陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

正月の思い出 その3.

2006-01-05 22:32:27 | weblog
毎年、年始の客は大勢来たけれど、ほとんどが父の仕事関係で、母に会いに来る人はなかった。かなり大きくなるまで、「親の知り合い」は「親の知り合い」で、それが父の関係なのか、母の関係なのか、考えることもなかったけれど、ずっと家にいた母は、自分の友だちを訪ねることもせず、訪れる客もないまま、父の年始の客をもてなし、客間と台所を忙しく往復していたのだ。

けれども、一度だけ、家へやってきた母の友人がいた。おそらくわたしが小学校に上がった年の正月だったと思う

ちょうど正月三が日があけたばかりだった。母の友だち、という女の人がやってきたのだ。
母と同い年、という話だったが、髪を肩まで垂らしていて、ずいぶん母より若く見えた。すごくきれいだと思ったわたしが、そんなふうなことを言うと、どうもありがとう、と言って、頭を撫でてくれた。あとで姉から、あんな人、ちっともきれいじゃないのに、あんた、どこ見てんのよ、となじられたのだが。

昼過ぎに来て、晩ごはんまで一緒に食べたのには驚いたが、夜が更けても帰ろうとする気配がない。お風呂から出たあと、横を通ると、ふすまを締めた居間の中から、父と母とその友だちの押さえた声がいつまでも聞こえた。

翌朝、いつもどおり台所の母親のところへいくと、静かにしなさい、と言われた。
あの人、まだ帰ってないの? と聞くと、りょうこさんはね、いま行くところがないの。だからしばらく家にいてもらうことになったの、と母が答えた。

行くところがない、という言葉で思い出したのが、母が子供の頃好きだった、という『小公女』だ。イギリスの寄宿学校に暮らすセーラは、父親がインドで死んだためにみなしごになり、行き場がなくなってしまう。寄宿学校のミンチン先生(名前がちがっているかも)は、セーラを下働きにこきつかうのだ。

ところがこの「りょうこさん」は、本の挿絵のセーラとはずいぶんちがっていた。そのころ、ピアノは客間に置いてあって、朝ご飯をすませたわたしはピアノの練習をする、という口実で、その部屋をノックした。

「はあい」というくぐもった声がしたので部屋へ入っていくと、ふだんとはまったくちがうにおいが部屋一杯にこもっていた。朝の光がクリーム色のカーテンに遮られ、部屋もいつもとちがう感じがした。ソファを端へ寄せ、部屋のまんなかに布団が敷いてある。
りょうこさんはそこに寝そべって、煙草を吸っていた。ほおづえをついている、むきだしになった肘から手首がふっくらと白くて、わたしはちょっとどきっとした。

わたしは煙草を吸う人をあまり見たことがなくて、しかも女の人が煙草を吸うということを知らなくて、そんなふうなことを言ったのだと思う。りょうこさんは煙の輪をいくつも作って見せてくれたのをよく覚えている。カーテンからさしこむ日のなかを、白い煙の輪がふわふわと拡がりながらのぼっていった。

りょうこさんは、わたしのことを「あなた」と呼んだ。大人の人から呼ばれるときは、いつも「**ちゃん」だったので、自分がなんだか大人になったような気がした。

りょうこさんは、母とはずっと大親友だった、という話を教えてくれ、あなたは親友はいる? と聞いた。よくわからない、休憩時間、一緒に遊ぶ子はいるけど、みたいなことを答えたのではなかったか。
あなたはお父さんとお母さんと、どっちが好き? あなたのお母さんは優しい? なんだかどれも答えにくいことばかり、聞かれたような気がする。

それから何日ぐらいりょうこさんは家にいたのだろう。最初のうちは、食事の後かたづけなども手伝ってくれたようだったが、つぎの食事のとき、きれいになりきっていない皿にこびりついた汚れを、母が神経質そうに爪でかき取っていて、そんなことをしなければいいのに、りょうこさんは気がつかなきゃいいけど、と、はらはらするような思いでわたしは見たのだった。

そのうち、わたしたちも三学期が始まった。帰りがけ、角を曲がって家まであとわずか、というころになると、りょうこさんはまだいるのかな、と思うのが日課のようになっていた。りょうこさんは好きだったけれど、母はひどく気を遣っているのがわかったし、父はふだんからあまり表には出さない人だったけれど、やはり不機嫌な様子で、小さな弟までがなんとなくいつもとちがうのだった。家に他人がいる、というのは、こういうものなのか、といったようなことを、漠然と感じていたのだと思う。

ずいぶん長い間だったような気がするけれど、実際はせいぜい五~六日といったところではなかったのだろうか。
ある日帰ってみたら、客間のドアが開いていて、窓も開け放ってあり、りょうこさんの荷物がなくなっていた。
いそいで奥へ行ってみると、母は食卓に放心したように座っていて、わたしが、ただいま、と声をかけると、ちょっとびっくりしたように、あら、お帰りなさい、と言って、いつものように、手を洗いなさい、だの、うがいも忘れないで、と細かなことを言いながら、お茶をいれてくれたのだった。

おそらくわたしはりょうこさんは帰ったの? と聞いたのだと思う。それに対して、母がなんと答えたのかは記憶にない。行く当てがなかった小公女セーラは、父親の友人だったインドの紳士に引き取られたけれど、りょうこさんを引き取ってくれた人はいたのだろうか。

ただ、そのあとしばらくして、何かの拍子に、女は結婚するとだめねぇ、と言っていたのがはっきりと記憶に残っている。りょうこさんが「結婚するとだめ」だったのか、それとも、それは自分の「大親友」に対する態度だったのか、よくわからないし、このときのことをそれから母に話したことはなかったけれど、翌年の正月、今年もりょうこさん来るかな、とわたしが言うと、母は、もう来ることもないでしょうよ、といった意味のことを言ったのだった。

それでも、それからしばらくは正月が来るたびに、ねそべってほおづえをついて、煙の輪を作ってくれた女の人のことを思い出したのだった。

(この項おわり)