子供の頃、元日というと、晴れていたような記憶しかない。
寝床のなかで微かに聞こえてくるスズメのさえずりを聞きながら、新しい年だ、と思うと、じわじわとうれしさがこみ上げてきて、じっとしていられなくなる。急いでふとんをたたんで、階段をおりていく。
台所にいる母に、改まって「あけましておめでとうございます」と挨拶する。毎年母は「お餅は何個食べる?」と聞いて、わたしも決まったように「二個」と答えるのだった。それから食卓にのっている、普段の倍以上もある分厚い新聞を父の部屋に持っていく。たいてい父はまだ寝ていて、「朝だよー、お正月だよー。起きてよー。」と何度揺すっても「わかった」「いま起きる」と返事はあるのだが、なかなか起きてこない。
そのうち母の呼ぶ声がして、お雑煮の用意ができたから、お姉ちゃんとKちゃんを起こしてきて、と言われる。姉はそれでも呼べば起きてきたが、弟は大声を出そうが腕を引っ張ろうが、容易なことでは起きない。たいがい家のなかで朝からご機嫌なのはわたしだけなのだった。
それでも眠そうな顔で家族が食卓に揃うと、はれぼったい目の父が「あけましておめでとう。今年もよろしくお願いします」みたいなことをもそもそと言い、みんなで「おめでとうございます」と挨拶して、お雑煮を食べる。
家は関東だったけれど、両親とも西の人間で、毎年暮れに母の実家から送られてくる餅は丸かった。すまし汁のなかに、焼いた穴子と錦糸卵と三つ葉とタケノコが入っている。そこに、朝削ったばかりの、正月だけの特別な鰹節を、このときだけはどっさり入れてもかまわないのだった。わたしはかなり大きくなるまで、お餅というのは、丸いものだと思っていた。
昼前ごろから、年始の客が来始める。たまに子供連れで来る人もいて、遊びなさい、と言われるのだが、見ず知らずの子と「子供同士だから」というだけで、いきなり遊べるはずもない。なんとなく困って、もじもじしていたのを覚えている。それよりは、父がすでに客の相手をしているところにやってきた人に遊んでもらえるほうがずっと楽しかった。一度などは姉とふたりで富士山までドライブに連れて行ってもらったことがあった。高速道路に出ると、車はすごいスピードを出し、速度警報のベルがずっと鳴りっぱなしで、そんなに速い車に乗ったことがなかったわたしはすっかり驚いてしまったのだった。
親戚のところに行くとき以外、父はひとりで年始に行くのだったが、一度だけ、父に連れられて出かけたことがある。母に抱かれて泣いている弟に手を振った記憶があるので、おそらくわたしが三歳のときだったのだと思う。年始の先は、父の仕事関係の家だった。
その家の記憶はほとんどないのだが、父と、そこの家の人の両方に何かを聞かれ、それからみんなで車に乗ってどこかに行った。途中、どこかに寄って、わたしはお人形を買ってもらったのだ。姉が持っているのがうらやましくて、ときどきしかさわらせてもらえなかったお人形が、自分のものになったのがうれしくて、わたしはずっとそれで遊んでいたような気がする。
そこから記憶は急に、広い、体育館のような座敷になる。まわりのことは何も覚えてないのだが、クッションのような分厚い、茶色のざぶとんにすわって、わたしはそこでもお人形と遊んでいた。低い不思議な声が響いて、あたりを見回したが、話しかけても父は答えてくれないし、まわりは知らない人ばかりだし、つまらないのですぐ人形に戻った。
そうしていると、向こうから短い木の棒を持ったお坊さんが、ひとりひとり、その棒で肩を叩きながらやってくる。何をしているんだろう、と思って見ていたら、わたしのところへも来て、肩をぽんぽんと軽く叩いたのだった。なんでそんなことをするんだろう、と不思議で、たぶん大きな声で聞いたのだと思う。まわりからクスクス笑う声がして、あ、しまった、自分は何か失敗したんだ、と思って、わからないままひどく赤くなった記憶がある。
そこからどうやって帰ったのか、つぎに記憶にあるのは、すっかり暗くなってから家に帰ったことで、ひどく不機嫌な母が父を詰っていて、父が困ったような顔をしていたことだ。思うに父はそうなる事態を避ける口実に、わざわざわたしを連れて行ったにちがいない。ところがわたしは人形で買収されてしまったのだ。それからわたしは役に立たない、というレッテルを貼られたのか、二度と年始に連れて行ってもらったことはない。
ところがそのときの人形は、それからあと、遊んだ記憶がない。どこかに置き忘れたのかもしれないが、わたしは腹を立てた母に捨てられてしまったのだ、と勝手に思ったものだった。どんな人形だったかほとんど記憶はないのだが、カーマインレッドの服だけは、微かに記憶に残っている。
