陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「読むこと」を考える その4.

2006-02-05 20:28:14 | 
さて、ここで二日に渡ってグレアム・グリーンの短編『八人の見えない日本の紳士たち』を読んだ。

一読して、もう十分この短編を味わいつくした、という人は、以下の文章は読む必要がない。

けれども「いったい何が書いてあったんだろう。どうもピンとこなかった」
「作者はこの短編を通して、何が言いたかったのだろう」
「これは日本人に対する(あるいは女性に対する)偏見があるのではないか」
と思った人は、どうかもうすこしこの先、おつきあいを。

まず、読んでいく前に確認しておきたいのが

「作者の意図」という見方はしない

「この作品を通して作者はいったい何が言いたかったのだろう」という問いを、ここではしない。
というのも、もし、作者にそのことを聞く機会があったとして、仮にそれにひとことで答えてくれたとしたら、なぜわたしたちはその小説を読まなければならないのだろう? 本を読むかわりに、作者が主張する意見に耳を傾ければそれですむだけの話だ。

ただ、おそらく多くの作家はひとことでは答えてくれない。
作家のフラナリー・オコナーは、「物語の意味」という短いエッセイのなかでこのように言っている。

物語は、他の方法では言えない何かを言う方法なのだ。作品の意味が何であるかを言おうとしたら、その物語の中の言葉がすべて必要である。……それは何についての物語か、とたずねる人がいたら、正当な答えはただ一つ、その物語を読めと言ってやるしかない。(フラナリー・オコナー「物語の意味」『秘儀と習俗』所収 春秋社)

ここで確認しておこう。
作品の意味とは、作者が心に抱いた何らかの考えではなく、作者が作品のなかに表現したことにある。わたしたちは作者の考えを聞くために読むのではない。わたしたちが見つけた意味が、たとえ作者が考えたこととはちがっていたとしても、それはそれでかまわない。
まず、こういう立場から読んでいく。

では、まずどこから手をつけていったらいいのか。
とりあえず、ここから始めてみよう。

1.誰が語っているのか

これは簡単。作中に「わたし」という一人称が出てきている。
この「わたし」は、本を出版することになっている「娘」と「同業者」と言っていること、そうして「娘の母親」と同年代であると言っていることから、中年の、経験を積んだ作家であることが理解できる。

ただ、この「誰が語っているのか」というのは、それほど単純な問題ではない。

まず第一に注意しなければならないのが、「わたし」≠作者ということだ。
わたしたちはこのように、情報として知っている作者の経歴と、ある作中人物とが近い場合、とくにそれが語り手であったりすると、容易に作者と混同して考えたがる(たとえば『舞姫』の語り手「余」(太田豊太郎)=森鴎外と考えている人が非常に多い!)。

けれども、以下のような物語であっても、「語り手」は存在する。

 六月二十七日の朝は、晴れ渡った空の下、さわやかな夏の日となった。花は一面に咲き乱れ、草は青々と繁っている。村の人々は、郵便局と銀行の間の広場に、十時ごろから集まり始めた。人口が多いために、くじをひくのに二日もかかってしまい、六月の二十日から始めなければならないというような街もあるらしいのだが、三百人ほどしかいないこの村では、全員がくじをひいても二時間もかからないうちに終わってしまうので、午前十時に始めても時間内に終わるどころか、村人たちが昼食を取りに家に帰る時間も十分にあるのだった。(シャーリー・ジャクスン『くじ』私訳)

こうした「わたし」という語り手が出てこない物語であれば、わたしたちはいよいよ作者が読者に語って聞かせてくれているのだと考えてしまう。

というのも、この声の主は作品の中には登場しないし、作中人物のだれも知らないことを教えてくれるからである。
ただ、この声を作者の声であるとするのは、あまり得策ではない。

 従四位下左近衛少将兼越中守細川忠利は、寛永十八年辛巳の春、よそよりは早く咲く領地肥後国の花を見すてて、五十四万石の大名の晴れ晴れしい行列に前後を囲ませ、南より北へ歩みを運ぶ春とともに、江戸を志して参勤の途に上ろうとしているうち、はからず病にかかって、典医の方剤も功を奏せず、日に増し重くなるばかりなので、江戸へは出発日延べの飛脚が立つ。(『阿部一族』)


