つぎの目的地宮島に行くためには、いったん広島駅まで戻って、そこから在来線に30分ほど乗って、宮島口というところまで行かなければならない。
遅めのお昼を食べ、お茶を飲んだりしているうちに、ラッシュアワーにはまだ間があるけれど、人波は徐々に増え始めていた。
向こうから、十代後半か二十代に入ったばかり、という年代の外国人の女の子が歩いてくる。ジェイミィに目を留め、上から下までしげしげと眺め回し、次いで、アズマさんと目が合う。なによ、わたしの方が上じゃない、という目つきだ。おかしくなったアズマさんがジェイミィの反応をうかがうと、女の子が送ってくる「さぁ、わたしを誘いなさいよ」という視線に、赤くなってうつむいている。
クレアはジェイミィがゲイだと言ったけれど、アズマさんにはどうもよくわからなかった。両耳にピアス(右に♀、左に♂で趣味が悪いことおびただしい)をして、隣のアズマさんの頭が痛くなるほどコロンをつけているが、英会話スクールの講師だって、オフの日に会えばそんなものである。
例の女の子はすれ違い際、もういちどアズマさんをにらみつけて行った。
家路を急ぐ人にまじって電車に乗っていると、ふいにアズマさんは、自分はこんな所で何をしているのだろう、と思う。旅行者というのは、そこに暮らし、生活する人たちの間を傍若無人に歩く。見たいものを見、つぎはどこ、つぎはどこ、と場所から場所へ動き回る。そんなことをする自分とは、いったい何者なんだろう。
ジェイミィはカバンから"Midnight in the Garden of Good and Evil"を取り出して読んでいる。アズマさんも持ってきたコンラッドの『密偵』を読み始めた。
宮島口からフェリーに乗る。10分ほどでついてしまうのがもったいないくらい、海の上は気持ちがいい。ジェイミィは"peaceful"を連発していた。peacefulな海、peacefulな空、peacefulな島々……。
“瀬戸内海は氷河期は陸地だったんだよ”
“ほんと?”
“中学で習った。氷河期が終わるくらいに、海の水が入ってきたんだ。だから島はそのころはみんな山だったんだ”
“きっと火山だったんだとぼくは思うな”
“火山ではなかったんじゃない?”
“だってあの島の形は火山の形だもの”ジェイミィはいやに自信ありげに言い放った。
“氷河期は、きっと火山だったにちがいない”
根本的に大きな誤解があるような気がしたが、アズマさんは黙っていた。
そうこうするうちに、フェリーは宮島に着く。
ここでも例によって例のポーズの写真を撮っていると、鹿が何頭か固まっていた。
ジェイミィはさっき電車の中でボリボリかじっていた乾燥バナナとナッツの袋を取り出して、鹿にやり始める。それを見て、鹿がどんどん集まってきた。
“アズマ、写真撮って!”
鹿に囲まれ、それはそれはうれしそうな顔で餌をやっているジェイミィの写真を何枚も撮る。
“見てよ、赤ちゃんの鹿だ。ディズニーの映画みたいだ。すごくかわいい”
アズマさんの方に寄ってきた鹿に、アズマさんはドスを利かせた声で警告した。
「わたしは何も持ってないからね。こっちに来ないように」
大きな袋が空になったところで、ジェイミィはやっと歩き出したが、それでもゾロゾロ鹿はついてくる。ジェイミィが鹿のつぎに捕まったのは、軒を並べる土産物屋だった。
“大きなライス・スプーン!(アズマさんは「しゃもじ」がライス・スプーンだということをこのとき初めて知った)ライス・スプーンはお母さんへのプレゼントにしよう。カタナもある。アズマ、このカンジは何て書いてあるの?”