(この項つづく)
寝床のなかで微かに聞こえてくるスズメのさえずりを聞きながら、新しい年だ、と思うと、じわじわとうれしさがこみ上げてきて、じっとしていられなくなる。急いでふとんをたたんで、階段をおりていく。
台所にいる母に、改まって「あけましておめでとうございます」と挨拶する。毎年母は「お餅は何個食べる?」と聞いて、わたしも決まったように「二個」と答えるのだった。それから食卓にのっている、普段の倍以上もある分厚い新聞を父の部屋に持っていく。たいてい父はまだ寝ていて、「朝だよー、お正月だよー。起きてよー。」と何度揺すっても「わかった」「いま起きる」と返事はあるのだが、なかなか起きてこない。
そのうち母の呼ぶ声がして、お雑煮の用意ができたから、お姉ちゃんとKちゃんを起こしてきて、と言われる。姉はそれでも呼べば起きてきたが、弟は大声を出そうが腕を引っ張ろうが、容易なことでは起きない。たいがい家のなかで朝からご機嫌なのはわたしだけなのだった。
それでも眠そうな顔で家族が食卓に揃うと、はれぼったい目の父が「あけましておめでとう。今年もよろしくお願いします」みたいなことをもそもそと言い、みんなで「おめでとうございます」と挨拶して、お雑煮を食べる。
家は関東だったけれど、両親とも西の人間で、毎年暮れに母の実家から送られてくる餅は丸かった。すまし汁のなかに、焼いた穴子と錦糸卵と三つ葉とタケノコが入っている。そこに、朝削ったばかりの、正月だけの特別な鰹節を、このときだけはどっさり入れてもかまわないのだった。わたしはかなり大きくなるまで、お餅というのは、丸いものだと思っていた。
昼前ごろから、年始の客が来始める。たまに子供連れで来る人もいて、遊びなさい、と言われるのだが、見ず知らずの子と「子供同士だから」というだけで、いきなり遊べるはずもない。なんとなく困って、もじもじしていたのを覚えている。それよりは、父がすでに客の相手をしているところにやってきた人に遊んでもらえるほうがずっと楽しかった。一度などは姉とふたりで富士山までドライブに連れて行ってもらったことがあった。高速道路に出ると、車はすごいスピードを出し、速度警報のベルがずっと鳴りっぱなしで、そんなに速い車に乗ったことがなかったわたしはすっかり驚いてしまったのだった。
親戚のところに行くとき以外、父はひとりで年始に行くのだったが、一度だけ、父に連れられて出かけたことがある。母に抱かれて泣いている弟に手を振った記憶があるので、おそらくわたしが三歳のときだったのだと思う。年始の先は、父の仕事関係の家だった。
その家の記憶はほとんどないのだが、父と、そこの家の人の両方に何かを聞かれ、それからみんなで車に乗ってどこかに行った。途中、どこかに寄って、わたしはお人形を買ってもらったのだ。姉が持っているのがうらやましくて、ときどきしかさわらせてもらえなかったお人形が、自分のものになったのがうれしくて、わたしはずっとそれで遊んでいたような気がする。
そこから記憶は急に、広い、体育館のような座敷になる。まわりのことは何も覚えてないのだが、クッションのような分厚い、茶色のざぶとんにすわって、わたしはそこでもお人形と遊んでいた。低い不思議な声が響いて、あたりを見回したが、話しかけても父は答えてくれないし、まわりは知らない人ばかりだし、つまらないのですぐ人形に戻った。
そうしていると、向こうから短い木の棒を持ったお坊さんが、ひとりひとり、その棒で肩を叩きながらやってくる。何をしているんだろう、と思って見ていたら、わたしのところへも来て、肩をぽんぽんと軽く叩いたのだった。なんでそんなことをするんだろう、と不思議で、たぶん大きな声で聞いたのだと思う。まわりからクスクス笑う声がして、あ、しまった、自分は何か失敗したんだ、と思って、わからないままひどく赤くなった記憶がある。
そこからどうやって帰ったのか、つぎに記憶にあるのは、すっかり暗くなってから家に帰ったことで、ひどく不機嫌な母が父を詰っていて、父が困ったような顔をしていたことだ。思うに父はそうなる事態を避ける口実に、わざわざわたしを連れて行ったにちがいない。ところがわたしは人形で買収されてしまったのだ。それからわたしは役に立たない、というレッテルを貼られたのか、二度と年始に連れて行ってもらったことはない。
ところがそのときの人形は、それからあと、遊んだ記憶がない。どこかに置き忘れたのかもしれないが、わたしは腹を立てた母に捨てられてしまったのだ、と勝手に思ったものだった。どんな人形だったかほとんど記憶はないのだが、カーマインレッドの服だけは、微かに記憶に残っている。
(この項つづく)