さて、ここで二日に渡ってグレアム・グリーンの短編『八人の見えない日本の紳士たち』を読んだ。
一読して、もう十分この短編を味わいつくした、という人は、以下の文章は読む必要がない。
けれども「いったい何が書いてあったんだろう。どうもピンとこなかった」
「作者はこの短編を通して、何が言いたかったのだろう」
「これは日本人に対する(あるいは女性に対する)偏見があるのではないか」
と思った人は、どうかもうすこしこの先、おつきあいを。
まず、読んでいく前に確認しておきたいのが
「作者の意図」という見方はしない。
「この作品を通して作者はいったい何が言いたかったのだろう」という問いを、ここではしない。
というのも、もし、作者にそのことを聞く機会があったとして、仮にそれにひとことで答えてくれたとしたら、なぜわたしたちはその小説を読まなければならないのだろう? 本を読むかわりに、作者が主張する意見に耳を傾ければそれですむだけの話だ。
ただ、おそらく多くの作家はひとことでは答えてくれない。
作家のフラナリー・オコナーは、「物語の意味」という短いエッセイのなかでこのように言っている。
ここで確認しておこう。
作品の意味とは、作者が心に抱いた何らかの考えではなく、作者が作品のなかに表現したことにある。わたしたちは作者の考えを聞くために読むのではない。わたしたちが見つけた意味が、たとえ作者が考えたこととはちがっていたとしても、それはそれでかまわない。
まず、こういう立場から読んでいく。
では、まずどこから手をつけていったらいいのか。
とりあえず、ここから始めてみよう。
1.誰が語っているのか
これは簡単。作中に「わたし」という一人称が出てきている。
この「わたし」は、本を出版することになっている「娘」と「同業者」と言っていること、そうして「娘の母親」と同年代であると言っていることから、中年の、経験を積んだ作家であることが理解できる。
ただ、この「誰が語っているのか」というのは、それほど単純な問題ではない。
まず第一に注意しなければならないのが、「わたし」≠作者ということだ。
わたしたちはこのように、情報として知っている作者の経歴と、ある作中人物とが近い場合、とくにそれが語り手であったりすると、容易に作者と混同して考えたがる(たとえば『舞姫』の語り手「余」(太田豊太郎)=森鴎外と考えている人が非常に多い!)。
けれども、以下のような物語であっても、「語り手」は存在する。
こうした「わたし」という語り手が出てこない物語であれば、わたしたちはいよいよ作者が読者に語って聞かせてくれているのだと考えてしまう。
というのも、この声の主は作品の中には登場しないし、作中人物のだれも知らないことを教えてくれるからである。
ただ、この声を作者の声であるとするのは、あまり得策ではない。
このふたつの作品は、ともに森鴎外の作品である。
そうして、この語り手は、ともに作品のなかには登場しない、例の「何でも知っている」語り手である。
けれども、このふたつの作品の語りの声はずいぶんちがう。ともに「森鴎外がわたしたちに話して聞かせてくれている」と思ってしまうと、このふたつの「語り」の声のちがいを見逃すことになってしまう。
こういう語り手のことを「含意された作者」と呼ぶこともあるのだけれど、とにかく、ここで理解しておいてほしいのは、どんな作品であっても、そこには「語り手」がいるということだ。
わたしたちは、まずこの語り手がいることに、着目しよう。
この語り手は、「わたし」「ぼく」「おれ」「あたし」「余」「吾輩」「拙者」と、さまざまな一人称で語る、作品の登場人物なのか。登場人物であるとすれば、『坊っちゃん』のように、中心的に活躍するのか、それとも『雁』のように、脇へ退いて物語の中心となる人物の行動を教えてくれるのか。あるいは、最初は「わたし」として登場したはずなのに、ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』のように、ストーリーを紹介したあと、どこかへ行ってしまうのか。『こころ』のように、途中で語り手が交替するか。
→サンプルにあげた「八人の見えない日本の紳士たち」では、中年の経験を積んだ作家の「わたし」が語り手となっている。この物語の「わたし」は、ストーリーの中心人物ではない。
ここで疑問がひとつでてくる。
『坊っちゃん』のように、作品の中心人物が語り手となる、というのは、よくわかる。
そうでなくて、『雁』や、あるいはフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』、この「八人の見えない日本の紳士たち」のように、語り手が作品に登場するにもかかわらず、主要な登場人物ではない作品の語り、というのは、どのような意味をもつのかを考えてみよう。
・「わたし」として登場する語り手は、あらゆることを知っているわけではない。そのために、主要な登場人物について、あるいはできごとについて、いくつものことがわたしたちの目から隠されていることが暗示されている。「語り手」はこれから起こることを知らないこともあるし、予測不可能であることが緊迫感を生むこともある。あるいは誤った判断を下すこともある。「語り手」が判断を修正するたびに、読者の理解も段階を追って深くなる。
