陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「漆胡樽」の話

2011-08-28 23:03:53 | 
井上靖の散文詩に「漆胡樽」(しっこそん)という短編がある。

語り手である「私」はグラフ雑誌の記者として、正倉院展の特集記事を取材しようとしている。「正倉院展」といっても、戦後間もない時期の、それまでは多くの人は「正倉院」という歴史的建造物のなかに、いったいどのようなものが所蔵されているかも知らなかったころのことである。文化そのものに対する飢餓感も、広汎にあったことだろう。そんな時期の初めての一般公開である。いまのわたしたちにはちょっと想像もできないほど、多くの人が期待し、興味を持っていたことだろう。
作中の「私」は、そんな「正倉院展」を、多くの人に知らせるべく企画されたグラフ雑誌の編集者だった。そうしてその雑誌の巻頭ページを飾る写真を選ぼうと、開催直前の会場を訪れたのである。

そんな「私」の目を引いたのが、「漆胡樽」だった。作者はこうに描写する。
牛の角をそのまま両手いっぱい一抱え程大きく伸ばしたらこうもなろうかと思われる、器物としては一寸類のない異様なその形状は、寧ろ一個の彫刻のようであった。素朴というか、剛健というか、どっしりとそこに据えられた恰好は、むしろどこかに不遜傲岸なものさえ感じられるくらいであった。金銀をちりばめたり、螺鈿の文様をあしらったりした精巧細緻な小さい工芸品が互いに息をひそめ、ひっそりと多少のはなやぎを見せて並んでいる御物展の会場の雰囲気の中では、確かにこの一点のたたずまいは場違いの感じだった。

 そのくせ、その異様な形状の底には何がひそんでいるのであろうか、この漆胡樽の前に立っていることによって、私は自分の心がふしぎに休まされ靜められてゆくのを感じた。若しその前に立つ者の心に何ものかを呼びかけて来るものを芸術品と称していいのなら、これはまさしく一個の芸術品であった。
(『漆胡樽』『井上靖全集第二巻』新潮社)


「漆胡樽」にほかにはない魅力を感じた「私」は、ぜひとも口絵写真に使おうと考える。ところが「漆胡樽」がいったいどの時代のもので、そもそもどういった用途のものであったか、解説を載せようにも詳しいことがわからない。博物館にいる美術史家に聞いてもわからないどころか、研究者もいないという。最後に、在野の考古学者をやっと紹介してもらうことになった。

そこで「私」は、戦時中は長く中国に暮らし、いまは帰国して奈良の小さな寺に住んでいる戸田竜英という人物を訪ねることになる。

ところが戸田は「古代民族の生活の器具」という以外、何もわかっていないのだ、ととりつく島もない。「漆胡樽」という名前すら、後代の、それもおそらく日本人が適当につけた名前に相違ない、と言うのである。

「私」は食い下がる。「漆胡樽」が気に入ったから、どうしても口絵に載せたい、そのために詳しい説明がほしい、と。

そこで戸田は「知っていること」をもとに、「漆胡樽」がたどってきた不思議な物語を語り始める。

「漆胡樽」が作られてから、すでに二百年ないし三百年が過ぎた前漢時代のこと。西域地方の砂漠の中にある、とある聚落に住む人びとが、折からの干ばつのため、その地を捨てて新しく聚落を作り直そうと旅立つ。ところが出発前夜、開かれた酒宴の席で、祭壇に供えてあった「漆胡樽」から葡萄酒が染み出していた。そのことがどうしても気になったひとりの若者が、それを河竜が酒を要求したものだと感じ、河床の一角に、「漆胡樽」に収められた酒を献じようと引き返す。

ところが無人の聚落は、早くも匈奴の掠奪にさらされていた。戻ってきた若者も、たちまち匈奴に襲われ、乗っていた駱駝ごと弓で射られ、倒される。瀕死の若者は、血に濡れた手で「漆胡樽」の栓を抜き、砂漠の大地に撒いた……。

そこから百年の歳月が流れる。ある匈奴の国で、僕として働いている漢軍の捕虜がいた。彼は漢軍が匈奴の軍隊を破り、すぐ近くまで来ていることを知り、何とか部隊に戻ろうとする。そうして族長の妻に取り入って、馬や食料や水を手に入れ、女を道案内に、高原と砂漠を横切り、故国の部隊に合流しようと考えた。途中、疲労から女は息も絶え絶えになってしまう。彼は死に瀕している女に、「漆胡樽」から水を与える。それまで利用することしか考えていなかった女に対して、いまわのきわに初めて愛情のようなものを感じた漢人だったが、亡くなった女をそのままそこに棄て、さらに砂漠を進み、それから十日ほど、疲労と飢餓で死の一歩手前というところで漢軍の部隊に救われる。彼が救われた地点から、さらに二十里ほど北方の砂漠の中で、馬の死骸とともに、「漆胡樽」も発見され、部隊に持ち込まれた。元捕虜の陳の消息はわからない……。

