陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「かんかん虫」と虫と人間(後編)

2008-01-14 22:35:35 | 
「かんかん虫」の筋をここで簡単に見ていこう。
「かんかん虫」のイリイッチには娘がいる。娘のカチヤには同じ「かんかん虫」仲間のイフヒムという恋人がいるのだ。ところが会計士ペトニコフがカチヤを囲おうと申し出てきた。イリイッチはカチヤをペトニコフのもとにやることにする。
だがイフヒムは引き下がりはしないだろう。
イリイッチがそこまで「私」に話したところで、仕事が終わったことを見届けに、ペトニコフがやってくる。ペトニコフが上甲板に足をかけようとした時、クズ鉄が飛んできてペトニコフの頭に当たりペトニコフは転落する。やがて警官たちが来るが、誰ひとり口を割らなかった、というものである。

ここでポイントになるのがタイトルにもなった〈虫〉である。
イリイッチは〈かんかん虫〉と呼ばれる自分たちが、果たして人間なのか、虫なのか、という疑いを持っている。
「旦那、お前さん手合は余り虫が宜過ぎまさあ。日頃は虫あつかいに、碌々食うものも食わせ無えで置いて、そんならって虫の様に立廻れば矢張り人間だと仰しゃる。己れっちらの境涯では、四辻に突っ立って、警部が来ると手を挙げたり、娘が通ると尻を横目で睨んだりして、一日三界お目出度い顔をしてござる様な、そんな呑気な真似は出来ません。赤眼のシムソンの様に、がむしゃに働いて食う外は無え。偶にゃ少し位荒っぽく働いたって、そりゃ仕方が無えや、そうでしょう」

〈人間〉の世界と〈虫〉の世界があるのか。それとも「かんかん虫」も同じように人間なのか。人間なのに虫扱いされているのか。その疑念と不満が渦巻いている。

ところが〈人間〉界の住人である会計士ペトニコフがイリイッチの娘カチヤを囲おうとする。イリイッチは悩む。
カチヤを餌に、人間の食うものも食わ無えで溜めた黄色い奴を、思うざま剥奪(ふんだ)くってくれようか。

イフヒムとカチヤが結婚するのであれば、そこに価値は発生しない。ところがカチヤをペトニコフに差し出すと、そこに金銭的価値が発生する。つまり、娘とお金を交換したことになるのである。それは〈虫〉の共同体と〈人間〉の共同体というふたつの共同体の間での交換ということではないのか。

イリイッチは悩みながらも答えを出す。
それよりも人間に食い込んで行け。食い込んで思うさま甘めえ御馳走にありつくんだてったんだ。そうだろう、早い話がそうじゃ無えか。
カチヤを差し出し、自分を〈虫〉と決めたのである。

だが、交換が成立しても、イフヒムは納得しない。
イフヒムの云うにゃ其の人間って獣にしみじみ愛想が尽きたと云うんだ。人間って奴は何んの事は無え、贅沢三昧をして生れて来やがって、不足の云い様は無い筈なのに、物好きにも事を欠いて、虫手合いの内懐まで手を入れやがる。何が面白くって今日今日を暮して居るんだ。虫って云われて居ながら、それでも偶にゃ気儘な夢でも見ればこそじゃ無えか……畜生。
ヤコフ・イリイッチはイフヒムの言った事を繰返して居るのか、己れの感慨を漏らすのか解らぬ程、熱烈な調子になって居た。
交換は成立したものの、自分を〈虫〉にした人間に対する恨みはいっそう募る。
そうして〈虫〉の側からの反撃が怒るのである。「人間が法律を作れりゃあ、虫だって作れる筈だ」というように、「虫の法律的制裁が今日こそ公然と行われ」たのである。

「かんかん虫」という言葉は、大きな船の船体部に虫のようにへばりついて、かんかんと叩くところから来た言葉である。
けれど、有島武郎は「虫」と呼ばれることで、「虫」のありようや、「虫」の扱われ方、「虫」という言葉が喚起させるさまざまなイメージが、彼らに重ね合わされることに気がついている。ひとつの隠喩が、形を与えられ、やがていきいきと動き出す。そうしてそれはいつのまにか〈人間〉と対置される〈虫〉たちになっていったのだ。


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