その11.
というわけで、この家はわたしたちが出くわしたときから古く、わたしたちが引っ越してきてからやかましくなった。そうして満杯になるまでにはほとんど時間がかからなかった。子供たちは友だちを連れてきたし、木馬や絵筆を持ちこんだ。わたしたちも友人を呼んだし、本やこまごまとしたものを持ちこんだ。わたしはパイ生地の焼き方を習った――残念ながら、どうやらわたしには生まれながら、パイ職人の血は毛ほども混じっていないようだが。季候が良くなると、みんなが週末に都会から車で遊びに来るようになった。
ジャニーは長いこと、夜になると家のどこか遠くから、自分に歌いかけてくる声が聞こえる、と言っていたし、わたしたちはクリスマスツリーを、戸外からでもツリーの光が柱の列の間を通して見えるように、リビング・ルームの一角に置いた。家の前の芝生の落ち葉は熊手で集め、丘の斜面をそりで滑り降りた。わたしたちはしだいに、都会の人びとをいくぶん軽んじるような物言いをするようになっていた。
前にも言ったように、わたしにとって、いまよりも好ましいライフスタイルがあるとは思えないのだ。たったひとつ、難があるとすれば――骨の折れる仕事とキツネ色に焼けてくれない意地悪なパイ生地を別にして――ぱっとわかるような変化もないまま、一日一日が際限なく続いていくように思われることである。
ご近所の人たちを見ていると、みんな毎日を大切にして、一生懸命日を送ることに満足する一方、ある一日をほかの日から際だたせようとはまったく考えていないように思えてくる。確かにそれは、日々を過ごすには申し分のない方法なのかもしれないけれど、そんなことをしていると、興奮とはほど遠い、というか、まったく無縁になってしまうのではないか。
仮に大きな出来事が起こったとしても(たとえば暴風とか、洪水が起こったり、ひどい雪で三日間というもの、電気が完全に止まってしまったこととか)、次の日にはもうただの記憶の上の目印にしかならなくなってしまう――「あれはたしか暴風の二日前のことよ、だってラズベリーを出そうと思って全部摘んだんだから……」――こうなってくると、最後の審判のラッパが吹き鳴らされたとしても、わたしたちの地元ではさほどの印象を残さないのではあるまいか(「……ええと、何だっけかな、あのラッパが鳴ったのは昼の三時ごろだったぞ。だってその日はあそこの門に板を打ちつけなきゃならなかったからだ。それがどうだ、あのラッパからかれこれ六週間が経ったっていうのに、いまだに門は垂れたままじゃないか……」)
まあ自分のことを考えても、わたしがローリーが生まれた年を覚えているのも、それが新しいコートを買おうと楽しみにしていたという理由なのだが。
(ここでいったん終わり)
お盆をはさんで、思いの外あれやこれやが忙しく、ちょっと休んでしまいましたが。
原作には細かい章分けがされてないのですが、話の切れ目のここで切ることにします。
このあと、少しつなぎがあって、以前訳した「チャールズ」に続いていきます。
その先はまたそのうちに。
サイトにアップするとき、続けて読めるようにしたいと思ってます。
ところでジャクスン夫妻が引っ越した「列柱のある家」というのを検索してみました。
これはギリシャ建築を模したものかな。ちょっとパルテノン神殿なんかを思い出しますよね。それにしても家の全面にこんな柱が並んでるなんて、ちょっとすごいですね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/8b/b51f30dfc3dd21eaa4d99618b91cb6ab.jpg)
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