 越後の春日を経て今津へ出る道を、珍らしい旅人の一群れが歩いている。母は三十歳を踰えたばかりの女で、二人の子供を連れている。姉は十四、弟は十二である。それに四十ぐらいの女中が一人ついて、くたびれた同胞二人を、「もうじきにお宿にお着きなさいます」と言って励まして歩かせようとする。二人の中で、姉娘は足を引きずるようにして歩いているが、それでも気が勝っていて、疲れたのを母や弟に知らせまいとして、折り折り思い出したように弾力のある歩きつきをして見せる。近い道を物詣りにでも歩くのなら、ふさわしくも見えそうな一群れであるが、笠やら杖やらかいがいしい出立ちをしているのが、誰の目にも珍らしく、また気の毒に感ぜられるのである。(『山椒大夫』)

このふたつの作品は、ともに森鴎外の作品である。
そうして、この語り手は、ともに作品のなかには登場しない、例の「何でも知っている」語り手である。
けれども、このふたつの作品の語りの声はずいぶんちがう。ともに「森鴎外がわたしたちに話して聞かせてくれている」と思ってしまうと、このふたつの「語り」の声のちがいを見逃すことになってしまう。

こういう語り手のことを「含意された作者」と呼ぶこともあるのだけれど、とにかく、ここで理解しておいてほしいのは、どんな作品であっても、そこには「語り手」がいるということだ。
わたしたちは、まずこの語り手がいることに、着目しよう。

この語り手は、「わたし」「ぼく」「おれ」「あたし」「余」「吾輩」「拙者」と、さまざまな一人称で語る、作品の登場人物なのか。登場人物であるとすれば、『坊っちゃん』のように、中心的に活躍するのか、それとも『雁』のように、脇へ退いて物語の中心となる人物の行動を教えてくれるのか。あるいは、最初は「わたし」として登場したはずなのに、ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』のように、ストーリーを紹介したあと、どこかへ行ってしまうのか。『こころ』のように、途中で語り手が交替するか。

→サンプルにあげた「八人の見えない日本の紳士たち」では、中年の経験を積んだ作家の「わたし」が語り手となっている。この物語の「わたし」は、ストーリーの中心人物ではない。

ここで疑問がひとつでてくる。
『坊っちゃん』のように、作品の中心人物が語り手となる、というのは、よくわかる。
そうでなくて、『雁』や、あるいはフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』、この「八人の見えない日本の紳士たち」のように、語り手が作品に登場するにもかかわらず、主要な登場人物ではない作品の語り、というのは、どのような意味をもつのかを考えてみよう。

・「わたし」として登場する語り手は、あらゆることを知っているわけではない。そのために、主要な登場人物について、あるいはできごとについて、いくつものことがわたしたちの目から隠されていることが暗示されている。「語り手」はこれから起こることを知らないこともあるし、予測不可能であることが緊迫感を生むこともある。あるいは誤った判断を下すこともある。「語り手」が判断を修正するたびに、読者の理解も段階を追って深くなる。

・「わたし」は主要人物に関心を持っている。好意であるにせよ、嫌悪感であるにせよ、「わたし」が持っているその関心を媒介に、わたしたちはすみやかにその主要人物を好きになったり、キライになったり、途中でそれが裏切られたりして、とにかく通り一遍ではない関心を持つことになる。

・「わたし」はかならずしも公平ではなく、鋭敏でないことも、観察力があるわけでもなく、信頼できない場合がある。そういうとき読者であるわたしたちは、自分の力でその見方を修正するようになる。たとえば「八人の見えない日本の紳士たち」でも、この語り手の見方をそのまま鵜呑みにできるのだろうか? もしかしたら、この語り手は、若く美しい作家の誕生にジェラシーを覚えているのでは? そう思ったら、わたしたちは、独力でその証拠を集める気になる。つまり、読者が作品により積極的な関わり方を可能にするのである。

・読者は、主要な登場人物だけでなく、「わたし」という語り手をも深く知ることになる。
そうして、この語り手を読者がどう判断するかによって、人間や動機について判断をくだすことがいっそう複雑になっていく。

