陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「知りたい」ということ

2006-02-11 22:33:36 | weblog
「「読むこと」を考える」のなかで、最初はもうちょっと「小説」のさまざまな機能を取り出すことにしようと考えていたのだ。たとえば、ストーリーやプロットとか、場面、あるいは描写と要約、会話。そうしたらどう考えても膨大なものになりそうなので、今回は見送ることにしたのだけれど、今日はまだ手直しが終わっていないので、ちょっとそこから派生したけれど関係ないことを書いてみる。

物語の喜びは、欲望にもとづいている。わたしたちは、「それからどうなった?」という欲望につき動かされ、秘密をあばき、結末を知り、真相を見つけだしたい、と願う。

事件が起こるたび、「動機の解明が待たれます」とアナウンサーが言うのも、新聞が「識者のコメント」を載せるのも、この欲望を満たそうとしているのである。

この「知る」ということは、「支配したい」という欲望と密接に関連している。

こういうとちょっと意外かもしれないけれど、たとえばジョージ・オーウェルの『1984』を例に取ると、うまく説明ができるかもしれない。

『1984』は、いまとなっては昔になってしまったけれど、これが書かれた1949年からすれば近未来を舞台にした小説だ。その社会は、独裁者「ビッグ・ブラザー」が人々を支配している。「ビッグ・ブラザーが見ている」という標語がいたるところに張り巡らされ、実際、人々の行動は、くまなく監視されている。そうして一切の本は出版されない。

ブラッドベリの『華氏451度』にも焚書が描かれているけれど、ブラッドベリの社会はさらに、人々が考えることに向かわないよう、薬物によるコントロールなど、その管理はいっそう徹底していた。ともかく、こうした小説では、専制的な支配を可能にするため、知識の制限と情報のコントロール、そうして監視が不可欠であることが描かれている。

つまり、完全に相手を支配しようと思えば、支配する側は、支配される側の情報を完全に掌握し、逆に、支配する側の情報は一切開かさなければ良いのだ。

何か、支配といってしまうと、身近ではないように思えるけれど、実際はごく身近なものでもある。

たとえばわたしは発症してから二十年以上になる持病を抱えているのだけれど、その治療のありかたもずいぶん変わってきたな、という実感がある。最初のころは、もちろん自分が子供だったということもあるのだろうけれど、検査してもその結果を親に対してさえ詳しく説明するわけでもなく、薬も何のための薬で、どういった効果を期待して……という説明もなく、ただ処方して、こちらも言われるままに薬を飲んで、という具合だったように思う。いろんな医者にかかったけれど、なかには「自分の言うことを聞いておきさえすればいいんだ」といわんばかりの人もいた。

けれども、「インフォームド・コンセント」という言葉が一般的になり始めたころから、これもずいぶん変わってきて、お医者さんも、あるいは処方薬局の薬剤師さんも、ずいぶん詳しく説明してくれるようになった。

つまり、「知識と技術を有する専門家」が患者を支配する、という構図から、患者を「判断能力のある存在」とみなして、情報を与え、理解をうながすことによって、同意する、ということに変わっていきつつあるのだと思う(もちろんこれに付随する問題などさまざまにあって、一概に言えないのだろうけれど)。


ここで、わたしはまたちがうことを思い出す。

ペローに「青髭」という童話がある。
わたしはこれを読んだとき、娘は何を探していたのだろう、とまず思ったのを覚えている。

もちろんこれにはヴァリエーションがいくつもある、洋の東西を問わず遍在する昔話がもとになっているのだけれど、たとえば戯曲『夕鶴』のもとになった「鶴女房」などとは、根本的にちがうような気がするのだ。

これからここで機を織りますからね、入らないでね、と言われたのだけれど、中から音はするし、どんな様子なのかが気になって、つい、障子を開けてしまう、というのは、日本家屋の開放的な構造もあるのだろうけれど、よくわかるような気がする。とくに、木下順二の戯曲では、鶴のシルエットがおぼろに浮かび上がっていたのではなかったか。

むしろ、「青髭」で重要なのは、その部屋のなかに何があるかを知りたい、ということではなく、「鍵を開ける」ということ、つまり、「開けてはいけない」という禁忌を破ることなのだ。

