントリーのレストラン」「19世紀初頭風」などと訳したけれど、原文は「ベントリー」「リージェンシー様式」と、イギリスの知識を持っていることを当然とした書きぶり、あるいは、女子大ふうのアクセント、19世紀末から20世紀初頭にかけて一世を風靡したヘンリー・ウォード夫人、といった固有名詞から、ある程度の教養を備えたイギリス人(でなくても、それに近い知識を持つ聞き手)を、聞き手として想定しているのである。

わたしたちはこの語り手が想定している聞き手として話を聞くだけではなく、こんどは「想定外の聞き手」として、語り手を疑ってみよう。

語り手が言っていることは正しいのか? 語り手は、自分が思っているほど、たいそうな観察眼を持っているのか。実は順調なスタートを切った新進作家を秘かに妬んでいるのではないのだろうか?

そう考えたのなら、もういちど読み返して証拠を集めなければならない。

「わたし」は、日本人をどこまで正確に見ているだろうか?
「魚料理」「お辞儀」「愛想笑い」…ステレオタイプの日本人像とは言えないか?
「わたし」の観察眼が自分が思っているほど正確ではないとすれば、「娘」の評価も鵜呑みにしてよいのだろうか。
そういう観点からもういちど、娘と婚約者の会話を読み直してみる。

このように、作品はさまざまな解釈が可能である。
けれども、それは「何でもアリ」ということではないのである。

その解釈を成り立たせる根拠が作品のなかになければならず、同時にその解釈は、人を説得しうるものでなければならない。
たとえそれが友人に内容を話すことであっても、ブログなどに感想を書くことであっても、あくまでもそれは解釈という行為であることにほかならない。

5.本を読む、ということ

語り手は時間軸に沿って出来事を語っていく(もちろんこの時間軸はひっくり返されるもの、バラバラにされるもの、一部分だけが前に、あるいは後ろに配置されるもの、さまざまである)。
けれども、この出来事というのは、人を描くために語られるのである。出来事の背後には、かならず人間がいるし、その出来事に反応する人間もいる。
E.M.フォースターが言うように、自分には理解できないほかの人々を理解するために、わたしたちは文学に向かうのだ。

そうして登場人物の描写は、作品が進んで行くにつれ徐々に進展し、ところどころで修正される。
わたしたちはその修正を受け、自分の記憶も修正する。

たとえば、サンプルでは、娘が、自分は鋭い観察眼を持っている、とドワイトさんが言った、と言えば、とりあえずそれは聞いておく。ところが、語り手はどうやらこの娘に対して、好意的ではないらしい。となると、この「鋭い観察眼」も怪しいぞ、と、修正する。そうして最後に娘が日本人の存在に気がついていなかった、という部分を読んで、娘の「観察眼」は杜撰なものである、と再度修正し、同時に語り手の見方の「正しさ」を補強する傍証として理解する。

わたしたちはページをめくりながら、意味にまとまりをつけながら読んでいく。けれども、この意味のまとまりのなかには、必ず満たされない空白の部分がある。

たとえば、娘が「ドワイトさんが言うには、この十年間に出た処女作のなかで、こんなに鋭い観察力を発揮した小説はなかったんだって」と言ったときに、婚約者が「そりゃすごいね」と言う口振りが「悲しげだった」とあるが、なぜ「悲しげ」なのだろう、と思う。この空白を解き明かしたいと願い、仮説を立て、先へ進む。この婚約者は、娘に成功してほしくないのだろうか?

読み進んでいくうちに、この仮説はたいがいの場合、修正を余儀なくされる。後の会話のなかから、婚約者は、娘の作品が当たるとは思っていない。そこでわたしたちは、自分の記憶も修正する。

この「空白」→「仮説」→「修正」は決して終わることがない。単一の絶対的な解釈がある作品があるとすれば、それは文学作品としては、読む価値がないものである。


わたしたちは小説を読む。悲しいことに、ほとんどのことは忘れてしまうだろう、と思いながら、それでもなんらかの価値があるだろうと思って、本を読む。

ところがひどく漠然とした印象を受けただけで読み終えてしまった場合、自分に読む力がないか、作者に問題があるか、あるいはそのどちらでもない(多くの場合「自分には合わない、という言葉で表現される)、と考えてしまう。

そうではなく、いくつかの点に留意すれば、読書体験からより多くのものが引き出されるのではないか、と思うのである。その一助になれば、これほどうれしいことはない。

それでは、よい読書体験を。

(この項終わり)


(※近日中に手を入れてサイトにアップしますので、そのときはよろしく。風邪っぽいんですが。いやあ、U2、グラミー取りましたねー、って、まだそのアルバム、聞いてないんですが。スピーカー買ったんでお金なくなったし、図書館、まだ買ってくれてないし。仕方ないから、前のアルバム聞きながら、うまか棒(貧乏になったので、ハーゲンダッツからランクを落とした)食べてお祝いすることにします、って風邪引いてるんだよね。まぁいいや、うまか棒だから。)