陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

責任ってなんだろう その2.

2010-01-19 23:10:16 | 
2.どこから責任、どこまで責任

最近は「説明責任」という言葉も耳にするようになったが、おそらくこれは accountability の訳語だろう。わたしが高校生のころは辞書を引くと、この単語のところには「責任」という意味と「説明」という意味が並んで載っていた。それを見て、どうしてまったくちがう意味の言葉がひとつの単語に同居する不思議さに頭をひねったものだ。

この言葉は、自分の行為に対して理由を求められた場合には、相手にそれを説明する責任がある、ということだ。つまり、何らかの行為をするときには、人はそれに対する説明責任を負っている、という考え方が根本にある。ここでの「責任」とは、「説明すること」なのである。

どうしてわざわざ説明しなければならないのか。
その理由は簡単。
社会に生きるわたしたちの行為は、その種類によらず、かならず誰かに影響を及ぼさずにはいられないからだ。
「なぜそんなことをするの?」と聞かれたとき、「かくかくしかじかの理由で」と答える責任が、行為者にはある、ということなのである。

電車の中でのお化粧などの行為が問題になるとき、決まって出てくる反論のひとつに、「いったい誰に迷惑をかけるっていうの?」というのがあるが、そうではなくて、「どうして(自分の部屋や化粧室ではなくて)電車の中で化粧をしているのか」という説明をしなければならないのだ。

さて、もうひとつ、この「迷惑をかけるの?」という問いには問題が含まれている。
お化粧をするという行為が、どのような事態を引き起こすことになるか、いまの時点では誰にもなんとも言えないのである。化粧品のにおいを不快に思う人がいるかもしれないし、電車が急停車して、マスカラが隣の人につくかもしれない。それを見てイライラしてしまった人が、電車から降りた拍子にイライラのあまり階段から転げ落ちて、骨折してしまうかもしれない。

こう考えていくと、いったいどこでその責任の線引きができるか、という問題が出てくる。あることがもとで、ある結果が引き起こされた。はたしてその人にはどこまでの責任があったか、ということである。

さて、ここでとりあげてみたいのが、ギ・ド・モーパッサンの短篇のなかでも、非常に有名な短篇『首飾り』だ。青空文庫に掲載されている訳は多少古風だが、かの辻潤の訳なので、ありがたく拝読することにする。

あるところに美しい娘がいた。とはいえ、格別の係累もおらず、結局、小役人に嫁ぎ、つましい生活を送っていた。それがあるとき夜会に招待される。そこで彼女はたいそう裕福な生活をしている学校時代の友人に、ダイヤの首飾りを借りて出席することにする。ところがその首飾りをなくしてしまった。夫婦はやむを得ず、三万六千フランという大金をかり集めて、よく似た首飾りを買って、黙ってそれを返す。その日から夫婦は、莫大な借金を払うための生活が始まった。つましいといっても、人を雇い、働くことも知らなかった主人公が、家事労働に追われ、家計のやりくりに頭を悩まし、爪に火をともすような生活を送るようになったのだ。そんな生活を十年続けて、やっと一切の借りを返し、ほっとしたある日、例の友人に偶然に会う。

そこで、主人公は「今だから言うけど…」と、ことのいきさつを語る。すると相手は仰天する。

「あ、あ、お気の毒な、マシルドさん! 私のあれは人造で、せいぜい五百フラン位なものだったのですよ!」

という言葉で、この短篇は終わる。

この話を「責任」という観点から眺めてみよう。

まず

1. マシルドは首飾りを紛失した。
2. その行為の責任を取って、首飾りを弁償した。

もしこの首飾りが本物であれば、話は単純だ。けれども、本物ではなかったから、話はややこしくなる。マシルドは自分の責任ではない部分まで、責任を引き受けた。そのことに対して、わたしたちは果たして彼女をすばらしいと思うのだろうか。

ところで、この短篇に対して、怒りをあらわにしている人がいる。
それは夏目漱石である。

漱石は「文芸の哲学的基礎」というなかなかすごい標題の講演のなかで、「不快な作品」として、これをあげている。

よくせきの場合だから細君が虚栄心を折って、田舎育ちの山出し女とまで成り下がって、何年の間か苦心の末、身に釣り合わぬ借金を奇麗に返したのは立派な心がけで立派な行動であるからして、もしモーパッサン氏に一点の道義的同情があるならば、少くともこの細君の心行きを活かしてやらなければすまない訳でありましょう。

ところが奥さんのせっかくの丹精がいっこう活きておりません。積極的にと云うと言い過ぎるかも知れぬけれども、暗に人から瞞されて、働かないでもすんだところを、無理に馬鹿気た働きをした事になっているから、奥さんの実着な勤勉は、精神的にも、物質的にも何らの報酬をモーパッサン氏もしくは読者から得る事ができないようになってしまいます。同情を表してやりたくても馬鹿気ているから、表されないのです。

漱石が批判するのは、マシルドが過剰に責任を果たしたことを、作者のモーパッサンが何ら価値を置いていない点である。モーパッサンが、愚かなふるまいとみなしているから、読者も「同情を表してやりたくても馬鹿気ているから、表されない」ということになるのである。

どこまで「責任」の範囲といえるのか。
「首飾り」という短篇が示すのは、過剰に責任を果たしたとしても、それを単純に評価することはできないということなのだ。

線引きはむずかしい……。

(この項つづく)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