陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

責任ってなんだろう その7.

2010-01-31 22:58:38 | 
7.責任のとり方

初めて『こころ』を読んだとき、「乃木将軍」の殉死がいきなり出てくるのに驚いたのを記憶している。乃木将軍って誰? と母親に聞くと、明治時代の軍人、と教えてくれたあと、「司令官としてはあんまり優秀じゃなかったみたい」と付け足した。以来、「優秀ではない将軍」とわたしの頭には刻み込まれたのだった。

実際、学校で教わる歴史の中で、乃木希典という名前が出てくることはないし、聞いたことがない人も多いのではないかと思う。

乃木に関して重要な出来事はふたつある。

28歳のとき、歩兵第14連隊長心得として西南戦争に従軍中、軍旗を反乱軍に奪われたことに大きな責任を感じたこと。連隊を率いて熊本城に向かう途中、敵兵と衝突し、激戦のなかで、乃木軍の旗手は戦死し、国の象徴として天皇から授けられた軍旗を奪われたのである。彼は進んで処罰を求めたが、戦功があったことを理由に赦された。

さらに、日露戦争時には第三軍司令官(大将)として旅順攻撃を指揮し、五万八千人の死傷者を出した。自身の子もふたり、この戦闘において失った。だが、これほどの死傷を出した乃木であったのだが、旅順の「勝利」は乃木を大衆の英雄に祭り上げることになる。家族を失った多くの人びとに対して、わが子の死を前に対しても、武士道的理念で耐え抜く乃木の姿は、軍人の鑑とされたのである。

乃木は、遺言書の中で、自分の自死が「殉死」ではなく「自殺」であること、さらにその動機を「明治天皇の死にさいしての動揺、熊本での軍旗喪失事件、そして老衰」(『日本人の死生観』)と明らかにした。

けれども、この人びとにはそうは受けとられなかった。あくまでも「殉死」として、その「忠誠」と「誠心徳行」を誉め称えたのである。

だが、そう考えなかった人もいた。
学習院校長であった乃木を間近で知っていた志賀直哉などは、「乃木さんが自殺したといふのを英子からきいた時、馬鹿な奴だといふ気が、丁度下女かなにかが無考へに何かした時感ずる心持と同じやうな感じ方で感じられた」(日記、1912年9月14日)という厳しい――というより、悪意としか感じられない――感想を残している。
公然と批判する者は多くはなかったが、知識人のあいだでは、時代錯誤の殉死として受けとめる人も少なくなかったのだ。

一方、乃木の行為の中に痛恨の思いを感じ取ったのは、森鴎外である。鴎外の一連の武士の物語は乃木の殉死に触発され、同時にそれを擁護しようとするものだった。

漱石の乃木の自死に対する考え方は、鴎外のようには明らかではない。だが、『こころ』の中で、Kの死後、死んだように生きていた先生と、軍旗を奪われて以降、つねに自決を考えながら死んだように生きた乃木将軍が、「生きながら死ぬ」という点で重なりあっていることは明らかだろう。

先生は、明治天皇の崩御の報を聞いたところで、「私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました」と考える。
この時点では未だはっきりとは考えていなかったのだが、やがて乃木大将の殉死を知る。

 私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。西南戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日まで生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。

 それから二、三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由がよく解らないように、あなたにも私の自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。あるいは箇人のもって生れた性格の相違といった方が確かかも知れません。
(『こころ』)

先生の考える「明治の精神」というのは、責任の負い方においても見てとれるのではあるまいか。

ひとつの責任のとり方として、ある結果に対して、自分がそれに関与したと思われる分だけの責任を負う、というやり方がある。
子供はやったことを咎められたときに、「それをやっているのは自分だけではない」と言い張ることがある。自分だけではない、ほかにも関与している人間は大勢いる、だから、自分が負わなければならない責任はほんの少しだけだ、という論理である。

それに対して、結果における自分の比重の多寡に関係なく、自分が責任を負うと決断し、自分の意志で自己をその責任の下に束縛する責任の考え方もある。軍旗を奪われたことを、死をもってあがなうという考え方は、とうてい今日のわたしたちからすれば、理解しがたい。だが、乃木はそう決断し、自分の約束を果たした。それが先生が考える「明治の精神」だったのではないか。

だが、もし「私」が先生と近づくことがなければ、おそらく先生は、乃木大将の殉死があっても、死んだように生き続けるだけで、自殺することはなかったように思える。「私」が近づくことによって、「私」を鏡として、自分の来し方を改めて目の当たりにしたのだろう。自分の心境を伝えることができる「私」の登場によって、先生は自分の心境を言葉にすることができたのだ。

先生は「あなたが無遠慮に私の腹の中から、或生きたものを捕まえようという決心を見せ」と言い、「私は今自分で自分の心臓を破って、其血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動が停まった時、あなたの旨に新しい命が宿る事が出来るなら満足です」という。

「私」の存在は、先生の自殺の引き金を引いたともいえるのだ。
果たしてこのあと、「私」はその責任をどのように負うことになるのだろう。

わたしたちにはおそらく乃木将軍や先生のような責任の負い方はできない。おそらく『こころ』の遺書を残された「私」もそうだろう。では、「私」はどういう責任の負い方をしたのだろうか。

「私」が『こころ』の中で先生のことを語ったのは、その責任を果たすためだったのではないのだろうか。「レスポンス」の「アビリティ」としての「責任」である。

明日はいままで書いたことのまとめをしてみたい。




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