滑り込んできた新幹線の窓を、アズマさんが心配げにのぞき込んでいると、同じように中から探している目とぶつかった。明るい色の髪を短く刈り込んだ、ごくふつうの学生らしい男の子だったので、とりあえずアズマさんはホッとする。
電話で一度話したものの、それで相手のことがわかるにはほど遠い。クレアのいとこであることが唯一の保障のようなものだった。
「ジェイミィはとてもスウィートな男の子です」
この“スウィート”とか“ビューティフル”とか、意味があるのかないのか、どこまでいってもよくわからない形容詞のついた相手と、これから二日間行動を共にしなくてはならないのだ。
アズマさんが中に入っていくと、分厚いハードカバーの本に指を挟んだ先ほどの彼が、もう一方の手を挙げて合図した。
型どおりの挨拶をすませると、ジェイミィは小ぶりのショッピングバッグのなかからアーモンドクラッシュポッキーの箱を取り出し、封を開けた。こちらに、どうぞ、と差し出すので、どうもありがとう、と受け取る。アズマさんがひょいとのぞくと、紙袋の中にはお菓子がぎっしりと詰まっていた。座席の小さなテーブルの上にも、スイスロールの食べ残しと缶コーヒーがのっている。
遠足といえばおやつだけれど、そのセオリーはアメリカ人にもあてはまるのだろうか、と考えたアズマさんだった。
“それ、何の本?”
とりあえず、聞きやすいところから聞いてみる。
“これは"Midnight in the Garden of Good and Evil: A Savannah Story"(邦題『真夜中のサヴァナ』)っていう本だよ”
“John Berendtって聞いたことがない。それは小説なの?”
“小説じゃなくて、ノンフェクション・ノヴェルって感じかな。彼はコラムニストで、長編はこれが第一作なんだ”
シカゴにある大学の演劇科でダンスを学んでいるジェイミィは、夏休みを利用して、日本のダンス・カンパニーと契約したのだという。
ダンス専攻っていうのは、ダンスのほかにどんな勉強をしているの? 映画に「フェーム」ってあるでしょ? あんな感じなの?
アズマさんが聞き、ジェイミィがつぎつぎにお菓子を食べているうちに、新幹線はどんどん駅を通過していく。岡山を過ぎ、目的地が近くなった。
“そうだ、これを聞いておかなくちゃ。あなたが行きたいナチュラル・ホット・スプリング(直訳すると天然温泉)ってどこにあるの?”
いいことを聞いてくれた、という顔になって、ジェイミィは網棚から大きなリュックサックを降ろした。一泊二日とは思えない、巨大なリュックである。しかも両方のポケットには、シャンプーとコンディショナーの大ビンが、一本ずつ突っ込んである。このお菓子の量といい、シャンプーといい、わたしは明日の夜には戻ってこれるのだろうか、と、一瞬不安になるアズマさんだった。
そんな不安とはまったく無関係に、リュックからジェイミィは、分厚い“ロンリー・プラネット”(※アメリカ版『地球の歩き方』みたいなガイドブック)日本編を引っ張り出した。黄色いポストイットが入ったところを開く。
“ここだよ。ベップ! ここにはすばらしいナチュラル・ホット・スプリングがある、と書いてある。”
“ちょ、ちょっと待って。別府って、九州だよ。広島と全然ちがうところだよ”
“この地図を良く見て! こんなに近いじゃないか。広島からミッドナイト・フェリーが出てるんだ。それに乗っていけば、夜、寝ているうちに別府に着けるよ”
“へ? ちょっと見せて”
確かにその地図には、瀬戸内海を点線が横切っている。直線距離でどのくらいなのだろう。確かにイリノイ州を横断するのとたいしてちがわないかもしれない。しかも「お勧め旅行プラン」として、しっかり広島から別府へ向かうコースが載っているのだ。
まったくデカイ国のやつに旅行ガイドなんて書かせるもんじゃない、と思うアズマさんだった。こんなとんでもないプランなんてたてる日本人は絶対にいないだろう。
行きはともかく、問題は帰りだ。明後日は授業があるし、ジェイミィだって仕事があるだろう。とにかく別府観光をして、ナチュラル・ホット・スプリングに浸かって、明日中にジェイミィが東京まで帰り着ける算段をしなければ。
アズマさんは自分が持ってきた時刻表をあちこち開いて考え始めた。
“ベップには、大きな野生動物園もあるんだよね。そこにも行こうね。あと、ヘル・ツアーもしなくちゃ。どんな地獄なんだろうねえ。”
“悪いけど、ちょっと静かにしてくれる? いま考えてるんだから”
広島は目の前に迫っていた……。
(この項つづく)
電話で一度話したものの、それで相手のことがわかるにはほど遠い。クレアのいとこであることが唯一の保障のようなものだった。
「ジェイミィはとてもスウィートな男の子です」
この“スウィート”とか“ビューティフル”とか、意味があるのかないのか、どこまでいってもよくわからない形容詞のついた相手と、これから二日間行動を共にしなくてはならないのだ。
アズマさんが中に入っていくと、分厚いハードカバーの本に指を挟んだ先ほどの彼が、もう一方の手を挙げて合図した。
型どおりの挨拶をすませると、ジェイミィは小ぶりのショッピングバッグのなかからアーモンドクラッシュポッキーの箱を取り出し、封を開けた。こちらに、どうぞ、と差し出すので、どうもありがとう、と受け取る。アズマさんがひょいとのぞくと、紙袋の中にはお菓子がぎっしりと詰まっていた。座席の小さなテーブルの上にも、スイスロールの食べ残しと缶コーヒーがのっている。
遠足といえばおやつだけれど、そのセオリーはアメリカ人にもあてはまるのだろうか、と考えたアズマさんだった。
“それ、何の本?”