“あのさ、急がなきゃ閉まっちゃうよ”
“もうちょっと待って”
厳島神社の中を“見逃したところはない?”と何度も念を押すジェイミィのために、地図を見ながらひたすら歩き回ったアズマさんは、つぎにやってきた五重塔のところで、柵に腰をおろしてひとやすみすることにした。
さきほどまでちらほら見えていた観光客の姿もなく、あたりは静まりかえっている。
松の木立に囲まれて、五重塔がひっそりと立っていた。風がまったくなく、濃密な空気は手でつかめるような気さえした。なのに不思議と澱んだ感じがしない。
“なんだかとってもスピリチュアルな場所だね。”
“アズマが言っている意味がわかるよ。”
徐々に暮れていく空を背景に、木立はすでに黒っぽくなっていた。濃い空気を切り取るように立つ朱色の塔を、帰り際、アズマさんはもういちど振り返ってみた。
(この項つづく)
遅めのお昼を食べ、お茶を飲んだりしているうちに、ラッシュアワーにはまだ間があるけれど、人波は徐々に増え始めていた。
向こうから、十代後半か二十代に入ったばかり、という年代の外国人の女の子が歩いてくる。ジェイミィに目を留め、上から下までしげしげと眺め回し、次いで、アズマさんと目が合う。なによ、わたしの方が上じゃない、という目つきだ。おかしくなったアズマさんがジェイミィの反応をうかがうと、女の子が送ってくる「さぁ、わたしを誘いなさいよ」という視線に、赤くなってうつむいている。
クレアはジェイミィがゲイだと言ったけれど、アズマさんにはどうもよくわからなかった。両耳にピアス(右に♀、左に♂で趣味が悪いことおびただしい)をして、隣のアズマさんの頭が痛くなるほどコロンをつけているが、英会話スクールの講師だって、オフの日に会えばそんなものである。
例の女の子はすれ違い際、もういちどアズマさんをにらみつけて行った。
家路を急ぐ人にまじって電車に乗っていると、ふいにアズマさんは、自分はこんな所で何をしているのだろう、と思う。旅行者というのは、そこに暮らし、生活する人たちの間を傍若無人に歩く。見たいものを見、つぎはどこ、つぎはどこ、と場所から場所へ動き回る。そんなことをする自分とは、いったい何者なんだろう。
ジェイミィはカバンから"Midnight in the Garden of Good and Evil"を取り出して読んでいる。アズマさんも持ってきたコンラッドの『密偵』を読み始めた。
宮島口からフェリーに乗る。10分ほどでついてしまうのがもったいないくらい、海の上は気持ちがいい。ジェイミィは"peaceful"を連発していた。peacefulな海、peacefulな空、peacefulな島々……。
“瀬戸内海は氷河期は陸地だったんだよ”
“ほんと?”
“中学で習った。氷河期が終わるくらいに、海の水が入ってきたんだ。だから島はそのころはみんな山だったんだ”
“きっと火山だったんだとぼくは思うな”
“火山ではなかったんじゃない?”
“だってあの島の形は火山の形だもの”ジェイミィはいやに自信ありげに言い放った。
“氷河期は、きっと火山だったにちがいない”
根本的に大きな誤解があるような気がしたが、アズマさんは黙っていた。
そうこうするうちに、フェリーは宮島に着く。
ここでも例によって例のポーズの写真を撮っていると、鹿が何頭か固まっていた。
ジェイミィはさっき電車の中でボリボリかじっていた乾燥バナナとナッツの袋を取り出して、鹿にやり始める。それを見て、鹿がどんどん集まってきた。
“アズマ、写真撮って!”
鹿に囲まれ、それはそれはうれしそうな顔で餌をやっているジェイミィの写真を何枚も撮る。
“見てよ、赤ちゃんの鹿だ。ディズニーの映画みたいだ。すごくかわいい”
アズマさんの方に寄ってきた鹿に、アズマさんはドスを利かせた声で警告した。
「わたしは何も持ってないからね。こっちに来ないように」
大きな袋が空になったところで、ジェイミィはやっと歩き出したが、それでもゾロゾロ鹿はついてくる。ジェイミィが鹿のつぎに捕まったのは、軒を並べる土産物屋だった。
“大きなライス・スプーン!(アズマさんは「しゃもじ」がライス・スプーンだということをこのとき初めて知った)ライス・スプーンはお母さんへのプレゼントにしよう。カタナもある。アズマ、このカンジは何て書いてあるの?”
“あのさ、急がなきゃ閉まっちゃうよ”
“もうちょっと待って”
厳島神社の中を“見逃したところはない?”と何度も念を押すジェイミィのために、地図を見ながらひたすら歩き回ったアズマさんは、つぎにやってきた五重塔のところで、柵に腰をおろしてひとやすみすることにした。
さきほどまでちらほら見えていた観光客の姿もなく、あたりは静まりかえっている。
松の木立に囲まれて、五重塔がひっそりと立っていた。風がまったくなく、濃密な空気は手でつかめるような気さえした。なのに不思議と澱んだ感じがしない。
“なんだかとってもスピリチュアルな場所だね。”
“アズマが言っている意味がわかるよ。”
徐々に暮れていく空を背景に、木立はすでに黒っぽくなっていた。濃い空気を切り取るように立つ朱色の塔を、帰り際、アズマさんはもういちど振り返ってみた。
(この項つづく)