フェリーの一番後ろに立って、遠ざかっていく宮島を見た。黒ずんだ山の背後にあかね色が拡がる。海面もオレンジ色に染まりながら沈んでいく陽を反射していた。こんな光景を見ることができるとは、予想もしていなかった。きれいだとか美しいだとかの言葉では、とうてい言い尽くせない、身が引き締まるほどの神々しさだった。
“イツクシマシュラインは美しい建物だね。こんなに美しい建物を造るのも人間なら、アトミックボムを作るのも人間なんだ”
“ジェイミィは鹿がすごく気に入ったみたい”
“ぼくの国ではね、鹿は狩るための生き物なんだよ。だから鹿は人間を見たら、真っ先に逃げる。その鹿がこんなふうに寄ってくるなんて信じられなかった。こんなにpeacefulだなんて、ほんとうにすばらしいと思ったよ”
ジェイミィは大鳥居を指さしてアズマさんに聞いた。
“あのビッグゲイトはどういう意味があるの? あそこからゴッドが入るの、それとも出てくるの?”
“いや、たぶんゴッドが出たり入ったりするんじゃなくて、この奥にゴッドがいる、ってことなんだと思うんだけど……”
“ジャパニーズゴッドはいろんなところにいるんでしょ、じゃ、なんで奥にだけいるの?”
“え? それは……ちがう種類のゴッドってことじゃないのかな”
“じゃ、イツクシマシュラインのなかにいるゴッドって、どんなゴッドなの?”
“わたしにゴッドのことは聞かないで。興味があったらそういう本を読んで。わたしはゴッドのことなんて知らないし、あんまり関係なく生活してるんだから。”
いましがた「神々しい」という言葉を思い浮かべたにもかかわらず、「神々しさ」の実体についてはなにひとつ知らないアズマさんなのだった。
広島市内に戻るころは夜になっていた。駅のロッカーに入れておいた荷物を取りに行き、もういちど市電に乗って、今度は宇品港に行く。最初は混雑していた市電も、徐々に人が降りていき、終点の港につくころにはアズマさんとジェイミィのふたりだけになっていた。
暗い中に浮かび上がるフェリーは、宮島に行ったときよりはるかに立派なものだった。そこで記念撮影。やるぞ、と思っていたら、例の片手をあげて上体をひねるポーズだ。あとで写真を見て、バカバカしくなったりはしないのだろうか、と他人事ながら気になってしまう。
平日の夜行フェリーは、ほとんど空っぽだった。誰もいない食堂では、自動ピアノがジム・ノペティを演奏している。フェリーの切符を手配してくれた広島駅構内のTiSの窓口のお姉さんに勧められるままに、夕食付きのチケットを買ったのだった。
“乗船客がいなかったら出航しないのかな”
“折り返し運転っていうことになってるから、そういうわけにはいかないんじゃない?”
“こうしたディナーの準備はどうなってるんだろう”
“チケットの売れ具合によって準備してるのかな”
話しているうちに不安になってきたふたりだったが、出てきた鮭のムニエルは悪くなく、アズマさんはこの食事代はクレアに請求できるのだろうか、と、チラッと考えた。
出てきたコーヒーを持って、窓の近くに移動する。中にいると、振動は伝わってくるけれど、エンジンの音はそれほどやかましくない。
アズマさんは、ちょっと見せて、と、ジェイミィの持ってきた"Midnight in the Garden of Good and Evil"を取り上げた。開いた表紙にしおり代わりの写真が落ちる。
ジェイミィより少し年上、二十代後半、といった感じの白人男性が笑っていた。
“これは誰か聞いてかまわない?”
“もちろん。レイって言うんだ”
“ジェイミィのボーイフレンド?”
ジェイミィは少し笑った。“クレアから聞いたんだね? クレアはぼくのことなんて言ってた?”
“ジェイミィはとってもスイートな男の子です。それからもうひとつ、彼はゲイです”
“ぼくはレイベリングしてるつもりはないんだけどなぁ”
“レイベリング?”
ジェイミィはナプキンに字を書く真似をした。そのナプキンを胸に当てる。
“つまり、こんなふうに、ぼくはゲイです、みたいに言うつもりはない”
そこでジェイミィは言葉をいったん切って、また続けた。
"I have both experienxed though..."
"both"という前置詞にこんな使い方があるとは! "I have both books(わたしは両方の本を持っています)"だけでなく、あのよく知っているはずの"both"に、こんな使い方があろうとは……。英語の奥深さに改めて感動していると、何か聞いていたらしいジェイミィはもういちど質問を繰り返した。
“アズマ、君にはボーイフレンドはいるの?”
一瞬"I have both friends"と答えようか、と思ったのだが、ジェイミィの真面目な顔を見て思い返し、アズマさんも真面目に答えることにした。
“うん、いるよ”
“彼は何をしているの?”
“学生。レイは?”
“レイも学生だよ。大学院で建築学を学んでいる。彼が設計士になったら、ふたりでフロリダで暮らすんだ。彼の設計した家にね”
“それはすごくステキ。ほんとうに実現するといいね”
“アズマはボーイフレンドとコミットメントするつもりなの?”
“うーん、それはわからないなー”
“彼はどんな人?”
“改めて説明するのはむずかしいけど。信頼できる人だと思う。だけど、"the one"(この人)、って感じとはちょっと違うかもしれないんだなぁ”
“あー、それはわかるよ。ぼくはレイに会うまでいつもそんなふうに感じてた”
“じゃ、レイは"the one"?”
