陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

手紙について考えた

2006-02-21 13:36:09 | weblog
つい先日、手紙を頂いた。

最近では連絡も、もっぱらメールになってしまって、郵便受けに入っているのはダイレクトメールか、そうでなければ携帯や電話料金、カードの請求明細ばかりで、個人的な私信など、年賀状を除いては入っていることもなくなったのだが、そういうなかで届いた書簡はうれしかった。

文面はごく簡単なお礼状だったのだけれど、なにより、罫のない便箋に記された濃紺のインクの文字は、字くばりが行き届いたもので、ひと目見て、ああ、きれいだな、と思ったのだった。

習字ならいざしらず、日常目にするときの肉筆の文字は、一字一字がきれいかどうか、ということよりも、大きさが整っていることと、字配りによるところが大きい。不恰好なわたしの字も、大きさを揃え、配列に気をつけさえすれば、美しくまではならないにせよ、比較的見やすい、読みやすい字になる。

大きさを整えるためには、原稿用紙はありがたいし、私信を友人宛てに頻繁に書いていたころは、Life! の方眼に罫が入ったレポート用紙を使っていた。字より絵のほうが多いわたしの手紙には、その罫がたいそう使いよかったのだ。

そうではない、正式な手紙というのを、これまで何通ぐらい書いただろう。思い起こしても、片手で十分なぐらいではあるまいか。少しでも形が整いやすい万年筆を使って、慣れない縦書きで苦労しながら大きさを合わせて、何枚も反故にしながら、子供っぽい字を書き連ねた記憶がある。

手紙というと、なんといっても思い出すのが漱石の『こころ』の先生の手紙だ。
あの手紙は巻紙に毛筆でしたためてあったのだろうか。
確か、『坊ちゃん』には、清から来た手紙を坊ちゃんが読むシーンがあって、巻紙の読み終えた部分が、風にひらひらする、という、おかしみのある、けれどもそれ以上に、坊ちゃんを思う清の心情に胸がいっぱいになってしまうような描写があったように記憶している。

もうひとつ思い出すのは、ラクロが書いた『危険な関係』で、これは当時は多かったのだけれど、全篇、手紙から成り立っている。ストーリーを進めていくのは、不道徳な公爵夫人宛てに、若い人妻を誘惑する自分の手練手管の成果を報告するヴァルモンの手紙である。なかには「女の尻の上で書いた」という手紙まであって、ここまで正々堂々(?)と不道徳であるというのは、なかなか天晴れなことであるな、と、おもしろく読んだ。
このときの手紙は、羽ペンにインクをつけながら書いたのだろうが、紙はなんだったのだろう。

わたしが絵入りの手紙を書き始めたのは、もちろん『あしながおじさん』の影響があったからだ。
児童文学に分類されることが多いこの作品は、孤児であるジェルーシャ・アボットが、ヴァッサー女子大での生活を報告したもの。したがって、児童文学というより、年齢的にはヤング・アダルトのほうがふさわしいのだけれど、やはり古きよき時代、というか、同じヴァッサーでも、メアリ・マッカーシーの『グループ』と比較すると、同じ場所を舞台にしたものだとは信じられない。

ただ、わたしは子供時代にはこの本は読んでいなくて、英語の勉強用の教材として、直接英語で読んだ。英語の読解力の不足がかえって幸いしたのか、比較的起伏のない、たいして事件も起こらない手紙ではあっても、大変おもしろく読むことができた。そうして、こんなふうに絵を入れるのは楽しいなぁ、と、さっそくまねを始めたのである。

もうそんなものを書くこともなくなってずいぶんになるけれど、たまにおもしろい出来事にでくわしたとき、絵入りで報告できたらな、と思うこともある。
とはいえ、そんなものを読まされる側は、さぞ迷惑なことだろう。

そういえば、ロラン・バルトは『テクストの快楽』のなかで、こんなことをいっていた。引用元を確かめずに書くのだけれど、読者をたいくつさせる文章というのは、まるで子供のおしゃべりのような、文章のおしゃべり。単に書きたいという欲求の結果から生まれた、言語活動の泡に過ぎない……。

はぁ……。
気分が暗くなってきた。
おしゃべりにつきあってくださって、どうもありがとうございます。

明日にはサイト更新するつもりでいます。それは「おしゃべり」以上のものであればよいな、と思っております。
それじゃ、また。