陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「読むこと」を考える その5.

2006-02-06 21:52:35 | 
(※始めに:昨日のブログは内容が未整理のままアップしたために、一部に用語の混乱が見られますので訂正いたしました。どうか本日分と併せて昨日分を再度お読みください)

2.誰の話なのか

物語のなかで、登場人物というのは、決定的に重要である。作品の中で起こるすべてのことは、そのなかの人物についての理解と関連する。逆に言えば、読者が登場人物に対して理解するために、あらゆるできごとは起こるのである。

それはたとえ、大きな鯨を追いかける話であろうが、人妻の不倫の話であろうが、学生が金貸しの老婆を殺そうが、くじびきの話であろうが、できごとは、かならず人物が(それは擬人化された動物である場合も、ロボットである場合もあるにせよ)それにたいしてどう考え、どう行動するかをひきだすために起こる。

したがって、小説を読むという経験の中心的なものは、人物を理解することなのである。

まず主要人物を確定する。
その人物に関心が当てられているか、複雑な性格を与えられているか、強い個性を与えられているか。

サンプルの「八人の見えない日本の紳士たち」の場合、非常にはっきりしている。「娘」である。

主要人物を確定したのち、この人物が表現しているものは何か、に気をつけながら読んでいく。

つぎに副次的人物を捜す。サンプルの場合、登場人物がきわめてかぎられているので、非常に見つけやすいのだが、登場人物が多くなると見つけにくいこともあるかもしれない。けれどもこの副次的人物というのは、きわめて重要な役割を背負っている。

・多くの場合、副次的人物というのは、最大公約数的人物である。平均的なものの見方をし、主要人物の個性を計る目安となる。あるいは、このサンプルのように、主要人物である「娘」の強さを引き立てるための「弱さ」を体現する存在として現れる。

・副次的人物は、場面に応じて複数であることもよくある。

わたしたちはこの副次的人物があまり目立たないことが多いため、その登場を見逃しやすい。けれどもこの副次的人物を忘れていると、主要人物の行動の特質も、十分に理解しないままになってしまうのである。

このサンプルでは「娘」に対比する存在として「婚約者」が描かれる。では、「八人の見えない日本の紳士たち」は、何なのだろう?

彼らもまた、副次的人物なのである。

「八人の見えない日本の紳士たち」と「娘」の何を対比させて見たらよいのだろう。
このように問題をたてることによって、わたしたちの「娘」に対する理解も深まっていく。

(この項つづく)