陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

この話、したっけ ~ヴァレンタインの虐殺 最終回

2006-01-30 22:45:41 | weblog
その3.17歳のころ

高校二年のとき、姉が突然、今年は「手作りチョコレート」にする、と言い出した。

わたしは昔からこの「手作り」というのには、たいそう疑問があった。別にチョコレートを作るわけではない。チョコレートを湯煎にして溶かして、別の型に流し込むだけではないか。それを「手作り」と称するのは、誇大表現ではあるまいか。

どうせ作るのなら、もっとちがうもののほうがいいよ、ブラウニーを作ろうよ、とわたしが図書館でレシピを探してきて、一緒に作ることにした。

溶かしたチョコレートに小麦粉と卵とつぶしたマカダミアナッツを加えてオーブンで焼く。焼き上がりはクッキーとケーキの中間ほどの食感で、とてもおいしかった。

ところがずいぶんたくさんできてしまい、一番きれいなところを選んで、姉の彼氏用にラッピングしても、ずいぶん残ってしまう。そこで父親と弟にもあげることにしたが、それでもまだ余ったのだ。

せっかくわたしも力を貸したことだし(というか、姉がやったのは、小麦粉をふるっただけで、あとはずっとわたしにやらせたのだ)、せっかくのヴァレンタインだ、わたしもだれかにあげようかな、という気になった。

さて、誰にあげよう、と考えて、図書館にもおいてない個人全集を貸してくれていた国語の先生を思いだした。そうだそうだ、先生がいた。先生にあげよう。

箱に入れてラッピングし、手紙を書いた。
当時、ちょうどフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を読んだばかりで、デイジーが住む対岸の灯を見ながら、ギャツビーが身を震わせるシーンを引用しながら、いろんなことを書いた。そのうち、なんというか、すっかり気分が出てしまい、やたらと感傷的なことを書いたのだと思う。

いま考えると、顔から火が出る思いだけれど、そのときは自分の書いた文章にすっかり酔って、いい気持ちでブラウニーの箱と一緒に袋に入れた。

翌日、颯爽と先生に渡しに行った。

ところが数日後、担任に呼ばれた。
「おまえなぁ、どのくらい本気だ?」
「へ?」
「××先生が言ってたぞ。嫁も子供も捨てるわけにはいかないし、って」
「へ??」
担任からは怒られはしなかったけれど、自分が責任を取れないようなことは書いてはいけない、と懇々と諭された。

わたしはそれまで書くことは好きだったけれど、自分の書いたものに読み手がいる、ということを考えたことがなかったのだ。おもしろがって、友だちのラブレターの代筆をしたこともあった。けれども、それを読む人間のことは、考えたことがなかった。読み手のことなどいっさい眼中になく、ただおもしろいもの、自分が書きたいことを書いていただけだった。

自分が書いたものは、自分から離れて読み手のところへ届く。そうして、それは読み手を動かすのだ、と。
わたしが読み手のことを意識した、その原点にはこのときの恥ずかしい経験がある。


ちょうどおなじころ、わたしたちが「川越のおばさん」と呼んでいた人が亡くなった。
直接の血縁はないのだが、親戚筋にはあたる人で、姉は高校のときこの人に習っていたこともあった。
退職後は近所の子供を相手に、自宅で小さな塾を開き、ひとりで暮らしている人だった。

そのおばさんのお葬式に、は学校があるわたしはいかなかったのだけれど、準備も含め、数日そちらに行っていた姉は、帰ってくると、話したくてたまらない、といった調子でこんな話を教えてくれたのだった。

お葬式のときに、お悔やみを言いに来たひとりの男性が、遺品を少し分けてもらえないか、と言ったのだという。後日連絡する、ということで、住所と名前を控えておいたところ、そのおばさんの部屋から、差出人がその男性の名前の手紙がたくさん出てきた。

引き出しには何年分もの手帳があって、日記形式のその手帳の左半分には、授業や来訪者の記録、右半分には暗号のような記号。どうやら電話があった記録らしい、と姉は言うのだった。

おばさんは、ほんの数日のつもりで入院したところ、そのまま帰らぬ人となったのだとか。だからおそらく、そんなものもそのままになっていたのだ、と姉は言った。そうした手紙や手帳をまとめて、「遺品」としてその男性に返すのだ、と。

おばさんにはそういう、だれも知らない生活があったのだ。わたしたちは、てっきり小説のなかでだけだろう、と思っていたような話が身近で起こったことに、すっかり興奮してしまい、相手のことをいろいろ想像したり、実際のところどういう関係だったのか、あれこれ言い合ったりした。

「わたしもそんなふうに、たとえどうにもならなくても、ひとりの人をずっと思うっていうのがいいな」とわたしが言うと
「何言ってんのよ、うまくいくほうがいいに決まってるじゃん」と姉にこづかれた。

「おばさんの部屋にバラのドライフラワーがあったの。あれ、その人から贈られたものかもしれない」
まだ「ホワイトデー」も一般化する前だったが、一ヶ月後の三月十四日にはちゃっかりお返しのクッキーをもらった姉は、わたしに少しだけ分け前を寄越しながらそう言うのだった。
「ああ、こんなクッキーより、バラのほうが良かったなぁ」

なんとなく、わたしにはそういうことは絶対起こらないだろう、という確信めいたものをそのときに感じたのを、いまでもはっきり覚えている。人には向き不向きというものがあるように、わたしには絶対にバラは似合わない……。

残念ながらこの確信は当たったようだ。

(この項終わり)