「「読むこと」を考える」にぼつぼつと手を入れているのだけれど、もうブログバージョンとは似てもにつかぬものになっております。とりあえず、今日は「視点」書いたんだけど、それに関連して思い出した話があったので、ここに書いておく。
「誰が見るか」によって、まるっきり出来事の様相が一変する、ということで有名なのが、芥川龍之介の『藪の中』である。
けれども、ここまで劇的でないにせよ、日常でもこうした食い違いというのは、わたしたちが気がつかないだけで、よく起こっているのだろう。
どうしたはずみかでこの食い違いがはっきりとした形をとることがあって、そうしたとき、自分が見ていたと思ったものは、いったいなんだったのか、と思う。
ところが、もっと頻繁に経験しているのが、同じ自分が見たできごとなのに、見方を少しずらしただけで、まるっきりちがうふうに見えてくる、という経験だ。
サマセット・モームの短編『仮象と真実』はそのことをテーマにした作品である。
手元に実際の本がないので、中野良夫『英文学夜はなし』(新潮選書)を元に書く。
ストーリーというのはこんなところだ。
フランスの内相であり、かつまた大企業の経営者、財界の大立者でもあるル・スール氏は、あるとき若いモデルに恋をした。
長年連れ添った妻は、特別不仲ではないものの、経済的な理由で結婚した相手であり、ル・スール氏に「燃えるような恋愛」の経験はなかったのである。
夢中になったル・スール氏、このモデル、リゼットのためにアパートメントまで借りてやる。そうして、夢のような二年が過ぎた。
ある日曜日、ル・スール氏がリゼットの元を尋ねてみると、なんと食卓には若い男が自分のパジャマを着て座っている。若い男は叩き出したものの、ル・スール氏、腹が立ってどうにもおさまらない。
まもなくリゼットと青年の結婚式が、ル・スール氏立会いの下、華々しく執り行なわれる。無事式も終わり、新婚旅行に出かけるために車に乗り込もうとするリゼットは、そのまえにル・スール氏の頬にかわいいキスをし、そっと耳打ちする。
「月曜の五時よ。待ってるわ」
この作品に対して、中野良夫はこのように書いている。
もうこの作品に関しては、この中野の言葉以上に付け加えることは何もないのだけれど、実際にわたしたち自身、この「ずらし」をよくやっている。
つまり、時間の経過ということである。
起こったそのさなかにいるときは、どんな悲劇的な出来事でも、時間の経過とともに、その悲劇性は薄れていく。それは、わたしたち自身の「忘却」ということでもあるけれど、時間の経過とともに「見ている場所」が変わっているからである。
わたしたちは「時間」ということを、空間的にしか認識できないから、このようなことも起こる。時間の経過とともに、ものごとを見るわたしたちの位置というのは、実際に変わってきているのである。
* * *
ところで、わたしたちはどこまで「自分の視点」を離れることができるのだろうか。
「思いやる」という言葉がある。
思いやる、とは、相手の立場や気持ちになってみる、ということだろう。
自分の立場や気持ちをいったんカッコに入れ、相手ならどう思うだろうか、どうするだろうか、と考える。
さらに「思いやりをもって行動する」というと、これに加えて、相手が自分に望むであろう行動を推し量って自分が相手にしてあげる、ということになるだろう。
ところが、わたしたちはどれほど親しい相手でも、相手の気持ちになったつもりでも、相手に成り代わってものごとを見たり、感じたりすることはできない。これが一致するなら、それは一種の奇跡ともいえることで、そんな奇跡はいつもいつも望めるものではない。
わたしたちにできるのは、せいぜい自分がしてもらったらうれしいことを、相手もそうなんじゃないかな、と思って、するだけだ。
ところが相手から期待したほどのリアクションが返ってこないとき、なんとなくおもしろくなくなってしまう。わたしがあなたのためを思ってしてあげたのに……、という不満は、必ず相手にも伝わり、相手も不愉快になる。こうなると、実際、なんのための「思いやり」だかわからなくなってしまう。
昔からわたしは「ナントカのため」、という物言いには、どうもなじめないものを感じてしまっていたのである。「思いやり」というのも、そこまで結構なものなんだろうか、と思うわけである。いや、わたしが単に「思いやり」に欠ける人間であるだけなのかもしれませんが。
