陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

『カインの末裔』と共同体

2008-01-16 22:48:46 | 
さて、『一房の葡萄』と『かんかん虫』と、ずいぶん雰囲気のちがう有島の作品をふたつ見てきたのだが、ひとつ共通点がある。どちらの作品でも罪が犯されるのだが、その罪が罰せられることはない、ということだ。

『葡萄』では主人公の少年はジムの絵の具を盗む。
けれどもそれを女教師は、とがめることをせず、当初、彼をとがめようとしたクラスメートたちも、おそらくは女教師の説得によって、彼を仲間として受け入れる。その結果、孤立しがちだった主人公は「少しだけ良い子」になる。

『かんかん虫』の世界では、「かんかん虫」の娘に手を出そうとした〈人間〉に報復がなされる。だが、そのイフヒムの犯行を「かんかん虫」全員が口を閉ざすことで守ろうとする。

つまり、罪を犯す者が出たとしても、彼を罰するのではなく、共同体全体で受け入れることによって、罪を赦そうとするのである。

では、共同体の外にある人間が罪を犯した場合、どうなっていくのだろうか。
それを『カインの末裔』に見てみよう。

『カインの末裔』の主人公、広岡仁右衛門は、見たところ『かんかん虫』のヤコフ・イリイッチとよく似ている。「身体の出来が人竝外れて大きい」イリイッチと「背丈けの図抜けて高い」仁右衛門、共に物言いは乱暴である。だが、「不思議にも一種の吸引力を持って居る」イリイッチは、「かんかん虫」仲間のなかでも中心的な人物だが、仁右衛門は、妻と赤ん坊と一緒にどこからともなく松川農場に流れてきた小作人である。
彼れはその灯(※市街地のかすかな明かり)を見るともう一種のおびえを覚えた。人の気配をかぎつけると彼れは何んとか身づくろいをしないではいられなかった。自然さがその瞬間に失われた。それを意識する事が彼れをいやが上にも仏頂面にした。「敵が眼の前に来たぞ。馬鹿な面をしていやがって、尻子玉でもひっこぬかれるな」とでもいいそうな顔を妻の方に向けて置いて、歩きながら帯をしめ直した。良人の顔付きには気も着かないほど眼を落した妻は口をだらりと開けたまま一切無頓着でただ馬の跡について歩いた。

町の灯を見るだけでおびえを覚える仁右衛門は、人とうまく交渉することができない。寒さの中で泣きやまない赤ん坊のために、いきなり事務所で金を借りようとするが、断られてしまうとすぐに腹を立て、小屋の在処さえ聞かずに、そこを出ていこうとする。結局、小作の世話人である笠井に連れて行ってもらうことになるのだが、彼の話もまともに聞かず、火種を借りることさえ思いつかない。そのために飢えた夫婦は、小屋の暗闇の中で三枚の塩煎餅を争うのである。

だが、自然を相手にするときの仁右衛門は、働き者で有能な小作人である。
仁右衛門は逞しい馬に、磨ぎすましたプラオをつけて、畑におりたった。耡き起される土壌は適度の湿気をもって、裏返るにつれてむせるような土の香を送った。それが仁右衛門の血にぐんぐんと力を送ってよこした。
 凡てが順当に行った。播いた種は伸をするようにずんずん生い育った。

ほかの小作人に対しては、傍若無人に振る舞う。
仁右衛門はあたり近所の小作人に対して二言目には喧嘩面を見せたが六尺ゆたかの彼れに楯つくものは一人もなかった。佐藤なんぞは彼れの姿を見るとこそこそと姿を隠した。「それ『まだか』が来おったぞ」といって人々は彼れを恐れ憚った。もう顔がありそうなものだと見上げても、まだ顔はその上の方にあるというので、人々は彼れを「まだか」と諢名していたのだ。
 時々佐藤の妻と彼れとの関係が、人々の噂に上るようになった。