“彼はソウル・メイトだよ”
さっきまで海面に連なる街の明かりと平行に走っていたはずだったが、いつのまにかその明かりも見えなくなっていた。窓の外は、一面の闇が拡がっていた。
(この項つづく)
“イツクシマシュラインは美しい建物だね。こんなに美しい建物を造るのも人間なら、アトミックボムを作るのも人間なんだ”
“ジェイミィは鹿がすごく気に入ったみたい”
“ぼくの国ではね、鹿は狩るための生き物なんだよ。だから鹿は人間を見たら、真っ先に逃げる。その鹿がこんなふうに寄ってくるなんて信じられなかった。こんなにpeacefulだなんて、ほんとうにすばらしいと思ったよ”
ジェイミィは大鳥居を指さしてアズマさんに聞いた。
“あのビッグゲイトはどういう意味があるの? あそこからゴッドが入るの、それとも出てくるの?”
“いや、たぶんゴッドが出たり入ったりするんじゃなくて、この奥にゴッドがいる、ってことなんだと思うんだけど……”
“ジャパニーズゴッドはいろんなところにいるんでしょ、じゃ、なんで奥にだけいるの?”
“え? それは……ちがう種類のゴッドってことじゃないのかな”
“じゃ、イツクシマシュラインのなかにいるゴッドって、どんなゴッドなの?”
“わたしにゴッドのことは聞かないで。興味があったらそういう本を読んで。わたしはゴッドのことなんて知らないし、あんまり関係なく生活してるんだから。”
いましがた「神々しい」という言葉を思い浮かべたにもかかわらず、「神々しさ」の実体についてはなにひとつ知らないアズマさんなのだった。
広島市内に戻るころは夜になっていた。駅のロッカーに入れておいた荷物を取りに行き、もういちど市電に乗って、今度は宇品港に行く。最初は混雑していた市電も、徐々に人が降りていき、終点の港につくころにはアズマさんとジェイミィのふたりだけになっていた。
暗い中に浮かび上がるフェリーは、宮島に行ったときよりはるかに立派なものだった。そこで記念撮影。やるぞ、と思っていたら、例の片手をあげて上体をひねるポーズだ。あとで写真を見て、バカバカしくなったりはしないのだろうか、と他人事ながら気になってしまう。
平日の夜行フェリーは、ほとんど空っぽだった。誰もいない食堂では、自動ピアノがジム・ノペティを演奏している。フェリーの切符を手配してくれた広島駅構内のTiSの窓口のお姉さんに勧められるままに、夕食付きのチケットを買ったのだった。
“乗船客がいなかったら出航しないのかな”
“折り返し運転っていうことになってるから、そういうわけにはいかないんじゃない?”
“こうしたディナーの準備はどうなってるんだろう”
“チケットの売れ具合によって準備してるのかな”
話しているうちに不安になってきたふたりだったが、出てきた鮭のムニエルは悪くなく、アズマさんはこの食事代はクレアに請求できるのだろうか、と、チラッと考えた。
出てきたコーヒーを持って、窓の近くに移動する。中にいると、振動は伝わってくるけれど、エンジンの音はそれほどやかましくない。
アズマさんは、ちょっと見せて、と、ジェイミィの持ってきた"Midnight in the Garden of Good and Evil"を取り上げた。開いた表紙にしおり代わりの写真が落ちる。
ジェイミィより少し年上、二十代後半、といった感じの白人男性が笑っていた。
“これは誰か聞いてかまわない?”
“もちろん。レイって言うんだ”
“ジェイミィのボーイフレンド?”
ジェイミィは少し笑った。“クレアから聞いたんだね? クレアはぼくのことなんて言ってた?”
“ジェイミィはとってもスイートな男の子です。それからもうひとつ、彼はゲイです”
“ぼくはレイベリングしてるつもりはないんだけどなぁ”
“レイベリング?”
ジェイミィはナプキンに字を書く真似をした。そのナプキンを胸に当てる。
“つまり、こんなふうに、ぼくはゲイです、みたいに言うつもりはない”
そこでジェイミィは言葉をいったん切って、また続けた。
"I have both experienxed though..."
"both"という前置詞にこんな使い方があるとは! "I have both books(わたしは両方の本を持っています)"だけでなく、あのよく知っているはずの"both"に、こんな使い方があろうとは……。英語の奥深さに改めて感動していると、何か聞いていたらしいジェイミィはもういちど質問を繰り返した。
“アズマ、君にはボーイフレンドはいるの?”
一瞬"I have both friends"と答えようか、と思ったのだが、ジェイミィの真面目な顔を見て思い返し、アズマさんも真面目に答えることにした。
“うん、いるよ”
“彼は何をしているの?”
“学生。レイは?”
“レイも学生だよ。大学院で建築学を学んでいる。彼が設計士になったら、ふたりでフロリダで暮らすんだ。彼の設計した家にね”
“それはすごくステキ。ほんとうに実現するといいね”
“アズマはボーイフレンドとコミットメントするつもりなの?”
“うーん、それはわからないなー”
“彼はどんな人?”
“改めて説明するのはむずかしいけど。信頼できる人だと思う。だけど、"the one"(この人)、って感じとはちょっと違うかもしれないんだなぁ”
“あー、それはわかるよ。ぼくはレイに会うまでいつもそんなふうに感じてた”
“じゃ、レイは"the one"?”
“彼はソウル・メイトだよ”
さっきまで海面に連なる街の明かりと平行に走っていたはずだったが、いつのまにかその明かりも見えなくなっていた。窓の外は、一面の闇が拡がっていた。
(この項つづく)