陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

責任ってなんだろう その5.

2010-01-25 22:53:51 | 
5.責任があるのは誰なのか

ゴーゴリに『外套』という短篇がある。
万年九等官アカーキイ・アカーキエウィッチは、百五十ルーブルという彼にとっては法外な金で外套を新調する。暖かい新品の外套を着て夢心地でいたアカーキイだったが、追いはぎにそれを奪われ、その結果寒さに凍えて急死する羽目になる。

さて、このアカーキイの死はいったい誰に責任があるといえるのだろうか。誰がその責めを負うべきなのだろうか。

これまでにも見てきたように、ある出来事が起こったとしても、その原因を特定することはなかなかむずかしい。

幽霊となって出没したアカーキイは、長官の外套を奪ったのちは、成仏(?)できたらしいのだが、その原因も、長官が憎かったからなのか、その外套が着心地が良かったからなのか、判然としないままだ。

わたしたちの日常というのは、犯人がいて、動機があって、事件が起こる、といった推理小説的なものではなく、この『外套』の世界同様、何が原因で、何が結果なのかもおよそ見定めがたいものなのだろう。

そういうなかで、「誰の責任」ということが、いったいどうして言えるのだろうか。

ここではもう一度、「責任」という語本来の意味に立ち返って考えてみたい。

以前にも書いたように、英語で「責任」というと、response + ability で「応答する能力」ということになる。ラテン語の語源 "respondere" は「答える」、それも供物を捧げる司祭が神の声を伝える、という意味を指すものである。事実英語でも answer が単なる返答であるのに対し、response は「相手に呼応した答え。要求や合図に対する応答」(ランダムハウス第二版)という意味を持っている。

responsibility が指す「責任」とは、つねに、「誰か」との関係のなかで、その相手に対して応えるものとしてあることを押さえておこう。

一方、日本語の辞書で「責任」という言葉を引くと

(1)自分が引き受けて行わなければならない任務。義務。
(2)自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償い。
(3)〔法〕 法律上の不利益または制裁を負わされること。狭義では、違法な行為をした者に対する法的な制裁。民事責任と刑事責任とがある。 (大辞林)

と、むしろ人と人との関係というより、自分に課せられている、というニュアンスである。
どうやらこれは、もともと賦貢を課するという意味を持つ「責」(白川静『字通』)の影響が残っているのかもしれない。


オックスフォードにはこんな例文が出ている。

It is a great responsibility looking after other peopole's children.
(ほかの人の子供の世話をすることは大変重い責任を伴うものである)

この人は子供の世話を通して、子供と、その子供の親にたいして「責任を負う」。
これは「結果に対して負う義務や償い」という意味ではなく、また「義務」というのとも少しちがう。これは、いま自分が関わっている人と、今後ともつつがなく共に生きていくために、責任を負う、と言っているのだ。

ほかの人たちは、自分を信頼してくれたからこそ、子供を預けてくれた。だからこちらもその信頼に応えなければならない。
「責任」というのはそういう関係のなかに生じるものであり、だからこそ「応える能力」なのである。

そう考えていくと、責任を担う、ということがどういうことか、少しはっきりしてくるように思う。つまり、互いに呼びかけ、応える、その関係の中に入っていく、ということだ。自分の行為の理由を問われれば、それを説明する。当然、結果として過失があれば謝罪することも含む。けれどもその一切が、相手とこれから先も、共に生きていく、信頼し、信頼される関係を築いていくために、責任を担うのである。

「責任」とは、相手に「取れ」と強要したりすることではないのだ。

(この項つづく)




最新の画像もっと見る

コメントを投稿