このように、作品の中に登場する語り手というのは、なかなかおもしろい存在なのである。
わたしたちは「誰が語っているのか」をまず見つけ、そして、その語り手を疑ってみなければならない。

(この項つづく)

サイト更新しました

2006-02-04 22:42:47 | weblog
“「読むこと」について考える”を書くはずだったんですが、サイトにあたらしいコーナー「陰陽師的音楽堂」を作ってたら、えらく時間がかかっちゃって、今日はお休みです。

こちらにときどき思いつきで書いていた、音楽関連の文章をまとめたコーナーです。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/
思いっきり偏ってるうえに、記事もほんのちょっぴりしかありませんが。
よかったらのぞいてみてくださいね。

* * *

えへへ、スピーカーを買ったんです。i-PodをさしこむBoseのやつです。
物欲番長に屈さない、と暮れに自戒も込めて書いたのに(蟹座の項は自分に言い聞かせるために書いたのです)、買ってしまいました。
まぁ一月は二日しか休まずにせっせと働いたから、いいかなって。
すんごいうれしいです。

これまでスピーカーは別の部屋にあったから(って、すごい広いところに住んでるみたいに聞こえるけれど、実際、集合住宅じゃたいしたボリュームでは聞けませんものね)、雑用をするときはヘッドフォンで聞いてたんですが、それはそれで不都合なときも多々あったりして、一日の大部分を過ごす部屋にスピーカーがほしいってずっと思ってたんです。

ああ、また物欲番長に屈してしまった…。
さて、がんばって働こう。

ということで、明日から“「読むこと」を考える”、再開しますので、また遊びに来てください。

ということで、それじゃまた。


「読むこと」を考える その3.

2006-02-03 22:20:51 | 
グレアム・グリーン 『八人の見えない日本の紳士たち』(後編)

 わたしは娘に聞いてみたかった。編集者は君にほんとうのことを言っていると、まともにそう信じているのか? 編集者だって人間だ。ときには若く美しいことの利点を過大に評価することだってあるかもしれない。『チェルシーの潮流』が五年後もまだ読み継がれるだろうか? 努力を要求される年月に覚悟はできているか? 「なにひとついいものが書けない、ひたすらに続く挫折」の期間に? 年齢を重ねても書くことはたやすくはならず、日々の努力はしだいに耐え難いものとなり、君の言う「観察力」は年を重ねるうちに衰えていく。四十代になれば、君は将来性ではなく、仕事によって評価されるのだ。

「あたし、つぎはサントロペについて書こうと思ってるんだ」

「そこに行ったことがあるなんて知らなかったよ」

「行ったことなんかない。新鮮な視点がすっごく大切なんだってば。あたしたち、半年ぐらいそこに住んでもいいかもね」

「そのころにはアドヴァンスもたいして残ってないだろうけどね」

「アドヴァンスはただのアドヴァンス。五千部売れたら15%印税が入るし、一万部を超えると20%になる。もちろんつぎのアドヴァンスも入ってくる。つぎの本を書き終えたら、だけど。『チェルシーの潮流』が当たったら、すごい額よね」