つまり、視点のずらし、というのは、あくまでも「わたし」という定点から、パースペクティヴ(遠近法)を変えてみる、ということであって、自分の視点を、そっくり誰かのものに移してしまう、ということではないのだろう、と思うのだ。そんなことは、できることではない。
それができるのはただひとつ。
本を読む、あるいは、映画を観るなどして、フィクションのなかに入ることだけなのだろう(あ、TVもそうだな、自分が見ないから忘れてた)。
フィクションを読むことで、わたしたちは自分以外の視点からものごとを見ることができる。
こうした経験は、おそらくものごとを見るパースペクティヴにも関連してくる。
その真っ只中にいるときは、悲劇でも、一歩はなれて見るならば、笑い飛ばせる喜劇になる。そうした柔軟な遠近感をもっていたいものだ。
いや、わたしは現実に遠近感が相当おかしくて、とくにコンタクトではなくて、メガネのときがダメで、この間ガラスの扉に激突したんですけどね。これは関係ないか。
「誰が見るか」によって、まるっきり出来事の様相が一変する、ということで有名なのが、芥川龍之介の『藪の中』である。
けれども、ここまで劇的でないにせよ、日常でもこうした食い違いというのは、わたしたちが気がつかないだけで、よく起こっているのだろう。
どうしたはずみかでこの食い違いがはっきりとした形をとることがあって、そうしたとき、自分が見ていたと思ったものは、いったいなんだったのか、と思う。
ところが、もっと頻繁に経験しているのが、同じ自分が見たできごとなのに、見方を少しずらしただけで、まるっきりちがうふうに見えてくる、という経験だ。
サマセット・モームの短編『仮象と真実』はそのことをテーマにした作品である。
手元に実際の本がないので、中野良夫『英文学夜はなし』(新潮選書)を元に書く。
ストーリーというのはこんなところだ。
フランスの内相であり、かつまた大企業の経営者、財界の大立者でもあるル・スール氏は、あるとき若いモデルに恋をした。
長年連れ添った妻は、特別不仲ではないものの、経済的な理由で結婚した相手であり、ル・スール氏に「燃えるような恋愛」の経験はなかったのである。
夢中になったル・スール氏、このモデル、リゼットのためにアパートメントまで借りてやる。そうして、夢のような二年が過ぎた。
ある日曜日、ル・スール氏がリゼットの元を尋ねてみると、なんと食卓には若い男が自分のパジャマを着て座っている。若い男は叩き出したものの、ル・スール氏、腹が立ってどうにもおさまらない。
「つまり、あなたは騙されてたってことに腹が立つらしいのねえ。面白いわ。男の人ってみんなそうなのね。自惚れが強すぎるのよ。つまらんことを大きく考えすぎるのよ。……かりにあの青年があたしの夫で、あなたの方が情人(おとこ)だったとしてごらんなさい。きっと、あなた、自然も自然、完全に自然だと思うはずよ。つまり早く言えば、こうなった以上、この問題を丸く納めるにはね、あたしがあの青年と結婚するのが一番いいんじゃない?」
…略…
ル・スール氏はちょっと意味が呑みこめなかった。が、次の瞬間には、彼女の言っている意味が、稲妻のように聡明な彼の頭に閃いた。彼はチラリと女の顔を見た。彼女の美しい眼が、いつも彼の惚れ惚れする例の瞬きをくりかえしており、赤い大きな唇には、心なしか悪戯っぽい微笑さえ浮かんでいるのだ。
まもなくリゼットと青年の結婚式が、ル・スール氏立会いの下、華々しく執り行なわれる。無事式も終わり、新婚旅行に出かけるために車に乗り込もうとするリゼットは、そのまえにル・スール氏の頬にかわいいキスをし、そっと耳打ちする。
「月曜の五時よ。待ってるわ」
この作品に対して、中野良夫はこのように書いている。