・「わたし」は主要人物に関心を持っている。好意であるにせよ、嫌悪感であるにせよ、「わたし」が持っているその関心を媒介に、わたしたちはすみやかにその主要人物を好きになったり、キライになったり、途中でそれが裏切られたりして、とにかく通り一遍ではない関心を持つことになる。
・「わたし」はかならずしも公平ではなく、鋭敏でないことも、観察力があるわけでもなく、信頼できない場合がある。そういうとき読者であるわたしたちは、自分の力でその見方を修正するようになる。たとえば「八人の見えない日本の紳士たち」でも、この語り手の見方をそのまま鵜呑みにできるのだろうか? もしかしたら、この語り手は、若く美しい作家の誕生にジェラシーを覚えているのでは? そう思ったら、わたしたちは、独力でその証拠を集める気になる。つまり、読者が作品により積極的な関わり方を可能にするのである。
・読者は、主要な登場人物だけでなく、「わたし」という語り手をも深く知ることになる。
そうして、この語り手を読者がどう判断するかによって、人間や動機について判断をくだすことがいっそう複雑になっていく。
このように、作品の中に登場する語り手というのは、なかなかおもしろい存在なのである。
わたしたちは「誰が語っているのか」をまず見つけ、そして、その語り手を疑ってみなければならない。
(この項つづく)
一読して、もう十分この短編を味わいつくした、という人は、以下の文章は読む必要がない。
けれども「いったい何が書いてあったんだろう。どうもピンとこなかった」
「作者はこの短編を通して、何が言いたかったのだろう」
「これは日本人に対する(あるいは女性に対する)偏見があるのではないか」
と思った人は、どうかもうすこしこの先、おつきあいを。
まず、読んでいく前に確認しておきたいのが
「作者の意図」という見方はしない。
「この作品を通して作者はいったい何が言いたかったのだろう」という問いを、ここではしない。
というのも、もし、作者にそのことを聞く機会があったとして、仮にそれにひとことで答えてくれたとしたら、なぜわたしたちはその小説を読まなければならないのだろう? 本を読むかわりに、作者が主張する意見に耳を傾ければそれですむだけの話だ。
ただ、おそらく多くの作家はひとことでは答えてくれない。
作家のフラナリー・オコナーは、「物語の意味」という短いエッセイのなかでこのように言っている。
物語は、他の方法では言えない何かを言う方法なのだ。作品の意味が何であるかを言おうとしたら、その物語の中の言葉がすべて必要である。……それは何についての物語か、とたずねる人がいたら、正当な答えはただ一つ、その物語を読めと言ってやるしかない。(フラナリー・オコナー「物語の意味」『秘儀と習俗』所収 春秋社)
ここで確認しておこう。
作品の意味とは、作者が心に抱いた何らかの考えではなく、作者が作品のなかに表現したことにある。わたしたちは作者の考えを聞くために読むのではない。わたしたちが見つけた意味が、たとえ作者が考えたこととはちがっていたとしても、それはそれでかまわない。
まず、こういう立場から読んでいく。
では、まずどこから手をつけていったらいいのか。
とりあえず、ここから始めてみよう。
1.誰が語っているのか
これは簡単。作中に「わたし」という一人称が出てきている。
この「わたし」は、本を出版することになっている「娘」と「同業者」と言っていること、そうして「娘の母親」と同年代であると言っていることから、中年の、経験を積んだ作家であることが理解できる。
ただ、この「誰が語っているのか」というのは、それほど単純な問題ではない。
まず第一に注意しなければならないのが、「わたし」≠作者ということだ。
わたしたちはこのように、情報として知っている作者の経歴と、ある作中人物とが近い場合、とくにそれが語り手であったりすると、容易に作者と混同して考えたがる(たとえば『舞姫』の語り手「余」(太田豊太郎)=森鴎外と考えている人が非常に多い!)。
けれども、以下のような物語であっても、「語り手」は存在する。
六月二十七日の朝は、晴れ渡った空の下、さわやかな夏の日となった。花は一面に咲き乱れ、草は青々と繁っている。村の人々は、郵便局と銀行の間の広場に、十時ごろから集まり始めた。人口が多いために、くじをひくのに二日もかかってしまい、六月の二十日から始めなければならないというような街もあるらしいのだが、三百人ほどしかいないこの村では、全員がくじをひいても二時間もかからないうちに終わってしまうので、午前十時に始めても時間内に終わるどころか、村人たちが昼食を取りに家に帰る時間も十分にあるのだった。(シャーリー・ジャクスン『くじ』私訳)
こうした「わたし」という語り手が出てこない物語であれば、わたしたちはいよいよ作者が読者に語って聞かせてくれているのだと考えてしまう。
というのも、この声の主は作品の中には登場しないし、作中人物のだれも知らないことを教えてくれるからである。