「当たらなかったら」

「ドワイトさんは売れるって言ってた。そういうことはよくわかってるはずよ」

「ぼくの伯父さんは元手に1200ポンド出してくれるみたいだ」

「けど、それじゃどうやってサントロペに行けるのよ?」

「たぶん君が帰ってきてから結婚したほうがいいのかもね」

娘の物言いはひどくとげのあるものだった。「『チェルシーの潮流』が結構売れたら、あたし帰ってこないかもね」

「よせよ」

こちらを見た娘は、それから日本の紳士に目を遣った。それからワインを飲み干した。「ケンカしたいの?」

「とんでもない」

「つぎの本のタイトルを決めたんだ。『紺碧の青』っていうの」

「紺碧っていうのは、青のことじゃなかったっけ」

娘はうんざりした顔で婚約者を見た。「小説家なんかとほんとは結婚したくないんでしょ?」

「君はまだ小説家じゃない」

「あたしはそうなるように生まれついてるの。ドワイトさんがそう言ってたもん。あたしの観察力って……」

「わかった。そのことはもう聞いたよ。だけどさ、君の観察力をもうちょっと自分ちの近くで発揮できないかな? このロンドンとかで」

「『チェルシーの潮流』でもう書いたもの。自分が書いたこと、もういちど繰り返したくない」

 勘定書はさきほどからふたりの横にあった。青年が財布を取りだして払おうとしたが、娘は引ったくって届かないところに置いた。「これはあたしのお祝いだから」

「何の?」

「もちろん『チェルシーの潮流』の。ねえ、あなたってすごく見栄えがすると思う。だけど、ときどき――あんまり合わないのかもしれない」

「ただぼくは……君を怒らせるつもりはなくて……」

「いいの。ここはあたしが払う。それと、もちろん、ドワイトさんが」

 青年が娘の言い分に従ったちょうどそのとき、ふたりの日本人が同時に口を開き、あわてて止めると、お互い、相手に頭を下げた。まるでドアのところで鉢合わせでもしたかのように。

 最初に一対の人形のようだと思ったふたりに、実際のところ、かくも著しい相違があろうとは。同じ種類の美しさの下に、一方には弱さが、他方には強さが隠れている。娘の19世紀初頭風の部分が、麻酔の助けも借りず、1ダースもの子供が産めるという点であるのに対して、青年のそれは、ナポリで最初に出くわした黒い瞳に、あっという間につかまってしまうだろう、というところにあるように思われた。いつか娘の本棚に1ダースの本が並ぶ日が来るのだろうか。それもまた麻酔なしで生み出さなければならないものだ。わたしは自分が『チェルシーの潮流』が惨憺たる結果に終わったあげく、娘が写真のモデルになり、青年はセント・ジェイムズ街でワインの商いで堅実に身を立てることになればいい、と考えていることに気がついた。娘には、彼女の世代のハンフリー・ウォード夫人にはなってもらいたくはない――それほど長くは生きていられそうもなかったが。老いのおかげでわたしたちは、実に多くの怖れが現実になるのを見ずにすませることができる。ドワイトなる人物は、どこの出版社に勤務しているのだろう。娘が吹聴する観察力とやらのために、彼がすでに書いているであろう宣伝文句が目に浮かぶようだ。写真だって撮っているはずだ、多少の頭さえあるはずならば。ともかく娘はハンフリー・ウォード夫人には似ていない。

 レストランの奥でコートを探しているふたりが交わす言葉が聞こえてきた。青年が言った。「こんなところであの日本人、みんなで何をやってるんだろう?」

「日本人?」娘が言った。「日本人って何よ? ときどきあなたってわけわかんないこと言うから、ほんとはあたしと結婚したくないんじゃないかって思っちゃう」

The End



(『八人の見えない日本の紳士たち』終わり。明日からこれを実際に見ていきます。)

「読むこと」を考える その2.

2006-02-02 22:24:39 | 
2.短編を読んでみよう

とりあえず短編をひとつ読んでみよう。
英語もむずかしくないし、ごく短いものなので、オリジナルを読みたい人はhttp://www.fontys.nl/lerarenopleiding/tilburg/engels/Litcult2005/txt_greene_gentlemen.htmをどうぞ。
(今日全編を訳すのが無理だったので、前編・後編に分けることになりました。)

* * *

八人の見えない日本の紳士たち(前編)

グレアム・グリーン


 ホテル・ベントリーのレストランで、八人の日本の紳士たちが魚料理を食べていた。理解できない彼らの言葉は、ごくまれに行き交うだけだったが、礼儀正しい笑みを絶やさず、たびたび軽く頭を下げる。ひとりを除けば、全員が眼鏡をかけていた。日本人の向こう側、窓際に座ったきれいな娘は、ときおりそちらに目を走らせてはいたが、ひどく深刻な問題を抱えているらしく、自分と自分の連れ以外、だれにもまともに注意を払う気にはなれないようだった。

 ブロンドの髪は細く、19世紀初頭ふうの小作りで愛らしい顔は、卵形で人形のようだが、しゃべりかたは乱暴だった。おそらくそのアクセントはローディーンかチェルトナム女子大あたりのもの、そこを出たのもそれほど前のことではあるまい。左手の婚約指輪をはめる場所に、男物の認印付きの指輪をはめており、わたしが席に着いたとき、日本人をあいだにはさんで、娘が話すのが聞こえた。「だから、あたしたち来週には結婚できる、ってこと」