とりあえず、聞きやすいところから聞いてみる。
“これは"Midnight in the Garden of Good and Evil: A Savannah Story"(邦題『真夜中のサヴァナ』)っていう本だよ”
“John Berendtって聞いたことがない。それは小説なの?”
“小説じゃなくて、ノンフェクション・ノヴェルって感じかな。彼はコラムニストで、長編はこれが第一作なんだ”
シカゴにある大学の演劇科でダンスを学んでいるジェイミィは、夏休みを利用して、日本のダンス・カンパニーと契約したのだという。
ダンス専攻っていうのは、ダンスのほかにどんな勉強をしているの? 映画に「フェーム」ってあるでしょ? あんな感じなの?
アズマさんが聞き、ジェイミィがつぎつぎにお菓子を食べているうちに、新幹線はどんどん駅を通過していく。岡山を過ぎ、目的地が近くなった。
“そうだ、これを聞いておかなくちゃ。あなたが行きたいナチュラル・ホット・スプリング(直訳すると天然温泉)ってどこにあるの?”
いいことを聞いてくれた、という顔になって、ジェイミィは網棚から大きなリュックサックを降ろした。一泊二日とは思えない、巨大なリュックである。しかも両方のポケットには、シャンプーとコンディショナーの大ビンが、一本ずつ突っ込んである。このお菓子の量といい、シャンプーといい、わたしは明日の夜には戻ってこれるのだろうか、と、一瞬不安になるアズマさんだった。
そんな不安とはまったく無関係に、リュックからジェイミィは、分厚い“ロンリー・プラネット”(※アメリカ版『地球の歩き方』みたいなガイドブック)日本編を引っ張り出した。黄色いポストイットが入ったところを開く。
“ここだよ。ベップ! ここにはすばらしいナチュラル・ホット・スプリングがある、と書いてある。”
“ちょ、ちょっと待って。別府って、九州だよ。広島と全然ちがうところだよ”
“この地図を良く見て! こんなに近いじゃないか。広島からミッドナイト・フェリーが出てるんだ。それに乗っていけば、夜、寝ているうちに別府に着けるよ”
“へ? ちょっと見せて”
確かにその地図には、瀬戸内海を点線が横切っている。直線距離でどのくらいなのだろう。確かにイリノイ州を横断するのとたいしてちがわないかもしれない。しかも「お勧め旅行プラン」として、しっかり広島から別府へ向かうコースが載っているのだ。
まったくデカイ国のやつに旅行ガイドなんて書かせるもんじゃない、と思うアズマさんだった。こんなとんでもないプランなんてたてる日本人は絶対にいないだろう。
行きはともかく、問題は帰りだ。明後日は授業があるし、ジェイミィだって仕事があるだろう。とにかく別府観光をして、ナチュラル・ホット・スプリングに浸かって、明日中にジェイミィが東京まで帰り着ける算段をしなければ。
アズマさんは自分が持ってきた時刻表をあちこち開いて考え始めた。
“ベップには、大きな野生動物園もあるんだよね。そこにも行こうね。あと、ヘル・ツアーもしなくちゃ。どんな地獄なんだろうねえ。”
“悪いけど、ちょっと静かにしてくれる? いま考えてるんだから”
広島は目の前に迫っていた……。
(この項つづく)