陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「読むこと」を考える その6.

2006-02-07 22:07:39 | 
(※サンプルの「八人の見えない日本の紳士たち」はhttp://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/gentleman.htmlで読むことができます。)

3.焦点化 ――誰が見ているのか

物語には、わたしたちに話す語り手とは別に、誰の見方が提示されているか、という問題がある。

たとえば森鴎外の『雁』は、語り手は「僕」であるが、このような場面がある。

 岡田は窓の女に会釈をするようになってから余程久しくなっても、その女の身の上を探って見ようともしなかった。無論家の様子や、女の身なりで、囲物だろうとは察した。しかし別段それを不快にも思わない。名も知らぬが、強いて知ろうともしない。標札を見たら、名が分かるだろうと思ったこともあるが、窓に女のいる時は女に遠慮をする。そうでない時は近処の人や、往来の人の人目を憚る。とうとう庇の蔭(かげ)になっている小さい木札に、どんな字が書いてあるか見ずにいたのである。

「不快にも思わない」「知ろうともしない」は、語り手の「僕」ではなく、岡田の意識をである。この作品では、随所に岡田の観点、あるいはお玉の観点、末蔵の観点から出来事に焦点があてられている。ストーリーは必要に応じて、岡田を通して、あるいはお玉を、末蔵を通して焦点化されている。
焦点人物は、語り手と同じであることもあるし、異なっている場合もある。サンプルの「八人の見えない日本の紳士たち」のように、語り手=視点で、作品を通じて動かないものもあれば、『雁』のように、視点が移動する作品もある。

わたしたちは、語り手ばかりでなく、「誰の目を通して出来事が見られているのか」を理解しなければならない。

わたしたちは、日常生活でも「あなたがわたしの立場だったら、いま言っているようなことは言わなかったにちがいない」「あなたがそこにいたら、そんなことは言わないだろう」というように、立場が変わればものの見方、考え方も変わってくる。たとえば『こころ』が、静に焦点をあてて書かれていたら、まったくちがった作品になっただろう。

そうして、このことはつぎのふたつの問題を派生的に生むことになる。

a.いったいいつの時点で出来事に焦点を絞っているのだろうか?

 私が先生と知り合いになったのは鎌倉である。その時私はまだ若々しい書生であった。(『こころ』)

これは、出来事がすべて起こってしまった後、振り返って語っている。こうしたとき、語り手は何が起きるか、すべて理解しているし、多くの場合、その出来事の原因を理解しているし、その結果どうなったかまで知っている。


僕は、きょうから日記をつける。このごろの自分の一日一日が、なんだか、とても重大なもののような気がして来たからである。人間は、十六歳と二十歳までの間にその人格がつくられると、ルソオだか誰だか言っていたそうだが、或いは、そんなものかも知れない。僕も、すでに十六歳である。十六になったら、僕という人間は、カタリという音をたてて変ってしまった。他の人には、気が附くまい。(太宰治『正義と微笑』)

この日記、あるいは書簡という形式は、できごとが起こったほとんど直後に記される。日記を書いたり手紙を書いたりしている人物は、出来事の全貌を知ってはいない。こういうとき、「つぎに起こる出来事」は、なんでも驚きになることもある。

サンプルの「八人の見えない日本の紳士たち」の語り手が焦点化している出来事について、いつ語っているのか?

b.焦点人物は、登場人物についてどこまで知っているか

 女王様はさっと赤くなった。もしかしたら、ただ日に焼けて赤くなってただけかもしれないんだけど、こんなに近くまで来て、やっとぼくはあの子が日に焼けてることに気がついたんだ。(アップダイク『A&P』私訳)

このサミーは「女王様」と彼が呼ぶ、水着のままスーパーマーケットに入ってきた女の子のことを、ほとんど知らない。彼女は、サミーが思っているような女の子ではまったくないかもしれない。

 振り返って王女を見つめた若者は、並み居る憂慮に満ちた面もちのなか、ひときわ蒼白な顔で坐している王女の眼をとらえた。魂の相寄るふたりだけが持つ、一瞬の以心伝心の能力でもって、若者は王女がどちらの扉の向こうに虎が身をかがめ、どちらの扉の向こうに女が立つか、知っていることを認めた。そうであってくれたら、と、かねてより望んでいたとおりに。(ストックトン『女か虎か』)

若者は王女のことを知っている。十分に知っているからこそ、この話に緊迫感が生まれる。

焦点化の軸となる意識は、出来事を、あるいは登場人物を、どこまで知っているのだろうか。その知識が限られたものである場合、まちがっている可能性は十分にある。注意深い、有能な読者は、この意識の誤りを指摘することもできるのである。

サンプル「八人の見えない日本の紳士たち」の焦点人物である「作家」は、どこまで「娘」や「婚約者」について知っているのだろう? 彼の認識は、まったく正しいのか?

ここまでであげた問題点をもういちどまとめてみよう。

1.誰が語っているのか?
2.誰の話なのか?
 a.主要な登場人物はだれか?
 b.副次的登場人物はだれか? また、彼らはどのような機能を担っているか?
3.誰が見ているのか?
 a.この話はいつの時点で語られているのか?
 b.見ている人物は、登場人物についてどこまで知っているのか?

このような観点から読んでいけば、この作品がぐっとよくわかる……ということはないだろうか?

(たぶん明日が最終回)