陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「かんかん虫」と虫と人間(前編)

2008-01-13 22:17:42 | 
『一房の葡萄』が英語で話している「ことになっている」作品であるとしたら、同じく有島武郎の『かんかん虫』はロシアが舞台、登場人物たちもみなロシア人という作品である。おまけにこのロシア人、
 おい、船の胴腹にたかって、かんかんと敲くからかんかんよ、それは解せる、それは解せるがかんかん虫、虫たあ何んだ……出来損なったって人間様は人間様だろう、人面白くも無えけちをつけやがって。
というように、江戸っ子の職人のような言葉で話すのだ。

「かんかん虫」という言葉を辞書で引くと、
〔虫のようにへばりついてハンマーでたたくところから〕艦船・タンク・ボイラー・煙突などのさび落としをする工員の俗称。
(大辞林)
とある。わたしは有島のこの作品を読むまでこんな言葉があるのを知らなかった。検索してみると、吉川英治が1931年に発表した作品に『かんかん虫は唄う』という作品がある。有島の作品が1910年(明治43年)発表だから、明治から戦前ぐらいまでは一般的な言葉だったのだろう。ともかく、当時の人々にとって、このタイトルが指すものは、容易に理解できたと考えて良い。

ところがこの日本語の俗称をそのままタイトルにした作品の舞台はロシアなのである。作品の冒頭「ドゥニパー湾」として、まず作品の舞台が明らかにされるのだが、それが黒海沿岸の湾であると知らない人にも、やがて中心的な登場人物ヤコフ・イリイッチの名が明らかになることで、ここに出てくるのはロシア人なのだろうと推測がつくようになっている。ロシア語に「かんかん虫」に相当する言葉があるのかどうかはわからないが、これが翻訳小説ならば、おそらくこのタイトルはつかなかったろう。ともかく、わたしたちはタイトルと、作者名と、登場人物と作品の舞台の微妙な違和感を覚えながら作品を読み進める。

イリイッチは
おい、船の胴腹にたかって、かんかんと敲くからかんかんよ、それは解せる、それは解せるがかんかん虫、虫たあ何んだ……出来損なったって人間様は人間様だろう、人面白くも無えけちをつけやがって。
と、このあだ名が気にくわない。

佐藤信夫の『レトリック感覚』によると、あだ名は「白雪姫型(隠喩)」と「赤頭巾型(換喩)」に大別されることが指摘されている。
お姫さまと白い雪のあいだには何のかかわりもない。雪だるまのように雪でできているわけでもなく、雪女のように雪のなかに住んでいるのでもない。ただ、色や清純さが似ているだけである。
 ところが、くだんの女の子のほうは、いっこうに赤くもなく、頭にかぶるシャプロンとは似てもにつかぬ。そのかわり、現実にそれをかぶっている。人間と頭巾は現実にかかわり合い、まさに接触し合っている。
(佐藤信夫『レトリック感覚』講談社学術文庫)

『坊ちゃん』に出てくる教頭は赤いシャツを着ているから「赤シャツ(換喩)」、英語の古賀先生は顔色が悪いから「うらなり(隠喩)」、いがぐり頭の堀田先生は「山嵐(隠喩)」である。

では、「かんかん虫」はどうか。
「船の胴腹にたかって、かんかんと敲くからかんかん」叩く彼らの仕事を「虫」に見立てた隠喩なのだろう。

隠喩というのは、「~のよう」がつかないたとえのことである。
「あの人の頭ははげていて、怒ったりすると、まるでゆでだこみたいになる。」というのが直喩で「寅さん」に出てくる裏の町工場の禿げたおじさんを「タコ社長」と呼ぶのが隠喩だ。

そのちがいは「~みたい」「~のようだ」のあるなしだけではない。「ゆでだこみたい」というのは、相手が説明してくれることで、わたしたちはただそれを聞いているだけなのだが、「タコ社長」という言葉を聞いたわたしたちは、自分自身で、はああ、あの頭の形から来ているのだな、と発見する。自分の発見があるから楽しい。つまりあだ名の楽しさというのは、あとからでも、一緒に命名のゲームに参加できるからなのだろう(だから、金田という名字だから「カネゴン」というあだ名がついていたりするより、口元があの怪獣に似ているから「カネゴン」という方が楽しい)。

だが、その呼び名にも慣れてくると、もはやあだ名はその人物として定着され、「タコ社長」も「御前様」も、ほとんど役柄の名称と変わりはなくなる。そうなるともはやわたしたちはその名称で笑うことはできない。

おそらく最初は「タコ社長」と面と向かって呼ばれて、くだんのタコ社長も腹をたてただろうが、やがてそれにも慣れてくる。そう呼びかける寅さんに、いちいち食ってかかることもなくなってくる。

ところが「かんかん虫」と呼ばれて久しいはずのイリイッチは、いまなおそのあだ名をおもしろくなく思っているのである。つまり、人間である自分たちが「虫」に見立てられることに、このイリイッチの不満は集約されている。「虫対人間」というのが、この作品のテーマなのである。さて、その作品の中身はこのつぎに。


(この項つづく)

(※1/14:一部内容がおかしかったので加筆修正しました。サイトの更新情報も若干書き改めました。)


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