ただ、この声を作者の声であるとするのは、あまり得策ではない。
従四位下左近衛少将兼越中守細川忠利は、寛永十八年辛巳の春、よそよりは早く咲く領地肥後国の花を見すてて、五十四万石の大名の晴れ晴れしい行列に前後を囲ませ、南より北へ歩みを運ぶ春とともに、江戸を志して参勤の途に上ろうとしているうち、はからず病にかかって、典医の方剤も功を奏せず、日に増し重くなるばかりなので、江戸へは出発日延べの飛脚が立つ。(『阿部一族』)
越後の春日を経て今津へ出る道を、珍らしい旅人の一群れが歩いている。母は三十歳を踰えたばかりの女で、二人の子供を連れている。姉は十四、弟は十二である。それに四十ぐらいの女中が一人ついて、くたびれた同胞二人を、「もうじきにお宿にお着きなさいます」と言って励まして歩かせようとする。二人の中で、姉娘は足を引きずるようにして歩いているが、それでも気が勝っていて、疲れたのを母や弟に知らせまいとして、折り折り思い出したように弾力のある歩きつきをして見せる。近い道を物詣りにでも歩くのなら、ふさわしくも見えそうな一群れであるが、笠やら杖やらかいがいしい出立ちをしているのが、誰の目にも珍らしく、また気の毒に感ぜられるのである。(『山椒大夫』)
このふたつの作品は、ともに森鴎外の作品である。
そうして、この語り手は、ともに作品のなかには登場しない、例の「何でも知っている」語り手である。
けれども、このふたつの作品の語りの声はずいぶんちがう。ともに「森鴎外がわたしたちに話して聞かせてくれている」と思ってしまうと、このふたつの「語り」の声のちがいを見逃すことになってしまう。
こういう語り手のことを「含意された作者」と呼ぶこともあるのだけれど、とにかく、ここで理解しておいてほしいのは、どんな作品であっても、そこには「語り手」がいるということだ。
わたしたちは、まずこの語り手がいることに、着目しよう。
この語り手は、「わたし」「ぼく」「おれ」「あたし」「余」「吾輩」「拙者」と、さまざまな一人称で語る、作品の登場人物なのか。登場人物であるとすれば、『坊っちゃん』のように、中心的に活躍するのか、それとも『雁』のように、脇へ退いて物語の中心となる人物の行動を教えてくれるのか。あるいは、最初は「わたし」として登場したはずなのに、ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』のように、ストーリーを紹介したあと、どこかへ行ってしまうのか。『こころ』のように、途中で語り手が交替するか。
→サンプルにあげた「八人の見えない日本の紳士たち」では、中年の経験を積んだ作家の「わたし」が語り手となっている。この物語の「わたし」は、ストーリーの中心人物ではない。
ここで疑問がひとつでてくる。
『坊っちゃん』のように、作品の中心人物が語り手となる、というのは、よくわかる。
そうでなくて、『雁』や、あるいはフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』、この「八人の見えない日本の紳士たち」のように、語り手が作品に登場するにもかかわらず、主要な登場人物ではない作品の語り、というのは、どのような意味をもつのかを考えてみよう。
・「わたし」として登場する語り手は、あらゆることを知っているわけではない。そのために、主要な登場人物について、あるいはできごとについて、いくつものことがわたしたちの目から隠されていることが暗示されている。「語り手」はこれから起こることを知らないこともあるし、予測不可能であることが緊迫感を生むこともある。あるいは誤った判断を下すこともある。「語り手」が判断を修正するたびに、読者の理解も段階を追って深くなる。
・「わたし」は主要人物に関心を持っている。好意であるにせよ、嫌悪感であるにせよ、「わたし」が持っているその関心を媒介に、わたしたちはすみやかにその主要人物を好きになったり、キライになったり、途中でそれが裏切られたりして、とにかく通り一遍ではない関心を持つことになる。
・「わたし」はかならずしも公平ではなく、鋭敏でないことも、観察力があるわけでもなく、信頼できない場合がある。そういうとき読者であるわたしたちは、自分の力でその見方を修正するようになる。たとえば「八人の見えない日本の紳士たち」でも、この語り手の見方をそのまま鵜呑みにできるのだろうか? もしかしたら、この語り手は、若く美しい作家の誕生にジェラシーを覚えているのでは? そう思ったら、わたしたちは、独力でその証拠を集める気になる。つまり、読者が作品により積極的な関わり方を可能にするのである。
・読者は、主要な登場人物だけでなく、「わたし」という語り手をも深く知ることになる。
そうして、この語り手を読者がどう判断するかによって、人間や動機について判断をくだすことがいっそう複雑になっていく。
このように、作品の中に登場する語り手というのは、なかなかおもしろい存在なのである。
わたしたちは「誰が語っているのか」をまず見つけ、そして、その語り手を疑ってみなければならない。
(この項つづく)