「ほんと?」

 娘の相手はいささか狼狽したようだ。自分と娘のグラスにシャブリをついで言った。「もちろんそうしてもいいんだけどさ、ぼくの母親が……」そのあとの言葉をわたしは聞き逃してしまった。というのも、一同の中で最年長の日本人紳士が、笑みを浮かべたまま小さく頭を下げると、テーブルに身を乗りだして、話をはじめたからだった。口にする言葉は養鶏場から聞こえてくるざわめきのよう、そのあいだ、だれもがそちらを向いて、にこやかに聞いており、わたしもついそちらに気を取られたのだった。

 婚約者の風貌も、娘そっくりだ。ホワイトウッドの壁に並んでぶらさげられている、二体の人形を見るようだ。彼の方は、ネルソン提督時代の若き海軍士官、といったところ、そのころならある種の弱々しさと感じやすさも昇進の妨げにはならなかったはずだ。

 娘が言った。「アドヴァンス料として五百ポンド払ってくれるんですって。それにペーパーバックの版権だってもう売れたし」いきなり業界用語が飛び出してきたので、わたしは度肝を抜かれた。わたしの同業者だということにも驚いた。二十歳を超えているようには見えない。もっと彼女に見合った人生があるはずだ。

「だけど伯父さんが……」

「伯父さんと一緒にやってけないことぐらい、わかってるでしょ。あたしたち、ちゃんと自立しなきゃならないんだから」

「君は自立できるんだろうけどさ」しぶしぶそう認めた。

「ワインを扱う仕事なんて、全然向いてない。あたし、あなたのこと、出版社の人に話したのよ、絶対うまくいくって。ちょっと本を読みさえしたら……」

「ぼくは本のことなんて何にも知らないよ」

「一からあたしが教えてあげる」

「ぼくの母親は、書くことは大きな精神的支えになるとは言ってたけど……」

「五百ポンドとペーパーバックの版権の半分は、すごく確かな支えよ」

「このシャブリ、うまいよな?」

「かもね」

婚約者について、わたしは意見を変えつつあった。ネルソン提督流の腕前など持ち合わせてはいない。彼が打ち負かされるのは目に見えていた。娘がぴったりと横付けして、船首から船尾まで掃射するのだ。

「ドワイトさんが何て言ったか知ってる?」

「ドワイトさん、ってだれ?」

「もう、ちっとも聞いてないんだから。あたしの編集者よ。ドワイトさんが言うには、この十年間に出た処女作のなかで、こんなに鋭い観察力を発揮した小説はなかったんだって」

「そりゃすごいね」そのくちぶりは悲しげだった。「すごいや」

「あたしに言ったのは、タイトルを変えた方がいい、ってことだけ」

「そうなんだ」

「『とわに澱みなき流れ』って、あんまり好みじゃなかったみたい。『チェルシーの潮流』っていうタイトルの方がいいんだって」

「で、君はなんて言ったの?」

「言うことを聞いておいた。処女作を出そうと思ったら、編集者を喜ばせておかなきゃダメだって思うから。とくに結婚式の費用を出してくれそうなときはね」

「なるほどね」心ここにあらず、といったようすで彼はシャブリをフォークでかきまぜている。婚約するまでは、シャンペンばかり飲んでいたのだろう。日本の紳士は魚料理を食べ終え、片言の英語で、だが極めて礼儀正しく、中年のウェイトレスに、新鮮な果物のサラダを注文している。娘がそちらに目を遣り、つぎにわたしを見た。だが、その目に映っているのは、未来だけだろう。『チェルシーの潮流』というタイトルの処女作を頼りにすることに、どんな未来もありはしないことを忠告したい、という、激しい思いにかられる。おそらくは婚約者の母親と同じことを言うだろう。そう認めるのは悔しかったが、おそらくわたしに娘がいれば、彼女と同じくらいのはずだ。

(後半は明日へ)

「読むこと」を考える その1.