では、この場合、人間の心理の盲点「とはなにか。リゼットをめぐるル・スール氏と、そして青年。考えてみれば、実にこれはありふれた、そして単純きわまる三角関係である。ただ青年とリゼットの正式結婚を境にして変わったのは、それまでのル・スール氏が女を盗まれる被害者(コキュ)の立場であったのにひきかえ、結婚後は逆に彼が盗む方の立場に一変したというだけの話である。実態そのものからいえば、一人の女と二人の男、なんら図式に変わった点はない。だが、ただ盗まれる立場にあるかぎりは、やれ男の面子だの、やれ名誉だのと、ル・スール氏「までが息巻いて、猛烈な痴話喧嘩沙汰にもなったのであった。だが、ひとたび盗む立場に変われば、「月曜の五時よ。待ってるわ」の一言で、満足そうな溜息までつけるのである。奪られるのは腹が立つが、奪る分にはいい気持の優越感さえ味わうという、虚栄心というか、自惚れというか、男の心理の盲点を、チクリと意外な角度からメスを入れたところが愉快なのである。……
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される」とは漱石の名言だが、情に溺れては悲劇になる。だが、うまく智に働けば喜劇になる。一歩立ち離れて客観的に観察すれば、すべては喜劇に終わるというのが、所詮人生の真実なのではあるまいか。
もうこの作品に関しては、この中野の言葉以上に付け加えることは何もないのだけれど、実際にわたしたち自身、この「ずらし」をよくやっている。
つまり、時間の経過ということである。
起こったそのさなかにいるときは、どんな悲劇的な出来事でも、時間の経過とともに、その悲劇性は薄れていく。それは、わたしたち自身の「忘却」ということでもあるけれど、時間の経過とともに「見ている場所」が変わっているからである。
わたしたちは「時間」ということを、空間的にしか認識できないから、このようなことも起こる。時間の経過とともに、ものごとを見るわたしたちの位置というのは、実際に変わってきているのである。
* * *
ところで、わたしたちはどこまで「自分の視点」を離れることができるのだろうか。
「思いやる」という言葉がある。
思いやる、とは、相手の立場や気持ちになってみる、ということだろう。
自分の立場や気持ちをいったんカッコに入れ、相手ならどう思うだろうか、どうするだろうか、と考える。
さらに「思いやりをもって行動する」というと、これに加えて、相手が自分に望むであろう行動を推し量って自分が相手にしてあげる、ということになるだろう。
ところが、わたしたちはどれほど親しい相手でも、相手の気持ちになったつもりでも、相手に成り代わってものごとを見たり、感じたりすることはできない。これが一致するなら、それは一種の奇跡ともいえることで、そんな奇跡はいつもいつも望めるものではない。
わたしたちにできるのは、せいぜい自分がしてもらったらうれしいことを、相手もそうなんじゃないかな、と思って、するだけだ。
ところが相手から期待したほどのリアクションが返ってこないとき、なんとなくおもしろくなくなってしまう。わたしがあなたのためを思ってしてあげたのに……、という不満は、必ず相手にも伝わり、相手も不愉快になる。こうなると、実際、なんのための「思いやり」だかわからなくなってしまう。
昔からわたしは「ナントカのため」、という物言いには、どうもなじめないものを感じてしまっていたのである。「思いやり」というのも、そこまで結構なものなんだろうか、と思うわけである。いや、わたしが単に「思いやり」に欠ける人間であるだけなのかもしれませんが。
つまり、視点のずらし、というのは、あくまでも「わたし」という定点から、パースペクティヴ(遠近法)を変えてみる、ということであって、自分の視点を、そっくり誰かのものに移してしまう、ということではないのだろう、と思うのだ。そんなことは、できることではない。
それができるのはただひとつ。
本を読む、あるいは、映画を観るなどして、フィクションのなかに入ることだけなのだろう(あ、TVもそうだな、自分が見ないから忘れてた)。
フィクションを読むことで、わたしたちは自分以外の視点からものごとを見ることができる。
こうした経験は、おそらくものごとを見るパースペクティヴにも関連してくる。
その真っ只中にいるときは、悲劇でも、一歩はなれて見るならば、笑い飛ばせる喜劇になる。そうした柔軟な遠近感をもっていたいものだ。
いや、わたしは現実に遠近感が相当おかしくて、とくにコンタクトではなくて、メガネのときがダメで、この間ガラスの扉に激突したんですけどね。これは関係ないか。