陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

食べることについて考えた

2006-02-17 19:01:28 | weblog
数日間、病院で食事をした。

ことさらいうまでもないことだけれど、病院の食事というのは、おいしいものではない。薄味、というより寝ぼけたような味だし、どれもぬるいし、おそらくは高齢者が嚥下しやすいようにという配慮なのだろうが、どれにもとろみがついていて、なんだかぬるぬるしたものばかり食べていた。

ただ、一日一度の診察と、検査に呼ばれて行くほかは、まったくメリハリのない生活なので、食事というのは、たとえそのようなものでも楽しみになってくる。
楽しみである以上は、あまり文句を言わず、楽しく食べたい。
ところが、病室というのは、カーテンで区切られた狭いスペース、小さなヘッドボードの引き出しにトレーを載せて、壁に向かって、もしくはTVに向かって食べるのだ。これでは「もそもそとめしを食う」(いがらしみきおのマンガ『ぼのぼの』より)しかない。

どうしたら少しでも優雅に食事ができるか。

となると、B.G.M.である。
わたしのi-podには、あまり背景音楽に向いたものは入っていないのだが、とりあえずキース・ジャレットをかけてみた(うなり声が気になるので、のちにチェット・ベイカーに変更)。

つぎに、お行儀は悪いけれど、本を読みながら食べてみる。
生憎、食事に適した本、という基準で本を選ばなかったのだが、仕方がないから手元にあった『貨幣の思想史』の続きを開いた。

すると、この食事が意外に本を読みながらに適していることに気がついた。取り分けたり、ほぐしたり、という苦労がないぶん、片手で楽に食べられるのである。
低い音でチェット・ベイカーがロマンティックに「枯葉」なんかを歌うのを聞きながら、19世紀の経済状況を読み、味のない食事をするのは、それほど味気ないものではなかった。

なんというか、食べ物に対して不平を言うのは、あまり好きではないのだ。
もちろんおいしいものを食べるのは好きだし、行列してまで食べようという熱意はないけれど、外食するならおいしいものが食べたい、とは思う。
それでも、出されたものは、少々期待に外れようと、クールに(笑)、ニール・テナントが歌うみたいに、超然として食べたい、という気がする。

実は、身近に(というのは、うちの母親なんだけれど)まずかったりすると、箸もつけない人間がいて、子供心に、ああいう態度はなんだか子供っぽいナーと思っていたのである。子供っぽい親を持つと、子供は早くにオトナになるのである。

ある面では給食で鍛えられた、ということもあるのだろう。
いまはずいぶんおいしくなり、ヴァラエティ豊かにもなったようだけれど、わたしが小学生のころは、まだまだおいしいというには程遠い時代だった。

なんといっても、食パンがダメだった。食用油そのもののようなマーガリンも、甘いだけのジャムも、ぱさぱさの焼きもしないパンを、ちっとも食べやすくはしてくれない。おまけに量も多くて、食が細かったわたしは、いつも持って帰っていた(あー、それはきっと捨てられてたんだろうなー)。

どうも給食における「教育的観点」というのは、もっぱら「時間以内にすみやかに食べる」ということと、「偏食をなくす」という、この二点のみに置かれていたのではあるまいか。
「ともに食べることで親睦を深める」とか、「さまざまな味や料理を経験する」という観点など、一切考慮されていなかったにちがいない。

偏食だけはなかったわたしは、その面ではそれほど苦労はしなかったけれど、教室の隅で掃除の時間になっても残って給食をもてあましている子の姿は、いまでも記憶に残っている。あれはつらかっただろうな。

いまはどうなんだろう。
アレルギーに対する配慮なんかもずいぶんされるようになったみたいだから、残すことにもおそらくはとやかく言われたりはしなくなったにちがいない。
それでも、どこまでいっても給食は給食で、どうしたってそこまではおいしくはないだろう、けれども「おいしくないものも文句を言わず、それなりに楽しく食べる」訓練だと思えば、やはり意味はある。

わたしは食べ物を残すのはいやだけれど、残したからといって「アフリカでは…」みたいな物言いをするのは好きではない。自分が残すことと、第三世界の食糧問題の間にはまったく因果関係はないし、そうした問題を「残す」か「がまんして全部食べてあとでおなかを痛くする」の次元で語ってはいけないと思う。
残さなきゃならなくなったら、「ああ、失敗したな、もったいないことをしたな」という経験として、自分のなかに蓄積していけばいいだけの話なんじゃないだろうか。自分が食が細かったから、ほんとうに声を大にして言いたいのだけれど、食べられなくなっても食べなきゃいけない、というのは、これまたつらいのだ。残したくて残しているわけではない。

食べることは、本来、楽しいことだ。
料理だって楽しいし、自分のところの猫の額ほどのベランダで取れたブルーベリーやバジルの葉っぱを料理に使うのも、ことのほか楽しい。

一緒にいて楽しい人と食事ができるのは、ほんとうに幸せなことだし、そうした経験は大切な思い出として、心に刻まれている。

問題なのは、そうではないときだ。だけど、そんなときでも、クールに自分の経験として刻んでいきたい。

それに、どんな食事であっても、つねに作り手はいるのだし、自分のために食材として調理された生き物(動物であれ植物であれ)がいたことも、忘れちゃいけないと思う。

ところでね、ときどき、まずいものって食べたくなりません?

いまの飲みやすいやつじゃなくて、昔のセロリくさい野菜ジュースが飲みたくなったり、胸の焼ける焼きソバが食べたくなったり。
これ、いままでわたしは共感してもらったことがないんだけど(笑)、たまに、「ああっ、マズいものが食べたいっ」って思うわたしはちょっとヘンなんでしょうか?(笑)

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