陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

フランク・ストックトン 「女か虎か」 最終回

2006-01-23 21:57:31 | 翻訳
 さて、この話の肝要な点はここである。扉から現れたのは、虎だったのか、それとも女だったのか。

 この問題は、考えれば考えるほど、答えるのがむずかしくなってくる。人間の心理に対する考察を含んでいるからである。人間の心理はわたしたちを感情の入り組んだ迷路に連れて行く。この迷路のなかで出口を見つけるのは容易なことではない。賢明なる読者諸氏、この問題を、自分自身に委ねられた問いに対する決断としてではなく、煮えたぎる血が流れる、半ば野蛮の王女の立場、心は絶望と嫉妬が混ざり合う、白熱した炎に炙られる王女であるとして、考えていただきたい。王女は恋人を失った。だがその彼を得るのはだれなのか?

 目覚めているときも夢のなかでも、恋人が獰猛な牙を持つ虎のいる側の扉を開けるさまを思い浮かべ、いったいいくたび王女は激しい恐怖に襲われ、両手で顔をおおったであろう。

 だが、王女がそれよりもなお頻繁に思い浮かべるのは、恋人がもう一方の扉を開く場合である。女がいるドアを開いて、その顔に、天にも昇るかのような喜びの表情が浮かんでいくところを思うと、歯がみし、髪をかきむしるのだった。王女の胸は苦悶にさいなまれる。女のもとへ駈け寄る恋人が見える、女の頬は上気し、その眼は勝ち誇ったようだ。恋人は女の手を取って歩いていく。命が助かった喜びで、身体中が燃え上がっている。群衆の喜びのどよめきと、祝福の鐘がにぎやかに鳴り響く音がする。喜ばしげな表情を浮かべた侍者をはべらせた神父がふたりの前に歩み出て、自分の目の前でふたりを新郎新婦とする。ふたりは一緒に花を撒いた道を歩いて去っていく。群衆の歓喜の声は、自分の絶望の悲鳴など、かき消してしまうのだ!

 若者にとっては、瞬時の死を受け入れ、半ば野蛮な人々のための来世、祝福された場所で王女を待っているほうが良いのではあるまいか。

 だが、あのおぞましい虎を、悲鳴を、血を考えても見よ!

 王女の決断は、瞬時に示された。けれどもそれは連日連夜にわたる苦しみ抜いた熟慮の末に出されたものである。自分が問われるであろうことは、王女にもわかっていたので、すでに答えの決心はついていた。そうして一瞬のためらいもなく、王女は手を上げて、右を指したのだった。

 王女の決断がどうであったか、という問題は、軽々しく扱われてよいものではないし、わたしがこれに答えることのできるただひとりの人間である、とうぬぼれるつもりもない。そこでわたしはそれを読者にゆだねることにする。開いた扉から出てきたのは、どちらだったのだろう――女か、それとも虎だったのか?

(この項終わり)