2006-02-01 22:26:15 | 
1.わたしたちは「読むこと」に何を求めているのか

たまに、読み終わって「ばかやろう」と言いたくなる本、というのがある。
もうずいぶん昔に読んだ本だけれど、いまだによく覚えているそんな一冊に、スー・タウンゼント『女王様と私』(第三書館)がある。

舞台はイギリス、政変で王室が廃止されることになって、ロイヤル・ファミリーがそっくり下層階級が身を寄せ合って暮らす裏長屋に住むことになり……、というもの。エリザベス女王とか、チャールズ皇太子とかが実名で登場して、英王室のことについて詳しければ、それなりに笑える内容なのだろうが、そういうものに知識もなければ関心もないわたしにとっては、めりはりのないストーリーに王室のゴシップをちりばめただけの印象だった。

だが、わたしが腹を立てたのはそういうことではない。この話が、いわゆる夢オチ、起きてみれば一切が夢だった、という結末だったからである。

もちろんこの夢オチは中国の『枕中記』(「邯鄲の枕」という諺のもとになった唐代の伝奇小説)や『不思議の国のアリス』など、昔からいくつかの作品で使われている。けれども、そういう作品は、結末が主人公の「夢」であったことに、十分な必然性があるため(言葉を換えれば、読み手が「夢」であることを無理なく受け入れられるため)、「夢オチ」じゃないか、許せん! と、本を投げ捨てたくなることはない。

つまり、「夢オチ」が頭に来るのは、波乱に満ちたストーリーだったはずが、収拾がつけられなくなった作者が、ただ終わらせるためだけにもってきた、粗雑で乱暴な結末だからである。

おそらく、こんな経験はだれにでもあるだろう。
「夢オチ」でなくても、読んでいくうち、だんだん不安になってきて(というのも、本には物理的な限界というものがあって、わたしたちは残りページ数によって、結末が近いことを否応なく知らされるからだ)、予想通り、大慌てでつじつまを合わせたような結末を読まされて、がっかりした経験が。

わたしたちはどうして粗雑で乱暴な結末を読まされると腹が立つのだろうか。

たとえば、人と会ったときのことを考えてみよう。
「このあいだ、おもしろいことがあった」
と相手が言ったとする。
聞いた側は、その「おもしろいこと」を聞かせてくれるものと期待しながら、話の続きを聞く。
話す側は、普段の語り、たとえば仕事先での業務連絡の話とはちがって、聞く側が「おもしろい」と思ってくれるように話をする。
つまり、コミュニケーションというのは、聞き手、話し手双方の共同作業という側面がある。

本を読むというのも、これと一緒で、わたしたちは、この本は、おもしろい話、あるいは泣かせてくれる話、意味があると感じさせてくれる話、つまり「読むだけの価値がある話である」と期待して、読み始める。

そうして、時間をかけて、ページを1ページずつめくりながら、筋を追いつつ、先の展開を予想し、物語が展開するにつれて、そのずれを修正しつつ、読んでいく。

ここでコミュニケーションを行っているのである。

ところが「夢オチ」というのは、この共同作業を、最後の段階で作者が放棄したからにほかならない。わたしたちがいままでやってきた作業は、作者によって、「意味がないのだ」と宣言されたに等しい。だから、「夢オチ」は、作者の裏切り行為ともいえるし、わたしたちは腹が立つのだ。


ところで、作者がわたしたちを裏切ってはいないはずなのだが、どうにも自分はこの共同作業がうまくやれていない、という感想を持つことがある。

先が読めない。展開についていけない。いったい何を言っているのかわからない。読むには読んだけれど、そうして、作者はなにか言っているらしいのだけれど、自分にはそれがどうもはっきりわからない。

これは、自分に理解する力がないんだろうか?
そんなふうに思ったことはないだろうか。

そうではないんです。
「読む」というのは、いくつかの約束事がある。
わたしがこれからここで書こうとしていることは、ほとんどの人が、無意識のうちにやっていることだと思う。
けれども、それをもう少し意識的にやることで、小説から、もっと多くのものを引き出せる。共同作業をうまく進めることができる。

そういう約束事を、いくつか紹介してみたいと思う。

なるべくお勉強っぽくならないように、ごく短い短編をひとつ読みながら、「読む」ということについて考えてみたい。しばらく、おつきあいください。

(この項つづく)