それからさらに三百年後、さらに二百年後のエピソードが語られ、さらに二百年後の天平六年、遣唐使の一行が蘇州を発って、日本に向かおうとするときのことである。通訳として随行した身分の低い者のなかに、二十年近い歳月を唐で過ごしたのち、現地で子供まで持つようになって、日本に帰国する希望をもはや棄ててしまった者がいた。彼は帰国は望まなかったが、東大寺でともに学んだ親友に、自分の代わりに「漆胡樽」を持ってかえってほしいと願うようになったのだ。「漆胡樽」を載せた遣唐船は何度も難破の憂き目に遭い、長安の送り主の下に二度に渡って戻ることもあったが、それでも何とか日本にたどりつき、帝の宝庫である正倉院の奥深くに包蔵されることになった……。

それから千二百年後、「漆胡樽」は戸外に運び出され、「戦いに敗れた国の、秋の白い陽」を浴びることになった……。

「私」は戸田からこんな物語を聞くのである。

日が経つにつれ、「私」は次第にこの話を、「漆胡樽」の話というより、戸田自身の中国大陸での歴程の記録、彼の半生の記録ではないかと思うようになる。口絵の写真には「古代西域人の生活の器具であった」ということを説明するに留めた。

……とまあ、こんな短編なのである。
井上靖には同じ「漆胡樽」という詩もある。

「漆胡樽」

…(略)…

とある日、
いかなる事情と理由によってか、
一個の漆胡樽は駱駝の背をはなれ、
民族の意志の黯い流れより逸脱し、
孤独流離の道を歩みはじめた。
ある時は速く、
ある時はおそく、
運命の法則に支配されながら、
東亜千年の時空をひたすらまっすぐに落下しつづけた。
そして、
ふと気がついた時、
彼は東方の一小島国の王室のやわらかい掌の上に受けとめられていた。

…(略)…

詩人として文学の世界に入っていった井上だから、おそらく短編より詩の方が先なのだろうが、詩の中では想像にとどまっていた「漆胡樽」は、物語となり、砂漠や蘇州の風景の中に置かれることで、いっそう詩情を増しているように思われる。

わたしはこの短編を初めて読んだときから、ずっと「漆胡樽」のことが気になっていた。再度、最初にあげた引用の箇所を見てほしい。

なにか、ひそやかで巨大なものが浮かび上がってくるような描写である。だが見たことのないわたしには、おぼろげにしか浮かんでこない。
確かに、美術展や美術館、博物館で見てきた経験を振り返ってみても、工芸品というのは「精巧細緻な小さい工芸品が互いに息をひそめ、ひっそりと多少のはなやぎを見せて並んでいる」としか言いようのないようすで展示されているものだった。この要を得た描写をもとに「漆胡樽」の姿を思い描こうとするのだが、悲しいかな、どうしてもうまく像を結ばないのだった。

だが、いまでは「漆胡樽」がどんなものか、簡単にその写真を見ることができるのだ。
たとえば
http://www.yomiuri.co.jp/shosoin/2010/news/20101109-OYT8T00230.htm
この記事の写真である。人と比べれば、どのくらい大きいのかもある程度、見当がつく。

だが、この写真を見ても、「なんだかよくわからないもの」でしかない。「何ものかを呼びかけて来る」声は聞こえないし、それどころか、この向こうに中国の大地を思い浮かべるのもむずかしいのだ。

印刷された絵や工芸品は、どれだけ大判で印刷の良い美術全集で見たところで、本物とはやはり比べものにはならない。まず大きさがまるでちがうし、なんというか、やはり印刷すると決定的に落ちてしまうものがあるように思える(たとえ印画紙にプリントされた写真であってもそうだ)。液晶画面になれば、いっそうそうなのだろう。

本で読んだころ、どんなものだろうかとあれほど想像していた「漆胡樽」。
いまなら「どんなものか」知ることはできる。けれど、それをほんとうに知ったとはとうてい思えない。やはりつぎの正倉院展を見に行かなければならないのだろう。





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