陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

トルーマン・カポーティ 「ミリアム」その4.

2007-01-19 22:14:47 | 翻訳
「ミリアム」その4.

翌日、ミセス・ミラーはベッドに寝たきり、カナリアに餌をやり、紅茶を一杯飲むために一度起きただけだった。計っても熱はなかったが、熱に浮かされたように夢ばかり見ていた。夢のなかのバランスを欠いたような感じは、目を見開いて天井をじっと見つめていても続いた。ひとつの夢が、ちょうど複雑な交響楽の曖昧でとらえどころのない主旋律のように、別の夢によりあわされ、夢のなかのけしきは、鮮明なシルエットに彩られて、まるで天分を与えられた手が一心不乱に描いたスケッチのようだった。小さな女の子がウェディングドレスを着て、草の冠を頭に載せて、灰色の行列を従えて山道を下っていく。人々のただならぬ静けさのなかから、列の最後尾の女が声を上げる。「あの子はわたしたちをどこへ連れて行ってるの?」「だれも知らぬのじゃ」先頭をゆく老人が答える。「だけど、きれいな子だこと」三番目の声が、話に加わった。「霜の華みたいじゃない? あんなにきらきらと白くって」

火曜日の朝、目が覚めたときには、気分もずいぶん良くなっていた。目を射るような日差しがブラインドのすきまから斜めに差しこみ、病的な幻も霧散した。窓を開けると、雪は解け、春のように穏やかな日だった。汚れない生まれたての雲の群れが身を寄せ合って、季節外れなほど青いひろびろとした空に浮かんでいる。低く軒を連ねる屋根の向こうに、川が見え、タグボートの煙突から出た煙が穏やかな風にたなびいていた。大きな銀色のトラックが雪溜まりのできた通りを除雪しており、機械が唸る音が風に乗って運ばれてくる。

アパートメントを片づけて、食料品店に出かけると、小切手を現金に換え、シュラフトの店まで足を伸ばして、朝食をとり、ウェイトレスと楽しいおしゃべりをした。なんてすばらしい日、まるで祝日のよう。家に帰るなんてバカみたいよ。

レキシントン街行きのバスに乗り、八十六丁目まで行った。ここでちょっと買い物をしよう、と考えたのだ。

買いたいものも、必要なものも、当てがあるわけではなかったのだが、ぶらぶらと歩きながら、行き交う人のうち、きびきびとして予定のありそうな人だけに目を留めた。そうした人々を見ていると、自分が排除されたようで、不安をかき立てられる。

三番街の角の交差点で待っているとき、男に会った。がに股の老人で、ふくらんだ包みを小脇に抱えている。みすぼらしい茶色のコートに格子縞の帽子をかぶっていた。不意に自分がその老人と、笑みを交わしていることに気がついた。その笑顔には、親しみなど少しもない、ただ、互いを認めてちらりと冷ややかな笑みを浮かべただけだ。だが、相手がこれまでに会ったことのない人間であることにはまちがいない。

老人は高架鉄道の橋脚の脇に立っておいたのだが、ミセス・ミラーが通りを渡ると、方向を変えてついてきた。真後ろを歩いている。目の隅で、ショーウィンドーに揺れる男の姿をじっと見ていた。

そのブロックのまんなかあたりで立ち止まると男と向き合った。男もやはり立ち止まり、にやにやしながらうなずいてみせた。何が言える? 何ができる? こんな真っ昼間、八十六丁目で。愚かなこと。自分の無力さにうんざりしながら、ミセス・ミラーは足を速めた。

つぎの二番街は寂れた通りで、がらくたの寄せ集めでできていた。石畳のところ、アスファルトのところ、セメントのところ。ひとけのないようすはいつまでも続いていく。ミセス。ミラーは五ブロック歩いたが、だれひとり会うこともなく、そのあいだじゅう、雪を踏む規則的な男の足音が、ずっとついてきた。花屋に来たが、それでもまだ足音は続いていた。急いで店に入り、ガラス越しに老人が行き過ぎていくのを見つめた。前方にまっすぐ目を向けたまま、歩くペースは落とさなかったが、ひとつだけ奇妙な、意味ありげな仕草をした。挨拶でもするように、帽子を傾けたのだった。

「白いのを六本でしたね?」花屋が聞いた。「ええ」ミセス・ミラーは言った。「白いバラを」そこからガラス製品を扱う店に行き、花瓶をひとつ、ミリアムが壊したものの代わりにするつもりで選んだのだが、おそろしく高かったうえに、花瓶自体も(彼女の見たところ)グロテスクなほど俗悪なものだった。だが、それからも、うまく説明ができない買い物は続いていった。まるであらかじめ計画が、自分には知ることも、どうすることもできない計画が立ってしまっていたかのように。

