陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

"Being Boring"についてちょっとしたおしゃべり

2006-01-15 22:22:05 | weblog
みなさまこんばんは。元日に休んで以来、17日まで休みがない陰陽師です。
昨日まで連載していた「英会話教室的日常番外編」はいま手を入れている最中です。なんとか明日にはアップできるよう、鋭意努力している最中でございます。

谷間の今日、何を書こうかと思っていたんですが、先日サイトの更新情報に一部を書いたPet Shop Boysの"Being Boring"、これについてもう少し書いてみようかと思います。
よかったら少々おつきあいください。

ここで試聴できます。1曲目です。
BehaviorBehavior
Pet Shop Boys

Capitol 1990-10-16
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Being Boring
http://fly.cc.fer.hr/~shlede/lyr/boring.html

古い写真を偶然見つけた
十代のころのパーティの招待状も一緒にあったんだ
「白い服着用のこと」というコメントに添えて、引用がしてあった
だれかの奥さんで、有名な作家でもあったらしい人が
1920年代に言ったことばだ
若い頃っていうのは、いまはもういないけれど、
閉じようとしているドアを開け放ってくれた人の言葉に励まされることがある
その人は、「わたしたちは絶対に退屈したりしない」って言ったんだよ

だって、ぼくたちが退屈な存在じゃなかったから
自分を理解する時間なら、ありあまるくらいあった
そう、ぼくらは絶対に退屈な存在じゃなかった
ドレスアップして、喧嘩して、それから思い直して仲直りして
ためらったり、終わりがいつかくるなんて心配したりしたことなんて、一度だってなかった

ぼくはこの街を出ようと、駅へ行ったんだ
背負ったリュックと一緒に不安も抱えて
誰かが言ってた「用心しとかなきゃ、何もかもなくしてしまうし
大事にしてるものだって、価値がなくなってしまうぞ」
1970年代のことだったけれど
だけどぼくは暢気なものだったし、うきうきもしていた
ぼくの靴底は厚かったし、ドラッグだって手に入れたところだった
閉じかけたドアから逃げ出して
自分が絶対に退屈な人間なんかにならないだろうと思っていた

だって、ぼくたちが退屈な存在じゃなかったから
自分を理解する時間なら、ありあまるくらいあった
そう、ぼくらは絶対に退屈な存在じゃなかった
ドレスアップして、喧嘩して、それから思い直して仲直りして
ためらったり、終わりがいつかくるなんて心配したりしたことなんて、一度だってなかった
振り返ったらたよりになる友だちがいてくれるんだ、
ぼくたちはいつだってそう思っていた

いま、ぼくは見知らぬ顔に囲まれてすわっている
借りた部屋、知らない場所
ぼくがキスした人たちも
何人かはここにいるけれど、消息不明の人もいる
1990年代になった
ほんとうは自分がそうなれるって夢を見てたわけじゃなかったんだ
自分がなりたいといつも願っていたようなものに
だけどそんな夢とは関係なく
君はどこかぼくの近くにすわってくれているはずだと思っていた

だって、ぼくたちが退屈な存在じゃなかったから
自分を理解する時間なら、ありあまるくらいあった
そう、ぼくらは絶対に退屈な存在じゃなかった
ドレスアップして、喧嘩して、それから思い直して仲直りして
ためらったり、終わりがいつかくるなんて心配したりしたことなんて、一度だってなかった
振り返ったらたよりになる友だちがいてくれるんだ、
ぼくたちはいつだってそう思っていた

***


三連目の「借りた部屋、知らない場所」というのは、つまり葬儀場ということだ。
わたしはあまりPet Shop Boysについて詳しいことを知っているわけではないのだけれど、これが90年の曲だということを考えると、その「いつもそばにいてくれるはずだった友だち」がAIDSで亡くなったことを歌っているのだと思う。

80年代の爛熟したゲイカルチャーがエイズの登場によって一気に終息した、そのことを、29年の大恐慌によって終息した20年代アメリカのジャズエイジになぞらえ、ゼルダ・フィッツジェラルドの言葉を引用しながら、亡くなった「友だち」というか、恋人を悼んでいる、そういう歌なのだ。

もちろんこの歌はそんな背景事情なんて知らなくても全然かまわない、単にティーンエイジャーだったあの頃をノスタルジックに歌っているものとして聴けばいいんじゃないかと思う。
もうあのときには戻れない、っていうのは、確かに感傷だけれど、生産的な感情ばかりが「正しい」わけじゃない。音楽、特に、ポップ・ミュージックに関しては、政治的に「正しい」ことを歌っていたり、前向きな精神を持つように呼びかけたりする歌よりも感傷的な歌の方がずっとすてきなことが多い。これははっきり断言してしまってかまわないと思う(もちろん例外は常にあるけれど。たとえばU2とか)。

曲の方もノスタルジックな音だ。シンセサイザーに混じって、あれは何ていうのだろう、ホース?をふりまわす音が入っている。カッティング・ギターはもうちょっと音がシャープなのが好みなんだけど、この曲にはこのくらいおとなしめなほうがぴったりなのかもしれない(あたりまえだけど、これはレッチリの曲じゃない)。
でも、この曲を決めているのはなんといってもニール・テナントの声だ。考えてみたら15年も前の曲なんだけど、全然古さを感じさせないのは、悲しみを感じさせながら、どこか超然としているニール・テナントのボーカルによるところが大きいのだと思う。

その昔、一年以上前のCDなんて、ほしいとは思わない、と言った人がいて、一年以内の曲を聴くなんてことが滅多にないわたしはものすごく驚いてしまったのだけれど、それでもポップ・ミュージックというのは基本的にそういうものなのかもしれない。エマーソン・レイク&パーマーの「展覧会の絵」は、ものすごい名盤だと思うけれど、毎日聴くのはちょっとしんどい(いや、聴きたくなるときは三日間ぐらい毎日聴いたりして、それが過ぎるとあと一年、というより二年か三年は聴かなくなる、と言ったほうが正しいかもしれない)。

ごく短い間に何百回となく繰り返され、その後にも生き延びていく音。
どうかすると頭にふっとよみがえってきて、ああ、あの曲がまた聴きたいな、いまの気分にぴったりたな、と思わせてくれる曲。
歌えるのはサビのところだけなんだけど、それでも口から流れてくる英語のフレーズ。
つまり、"Being Boring"というのは、わたしにとってそういう曲なのだ。