そう考えていくと、この「青髭」の話は、ポーの『盗まれた手紙』の原型なのかもしれない。『盗まれた手紙』では、この手紙の内容が問題なのではなく、その手紙を手に入れる、ということが問題なのだった。

隠されていることを知る、というのは、力を得るということであり、相手を支配する、ということなのだ。あるいは「青髭」の娘のように、支配されている側がその関係を逆転させようと思ったら、支配する側の「隠されたもの」を知ることなのである。

わたしが小学校を転校するとき、前の学校で仲の良かった数人から、鍵付きの日記帳をプレゼントされたことがある。うれしくて、さっそく書きこんで、鍵をかけ、その鍵は引き出しのなかに入れておいた。翌日、母が夕食の席で「鍵付きの日記に何を書いているのかと思ったら、『昨日りんご病になった』って書いてあったのよ」と、家族の前で話した。
わたしはそれ以来、二度とその日記帳に何かを書くことはなかった。

これはどこの家でもあるエピソードなのかもしれない。
子供が成長して、親の支配から外に出ようとするとき、親に「秘密」を持つ。それは、その内容ではなく、「隠されていること」が重要なのである。

そうして、親はこの「秘密」を知ろうとする。もちろん、保護という側面はあるだろう。けれども、親の側が完全にすべてを掌握していた幼児の状態に、子供を留めておきたい、という欲望も、そこにはあるのではないか。


一方で、知る、ということを、すべてこの「支配」ということに還元してしまっていいのだろうか、という疑問もある。

何だかオリンピックは今日から始まるのかな? ときかく世情に疎いわたしはよく知らないのだけれど、オリンピックともなると、とりあえず日本人選手を応援したくなる、というのは、多少なりとも知っているからなのだろう。

たとえばかつて自分の家の隣に住んでいた人物が、それまで聞いたこともなかった地球の反対側の小国からオリンピック代表に選ばれたとしたら、間違いなくその元隣人のほうを応援するはずだ。

わたしたちは、好意を持つ人のことを知りたいと思うし、逆に知っているということは、それが悪いことで知ったのでない限り、容易に好意に変わっていく。

たとえばリカちゃん人形に「リカちゃんの父親は香山ピエールで指揮者、お母さんは……」という物語がついているのも、それ自体はただの人形でしかない「リカちゃん」に、物語を与えることで、わたしたちがリカちゃんを「知り」、「好意」を喚起させようということだ。

わたしたちは、自分の親しい人間を深く理解したいと思う。理解のためには、まず相手を知らなければならない。その親しさが増すにつれ、知っていることも増えてくるけれど、反面、それにはきりがなく、親しくなればなるほど、いっそう知りたくなる。逆に、「この人間のことはよくわかった」と思うときは、「わかったから、もう十分」と、それ以上つきあうのをやめようとするときだ。「その話、もう聞いた」というのは、「話すのをやめろ」「自分は聞きたくない」という意思表示だ。よく知っていても、聞きたい話なら、わたしたちは何度でも耳を傾ける。

この相手を知りたい、理解したい、という気持ちと、相手を知ることによって支配したい、という欲望は、同じものなのだろうか。

けれども、「知る」ことと「理解する」ことは、必ずしも同じではないし、少なくとも知りたいという気持ちの背後には、相手を支配したい、という欲望があるのではないか、と、自分に問い返してみることには意味があると思う。自分が求めるのは、支配したりされたり、という関係ではない、と思うなら、「自分には知る必要のないことがら」の存在を認め、たとえ鍵を持っていたとしても、その部屋の前を通り過ぎる潔さを持ちたいと思う。

わたしにはよくわからない。
ただ、ここでもういちど物語のことを考えてみる。

わたしたちは先を知りたい、と思う。理由を知り、隠された秘密を暴き、結末を見届けたい。
たとえそれが、その物語を支配したい、という欲望にもとづいたものであっても。
けれども、気に入った物語をもういちど読みたくなるのは、なぜなのだろうか。先は知っている、結末も知っている、それでもどこまで行っても別の解釈はありうるし、理解はわたしたちの理解をすり抜けるからなのだろうか。あるいは、何度も何度も読み返し、知っていることを、その物語がわたしたちの支配下にあることを確認するためなのだろうか。

何か、分類不能のよくわからないことを書いてしまった……。