陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

責任ってなんだろう その8.

2010-02-01 23:25:51 | 
8.呼びかけ、応えること


オスカー・ワイルドの童話に『幸福の王子』という作品がある。
おそらく知っている人も多いだろう。タイトルの「王子」とは、街角に立っている銅像である。この銅像である王子は、町に暮らす貧しい人びとのために、自分の体を飾る宝石や金箔をツバメに運ばせ、最後はみすぼらしい像となってうち捨てられる、という話だ。

子供の頃に誰が書いたとも知らずに読んだ童話を、かなり大きくなって全集で『サロメ』や『獄中記』などと一緒に読んで、ずいぶん不思議な気がしたことを覚えている。「幸福の王子」というのはいったい何が幸福だったのだろう、と考えたのだ。確かに最後に天使によって天国へ行く。だが、天国へ行けたから「幸福」というのではないような気がした。

貧しい人を救うことができて、幸福なのだろうか。だが、王子の銅像は、最後に息絶えてしまうようだから、宝石や金箔を渡すということは、自己犠牲を意味するようだ。自己を犠牲にして、誰にもそのことを知らせずに他者を助けるということが幸福なのだろうか。

確かに同性愛者であることや、耽美的な側面が強調されるワイルドだが、『獄中記』のなかにも、ワイルドのキリスト教への傾倒はうかがえる。ワイルドが自己犠牲の精神を、何より尊いものと考えていたことの現れかもしれなかった。

「責任」ということを考えたときに、最初に思い出したのが、この童話だった。王子は街の人に対して、責任を取ったのではないか。生きていたあいだは、王宮で豪奢な生活を送っていた彼が、死んで、銅像になってから、ほんとうに「王子」として、人びとに対する責任を担おうとしたのではないか、と思ったのだ。

責任とは、最初に書いたように、response(応答する)ability(能力)である。みずからの行為についての疑問に対して弁明することだ。

だが、なぜそんなことが必要なのかというと、それはとりもなおさずわたしたちが自分以外の人と共に生きているからだ。
わたしたちは、互いに自分以外の人が自分のふるまいをこう受けとめるだろうと予期しながら行為している。その予期に背いたふるまいをしてしまったときは、その理由を説明しなければならない。わたしはこのような理由からこうふるまいました。そうしてその責めはわたしが負います、と答えるのである。それが「責任」ということだ。

呼びかけ、応える間柄のふたりは、互いに相手に対して責任を負う。その責任の根っこのところにあるのは、こうした関係を維持し、支える信頼関係を築き、育てていこうという態度だ。

したがって、過去の行為の責任を問う場合であっても、弁償や埋め合わせを求めることに主眼があるのではなく、今後も共に信頼関係を築いていくためには、その理由が理解されなければならないから、責任が問われるのである。

だが、多くの場合、わたしたちが「責任」という言葉を使うとき、そうした本来の意味から派生した、非常に偏った意味に限られてしまっているのではないだろうか。すなわち、予期せぬ事態が起こったときに、その後始末の役割を負う人物を探し、その弁済を求めるときにのみ「責任」という言葉が使われているのではないか。

「自分の責任」と考えるときも、起こった結果から自分の「責任分」を選り分け、それだけを謝罪し、あるいは弁済し、それであたかも責任そのものを果たしてしまったように考えているのではないか。

責任とは、そもそも起こった結果から生じてくるものではなく、人と人とのあいだに生まれていくものだ。だからこそ、ときに『こころ』の「先生」のように苛烈な責任のとり方も出てくる。

けれど、同時に責任を負うことによって、わたしたちは相手と呼びかけられ、応えるという信頼関係の中に入っていくことにもなる。

「幸福の王子」は貧しい人びとの姿を、自分への「呼びかけ」として聞いた。聞くことで、それに応え、さらに彼らがその助けを受けて幸せになっていくのを見ることができた。だからこそ「幸福の王子」だったのだ。

親だから、教師だから、責任者だから責任を担うのではない。ひとりの人間として、向きあう相手に責任を負う。自分の約束を守り、みずからの自由意思で自分をその約束に拘束していく。

そんなふうな使い方ができないものかと思うのだ。



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