陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

メアリー・マッカーシー 『家族の友人』 その8.

2004-12-06 21:10:46 | 翻訳

 多くの場合、この防衛策のおかげで、友だちというフランシスの地位は安泰だった。若いほかのフランシス・クリアリィが、親密な関係という深みから抜け出ようと努力するのを、専門家的見地から、興味深く見守った。

彼自身は夫や妻が、良からぬ思惑を内に秘めて、彼が好きなふりをして交わりを求めたり、以前ほど頻繁にディナーの招待に応じなくなったことや、フランシスと取るはずのランチが、しょっちゅうひとりで取る羽目になったことに文句を言ったり、手紙のやりとりを続けたりしても、ふたたび騙されることはなかった。
だがそのうち、カップルのもうひとりの方が、憤慨して怒り出し、不当であると感じ、ドロシーは(もしそれが夫の方なら)、なんであの鈍くさくつまらないやつにがまんできるんだ、自分のほんとうの友だち、おもしろいやつがアパートメントに足を踏み入れるたびに、ベッドルームでかんしゃくを起こす癖に、と一日に百回も自問するようになるのだった。
フランシスには必ず訪れる決裂の日を、ほとんど時間まで予言できたので、専門分野で競合さえしていなければ、若いフランシス・クリアリィに、ジョン・レイトンがまったく何の理由もないまま彼の頭上でハイボールのグラスを割る日に、レイトン家に行かないように警告したかもしれないくらいだった。

フランシス自身はこうした件に関しては、慎重深く行動したために、時折、その必要もないのに逃げ出してしまう。
ほんのちょっとした褒め言葉だけで、危険を疑い、交友関係が半分も始まらないうちに、安全な場所に慌てて逃げ去るために、なんの邪な計画も持っていなかったカップルなどは、世間づきあいのなかで好きな人の一員に加えようと楽しみにしていたのに、あの親切なクリアリィさんを傷つけるようなどんなことをやってしまったのだろうかと自問する羽目になったのだった。

 プラットフォームで過ごした夜の痕跡は、後々まで残った。
愛されたい、注目されたい、大切にされたいという願いが、かつてはかすかにでもあったかもしれないのだが、痛みもないまま圧殺され、いまや愛されるのではないか、という恐怖が、取り憑いて離れなくなってしまったのだ。いかに芽生えかけた愛情のまなざしを向けられたとしても、彼は自分を滅ぼそうとするものの凝視であると受け取ってしまうのだった。

彼のあらゆる行動は、贈り物をすることも、訪問することも、几帳面に安否を尋ねることも、ゲームをすることも、田舎を散歩することも、相手への献身というシンボルを操作することにもっぱら向けられていたが、それでも、それらのしるしの根拠をほんのひとつ確かめるだけで、彼を破滅させるのには十分なのである。たとえば5ドル金貨が貨幣の流通に導入されたと仮定する。すると現行の全通貨制度は一変してしまう、それと同じことなのである。

ひとりの人物が彼を好きになるだけで、彼は手段と評価の世界、比較の世界で解釈されるようになる。だれかが彼を評したために、彼の評価をめぐって、あらゆる質問が始まっていく。ゼロだった彼、計算が始まる動かない点だった彼が、実数になり、たとえそれがほんの小さな分数であっても、競争のフィールドに入っていくことになる。

別の言い方をすれば、以前は「x」だった彼、未知数であり、どのような社会の方程式でも、既知の数(ヒュー・コールドウェル)と代替可能だった彼が、彼自身、既知数になってしまった、いわば代数学から算術へと進んだわけだ。
彼はもはやヒュー・コールドウェルの代役ではなく、もはや同一の存在、互いに較べることができる存在になったのだった。かつて彼の全面的な長所は、ヒュー・コールドウェルが好意を持たれているほど、だれも彼のことが好きではないという点にあったのだが、実際に、だれかがヒューの半分、四分の一、十分の一程度でも好きになったなら、彼の家族の友人という地位が終わりになるには十分なのだった。


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