小作の世話役である笠井からは、地主に小作料の値下げ交渉の席に自分と一緒に着いてくれ、と頼まれるが、女と密会の約束をしている仁右衛門はにべもなく断る。
一方、土が痩せるからと禁止されている亜麻の連作だが、商人に高く売れるから、という理由で、帳場からの禁止を無視して作る。やりたい放題の仁右衛門に、人々は近づこうとしない。やがて仁右衛門の赤ん坊が赤痢で死ぬことになり、いよいよ仁右衛門は凶暴になる。
「まだか」、この名は村中に恐怖を播いた。彼れの顔を出す所には人々は姿を隠した。川森さえ疾の昔に仁右衛門の保証を取消して、仁右衛門に退場を迫る人となっていた。市街地でも農場内でも彼れに融通をしようというものは一人もなくなった。佐藤の夫婦は幾度も事務所に行って早く広岡を退場させてくれなければ自分たちが退場すると申出た。駐在巡査すら広岡の事件に関係する事を体よく避けた。笠井の娘を犯したものは――何らの証拠がないにもかかわらず――仁右衛門に相違ないときまってしまった。凡て村の中で起ったいかがわしい出来事は一つ残らず仁右衛門になすりつけられた。

この笠井の娘の陵辱事件というのは、果たして仁右衛門の犯行なのだろうか。確かに状況証拠はそろっている。だが、作者は「何らの証拠がないにもかかわらず――仁右衛門に相違ないときまってしまった」と、含みの多い言い方をしている。じつのところ、仁右衛門が犯人であるかどうかはわからないのである。にもかかわらず、「村の中で起ったいかがわしい出来事は一つ残らず仁右衛門になすりつけられた」。

それでも仁右衛門はまだ「三年経った後には彼れは農場一の大小作だった。五年の後には小さいながら一箇の独立した農民だった。十年目にはかなり広い農場を譲り受けていた。」という夢をあきらめられない。そのために、笠井たちの失敗した小作料の値下げ交渉を、函館に住む農場主に直接に掛け合いに行く。だが、農場主から「馬鹿」と一喝された仁右衛門は引き下がらざるを得ない。
仁右衛門はすっかり打摧かれて自分の小さな小屋に帰った。彼れには農場の空の上までも地主の頑丈そうな大きな手が広がっているように思えた。雪を含んだ雲は気息苦しいまでに彼れの頭を押えつけた。「馬鹿」その声は動ともすると彼れの耳の中で怒鳴られた。何んという暮しの違いだ。何んという人間の違いだ。親方が人間なら俺れは人間じゃない。俺れが人間なら親方は人間じゃない。彼れはそう思った。そして唯呆れて黙って考えこんでしまった。

ここで非常におもしろいことに気がつく。仁右衛門が自分が小作人の一員であることをはっきりと自覚したのは、場主と会ってからなのだ。それ以前にほかの小作人に対して傍若無人の振る舞いができたのは、彼らが自分と関係ないと感じていたからである。「親方が人間なら俺れは人間じゃない。俺れが人間なら親方は人間じゃない」というほどに自分と農場主の地位の隔たりを感じることで、初めて自分が小作であることが自覚されたのである。そのときやっと、自分が本来所属していたのは、小作人の共同体であったこと、そうして共同体の一員としては行動してこなかった彼が、もはやこれ以降ほかの小作人に混じってはやっていけなくなっていることが理解される。そこで彼は松川農場を出ていくことになるのである。

物語は、仁右衛門が松川農場のはずれの小屋に住むようになった、冬の初めからつぎの年の冬を迎えようとするまでの一年間が描かれる。一年後、仁右衛門はその農場におれなくなり、来たときにはいた赤ん坊と馬を失い、妻とそのふたりで重い荷を背負って出ていくところで終わる。

共同体の一員とならなかった者は、犯さなかった罪までかぶって、そこを離れざるを得なくなったのである。


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