陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「読むこと」を考える その1.

2006-02-01 22:26:15 | 
1.わたしたちは「読むこと」に何を求めているのか

たまに、読み終わって「ばかやろう」と言いたくなる本、というのがある。
もうずいぶん昔に読んだ本だけれど、いまだによく覚えているそんな一冊に、スー・タウンゼント『女王様と私』(第三書館)がある。

舞台はイギリス、政変で王室が廃止されることになって、ロイヤル・ファミリーがそっくり下層階級が身を寄せ合って暮らす裏長屋に住むことになり……、というもの。エリザベス女王とか、チャールズ皇太子とかが実名で登場して、英王室のことについて詳しければ、それなりに笑える内容なのだろうが、そういうものに知識もなければ関心もないわたしにとっては、めりはりのないストーリーに王室のゴシップをちりばめただけの印象だった。

だが、わたしが腹を立てたのはそういうことではない。この話が、いわゆる夢オチ、起きてみれば一切が夢だった、という結末だったからである。

もちろんこの夢オチは中国の『枕中記』(「邯鄲の枕」という諺のもとになった唐代の伝奇小説)や『不思議の国のアリス』など、昔からいくつかの作品で使われている。けれども、そういう作品は、結末が主人公の「夢」であったことに、十分な必然性があるため(言葉を換えれば、読み手が「夢」であることを無理なく受け入れられるため)、「夢オチ」じゃないか、許せん! と、本を投げ捨てたくなることはない。

つまり、「夢オチ」が頭に来るのは、波乱に満ちたストーリーだったはずが、収拾がつけられなくなった作者が、ただ終わらせるためだけにもってきた、粗雑で乱暴な結末だからである。

おそらく、こんな経験はだれにでもあるだろう。
「夢オチ」でなくても、読んでいくうち、だんだん不安になってきて(というのも、本には物理的な限界というものがあって、わたしたちは残りページ数によって、結末が近いことを否応なく知らされるからだ)、予想通り、大慌てでつじつまを合わせたような結末を読まされて、がっかりした経験が。

わたしたちはどうして粗雑で乱暴な結末を読まされると腹が立つのだろうか。

たとえば、人と会ったときのことを考えてみよう。
「このあいだ、おもしろいことがあった」
と相手が言ったとする。
聞いた側は、その「おもしろいこと」を聞かせてくれるものと期待しながら、話の続きを聞く。
話す側は、普段の語り、たとえば仕事先での業務連絡の話とはちがって、聞く側が「おもしろい」と思ってくれるように話をする。
つまり、コミュニケーションというのは、聞き手、話し手双方の共同作業という側面がある。

本を読むというのも、これと一緒で、わたしたちは、この本は、おもしろい話、あるいは泣かせてくれる話、意味があると感じさせてくれる話、つまり「読むだけの価値がある話である」と期待して、読み始める。

そうして、時間をかけて、ページを1ページずつめくりながら、筋を追いつつ、先の展開を予想し、物語が展開するにつれて、そのずれを修正しつつ、読んでいく。

ここでコミュニケーションを行っているのである。

ところが「夢オチ」というのは、この共同作業を、最後の段階で作者が放棄したからにほかならない。わたしたちがいままでやってきた作業は、作者によって、「意味がないのだ」と宣言されたに等しい。だから、「夢オチ」は、作者の裏切り行為ともいえるし、わたしたちは腹が立つのだ。


ところで、作者がわたしたちを裏切ってはいないはずなのだが、どうにも自分はこの共同作業がうまくやれていない、という感想を持つことがある。

先が読めない。展開についていけない。いったい何を言っているのかわからない。読むには読んだけれど、そうして、作者はなにか言っているらしいのだけれど、自分にはそれがどうもはっきりわからない。

これは、自分に理解する力がないんだろうか?
そんなふうに思ったことはないだろうか。

そうではないんです。
「読む」というのは、いくつかの約束事がある。
わたしがこれからここで書こうとしていることは、ほとんどの人が、無意識のうちにやっていることだと思う。
けれども、それをもう少し意識的にやることで、小説から、もっと多くのものを引き出せる。共同作業をうまく進めることができる。

そういう約束事を、いくつか紹介してみたいと思う。

なるべくお勉強っぽくならないように、ごく短い短編をひとつ読みながら、「読む」ということについて考えてみたい。しばらく、おつきあいください。

(この項つづく)