さくらんぼの砂糖漬けをひとふくろ買い、《ニッカボッカ・ベイカリー》という店で、四十セント出してアーモンド・ケーキを六個買った、

もう一時間もすると日が暮れるころになって、寒気がふたたび戻ってきた。曇ったレンズのように、冬の雲が太陽を翳らせ、気の早い夕闇が空をすっぽりと覆った。湿ったもやが風と入り交じり、通りの両脇に積み上げられた雪の山の上ではしゃいでいる子供たちの声も、もの寂しげに、うつろに響いた。まもなく最初の雪片が舞い降りてきたかと思うと、ミセス・ミラーがブラウンストーンのアパートに帰りついた頃には、雪はふりしきる銀幕となって、足跡が残る先から消していった。


白いバラを花瓶に活けて飾る。さくらんぼの砂糖漬けは陶器の皿の上で輝いていた。アーモンド・ケーキには砂糖がまぶしてあり、手が伸びるのを待っている。カナリアはブランコの上で羽根を羽ばたかせ、種が入った筒をついばんでいた。

ちょうど五時にドアベルが鳴った。ミセス・ミラーにはだれが来たのかよくわかっていた。部屋着のすそをひきずって、部屋を横切っていく。「あなたなの?」そう声をかけた。

「あたりまえじゃない」ミリアムが言い、その甲高い声が廊下に響いた。「ここ、あけてよ」

「帰ってちょうだい」ミセス・ミラーは言った。

「お願い、急いで……重たい荷物を持ってるんだから。

「帰りなさい」ミセス・ミラーは言った。居間に戻って煙草に火をつけてから腰を下ろし、落ちついてベルが何度も何度も鳴る音を聞いた。「もう行きなさい。あなたを入れるつもりはないから。

しばらくベルが止んだ。時間にしておそらく十分ほど、ミセス・ミラーは微動だにしなかった。それからあとは何の音もしなかったので、ミリアムは行ってしまったのだ、と判断した。忍び足でドアまで歩き、細く開けた。ミリアムは段ボール箱のてっぺんに半ばもたれるようにして、両手にはきれいなフランス人形を抱いていた。

「ほんとうに出てこないつもりか、って思っちゃった」不機嫌そうに言った。「ねえ、これを入れるの手伝ってよ、すごく重いから」

ミセス・ミラーは魔法をかけられたごとくに強制されたというより、むしろ、好奇心のせいで言うことを聞いてしまった。ミセス・ミラーが箱をなかに運び、ミリアムは人形を持って入った。ソファに丸くなるミリアムは、コートもベレーも取ろうとせず、ミセス・ミラーが箱をおろして、身を震わせて立ったまま、荒い息を鎮めようとしているのを、おもしろくもなさそうな顔で見ていた。

「ありがとう」ミリアムは言った。昼の光の下では、しなび、やつれてしまったようで、髪も輝きを失っていた。愛おしげに抱いているフランス人形は、精巧な髪粉をつけたかつらをかぶり、うつろな目は、ミリアムの目に慰めを求めている。「びっくりさせるものがあるの。箱のなかを見てちょうだい」

ひざまづいたミセス・ミラーは、ふたを開けてもうひとつの人形をとりだした。青いワンピースは、映画館で初めて会ったときに着ていたのと同じであることを思いだした。箱の残りを見て、ミセス・ミラーは聞いてみた。「服ばっかりじゃない。どうして?」

「だってわたし、あなたと一緒に生活しようと思ったんだもの」ミリアムはそういうと、さくらんぼの柄をつまみあげた。「わたしのためにさくらんぼを買ってくれただなんて、ステキじゃない」

「そんなこと言ってもだめなの。お願いだから、出ていって――出ていって、わたしをひとりにしてちょうだい」

「……おまけにバラとアーモンド・ケーキもある。ほんとにすごく優しいのね。このさくらんぼはおいしいわ。いままで年寄りと一緒に住んでたの。彼ったらほんとに貧乏で、おいしい食べものなんて何もなかったわ。だけどここだったらわたし、幸せになれるわね」人形をぐっと抱きしめるために、しゃべるのを中断した。「ねえ、わたしのものをどこに置いたらいいか、教えて……」

ミセス・ミラーの顔が溶けて、醜く赤い皺が刻まれた仮面があらわれた。泣き出したのだが、不自然な、涙も出ないようなむせび泣きで、長いこと泣くこともなかったために、まるでどう泣いたらいいものやら忘れてしまったようだった。用心しながらあとずさりして、ドアに手がかかった。

(次回最終回)


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