陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

責任ってなんだろう その3.

2010-01-21 23:13:43 | 
3.選択と責任


もう少し、『首飾り』に関して漱石が「馬鹿気ている」といった点について考えたい。

マシルドが紛失した首飾りを弁償するために身を粉にして働いたことが「馬鹿気て」見えるのは、小説を読むわたしたちが、最後にそんなことをする必要がなかったことを知るからだ。そもそもする必要がなかったとわかって小説を振り返れば、どれほどの苦労であろうと、愚かな行為にしか見えない。漱石が憤りを感じているのは、結末の意外性のために、ひとりの人間の十年に及ぶ血のにじむような労苦を、読者の目に無駄骨としか思わせない筋書きを作ったモーパッサンの倫理性である。

作品に倫理性を求めるかどうかというのはまた別の問題になるので、ここでは置いておく。ここで注目したいのは、『首飾り』のなかで、マシルドは、別の方法を取ることもできた、そうして、その方法をとれば、何もそんな苦労をしないですむはずだった、という点である。

ほかの方法、すなわち、紛失したことを友人に率直に打ち明け、謝罪していれば、友人はそれが模造品だったことを教えてくれるはずだ。仮に弁償しなければならなかったにせよ、比べものにならないほどの額であったにちがいない。

わたしたちはそれを考えるからこそ、マシルドが苦労したのも自業自得、とどこかで思ってしまう。首飾りを紛失したことの責任ではなく、そのことを隠し、知らぬ顔でちがうものを返した責任が彼女にはあると考えるからだ。

ここでつぎのことがわかってくる。

わたしたちが「責任がある」と見なすのは、Aではない行為を選ぶこともできたのに、行為BやCではなく、Aを選んだ、というときである。

もし仮にマシルドが、正直に打ち明け、友人がこれ幸いと、とんでもない金額をふっかけたとする。それによってマシルドがとんでもない苦労をして、その弁償をしたとすると、わたしたちは彼女を気の毒に思いこそすれ(そうしてその友人を憎みこそすれ)、馬鹿げたふるまいとは決して思わないだろう。『首飾り』はまったく別のテーマの短篇になってしまう。わたしたちは「そうするしかなかった」行為、不可抗力に対しては、そもそも「責任」ということを問題にしないのだ。

とすると、ここで考えておかなければならないのは、なぜマシルドは正直に打ち明けなかったのか、ということである。

まず、首飾りが模造品だったという可能性は、マシルドの頭の中には存在しなかった。正直に打ち明けると非難を浴びせられ、弁償を求められるにちがいない。ここで彼女の頭にあった選択とは、黙って弁償するか、非難されて弁償されるか、なのである。そもそも弁償しないですむ選択肢がなかったマシルドには、「友人に紛失を打ち明けて、十年に及ぶ労苦を回避する」という選択肢はなかった。

ここからわかることは、結果が出てしまって、過去を振り返り、ああ、あのときこうしていれば、と、そこに選択があるように見えても、その時点ではその選択肢はなかったかもしれないのだ。が実際にあったかどうかはわからない、ということである。

大庭健の『責任ってなに?』には、直接の責任を満たす条件について整理されているので、ここで引用してみよう。

 私が行為Aを遂行し、引き続いてEが起こったとき、
1.私は、Aでなく、他のようにもできたし、
2.もし、私がAしなかったなら、Eは生じなかっただろうし、
3.私がAしたにもかかわらずEが生じない、という事態は考えられない、
という三つの条件が成り立っていれば、私にはEの直接の責任がある。
(大庭健『責任ってなに?』講談社現代新書)

このことは炎天下に赤ちゃんを車の中に置いたままでパチンコに行ってしまう親の場合をこれに当てはめてみるとわかりやすい。

1. とんでもない親は、行為A(赤ちゃんを車の中に放置する)をしないこともできた。
2. とんでもない親が行為Aをしなかったら、結果(赤ちゃんの熱中症)は起こらなかった。
3. とんでもない親が行為Aをしたにもかかわらず、結果が起こらないという事態は考えにくい(すでに何件も車中放置による赤ちゃんの死亡事故は報道されている)。

だが、直接の責任がある、と言いうるケースはそれほど多くはない。はるかに多いのが、マシルドが紛失を打ち明けなかったときのように、「その時点では予見できない」という場合である。

たとえば、漱石の『こころ』で、先生はKの自殺に責任があると言えるのだろうか。
確かに先生は、Kを出し抜こうと、Kをなじったあとで、こっそり奥さんにお嬢さんをもらいたいと告げる。奥さんから先生とお嬢さんが結婚することを聞かされたKは、その晩自殺するのだが、果たしてKの自殺の責任は、先生にあると言えるのだろうか。

1.先生はそうしないこともできた。
2.先生がそういうことをしなかったら、Kは自殺することはなかった。

だが三点目、先生がそうしたにもかかわらず、Kが自殺しない場合も十分考え得る、というか、そもそもその時点では、Kの自殺という事態は予見し得なかった。先生は、炎天下、車中に赤ちゃんを放置したようなとんでもない親のような直接的な責任はなかったのである。

直接の責任がない場合には、「そのときはわからなかった」「そうしかできなかった」と正当化することは可能だ。だが、先生はKの自殺の責任を負い、自らの命でその責めを償おうとする。

ここから「責任を取る」ということについて、考えてみたい。


(この項続く)



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