羊の殺戮 その3.
激しい衝撃、大きな音、ひっくり返る小さなテーブル、こうしたものが、茫然自失の状態にあったメアリーを現実に引き戻した。じわじわと寒気と驚愕が体全体に拡がっていき、しばらくのあいだ立ちつくしたまま、自分が目にしているものを信じることもできずに夫の死体を見おろしていた。ばかげた肉の塊を両手にしっかりと握りしめたまま。
そうよ、わたし、殺しちゃったんだわ。
いまになって急に頭が冴えかえってきたのも奇妙な話だった。めまぐるしく頭を働かせる。刑事の妻であるメアリーには、予測される罪状がはっきりとわかった。いいわ。わたしにとってはたいしたちがいはない。ううん、そのほうがありがたいぐらい。だけど、この子はどうなるの? 人殺しのお腹に子供がいるときは、法律ではどうなっているんだろう? お母さんも、子供も、両方死刑ってこと? それとも十ヶ月になるまで待ってくれるのかしら? これまでどうしてたんだろう。
メアリー・マロニーにはわからなかった。もちろん、いちかばちかそれに賭けてみるつもりもなかった。
肉を台所に持っていき、焼き皿にのせて、オーブンの火を強くすると、中へ押し込んだ。それから手を洗って、二階へ駆け上がり、寝室に入る。鏡の前で腰を下ろし、髪をなでつけ、口紅と頬紅をつけた。笑ってみる。なんだかヘンね。もう一度。
「こんにちは、サム」ほがらかに、はっきりと。
声もどこかおかしいし。
「じゃがいもを少しばかりくださいな、サム。そうそう、グリーンピースの缶詰めも」
こんどはずいぶん良くなった。笑い方も声の調子も、ずっと良くなってきた。メアリーはなおも何度か練習を繰りかえした。それから階段を駆け下りて、コートを取り上げると、裏口から庭へおり、通りに出た。
まだ六時にもならない時刻だったし、食料品店にも明かりが煌々とともっていた。
「こんにちは、サム」メアリーは明るい声でそう言うと、カウンターの向こうにいる男にほほえみかけた。
「やあ、いらっしゃい、マロニーさん。お元気そうで」
「じゃがいもを少しばかりくださいな、サム。そうそう、グリーンピースの缶詰めも」
店主はくるりと向こうを向いて手を伸ばし、棚から缶詰めを取った。
「パトリックったらね、疲れているから、今夜は外で食べるのは止めだ、なんて勝手に決めちゃうのよ。いつもだったら木曜日はいつも外で食べることにしてるのね、だもんだから家には野菜なんて少しもなかったの」
「それじゃ肉はどうしましょう、奥さん」
「ええ、お肉はいいのよ、ごめんなさいね。冷凍庫にいい羊のもも肉があったの」
「そりゃ、よござんした」
「ねえ、サム、凍ったままお料理しない方がいいのはわかってたんだけど、今日は仕方がないからそうしちゃったの。そんなことしても大丈夫かしら?」
「問題ないと思いますよ。たいしたちがいなんぞ、ありゃしません。このアイダホ・ポテトでかまいませんかね?」
「ええ、それをくださいな、ふたつ」
「何かほかにお入り用じゃございませんか」店主は首を傾げて、愛想良くメアリーをじっと見た。「食後に何かいかがです? 何かデザートみたいなものをご主人にお出しになるでしょ」
「ええ、そうね……お勧めは何かある?」
店主は店をぐるっと見まわした。「うまくてでかいチーズケーキひと切れ、なんていかがです? きっとご主人、お喜びのはずですよ」
「それはいいわね。うちの人、大好物だもの」
買った物を包んでもらってお金を払うと、とびきりの笑顔を浮かべて言った。「ありがとう、サム、おやすみなさい」
「おやすみなさい、マロニーの奥さん。まいどどうも」
さて、と、家路を急ぎながらメアリーは胸の内でこう呟いた。いまわたしがやっているのは、家に帰っているってこと。そこには夫がいて、夫は晩ご飯を待ってるの。だからわたしはがんばってお料理しなくちゃ。とびきりおいしいものを作るのよ、だってかわいそうに、あの人は疲れているのだから。それからもし、わたしが家に入って、たまたま何か、ふだんとはちがってること、とか、不幸なこと、とか、恐ろしいこととかに気がついたとしたら、それは当然、とんでもないショックで、わたしは悲しくて、恐ろしくて、気が変になっちゃうわ。でもね、わたしは何かが起こってる、なんて思ってるわけじゃない。わたしはただ、野菜を買って、家に帰っているところ。パトリック・マロニーの奥さんが、木曜日の夕方、旦那さんに晩ご飯を料理するために、野菜を抱えて家に帰っているところ。
そういうことよ、とメアリーは自分に言い聞かせた。当たり前に、自然にしてること。何もかも、自然にしていれば、どんなお芝居もする必要なんかないんだから。
そうして勝手口から台所に入るメアリーは、簡単な曲をハミングしながら笑顔になっていたのだった。
「あなた、いま帰ったわ」
包みをテーブルにおろし、リビング・ルームに入っていく。夫が、床に倒れている夫が、脚を折って、片方の腕はねじれて体の下敷きになっている夫がいる。その光景は、事実、大変なショックだった。夫に対する積年の愛情と熱い思いがメアリーの内にこみあげてきて、駆け寄ると傍らに跪き、心から、声をあげて泣いたのだった。少しもむずかしいことではなかった。演技する必要もなかったのだ。
しばらくすると、立ち上がって電話をかけた。警察署の番号ならよくわかっている。向こうから男の声が応えると、メアリーは泣き声で告げた。「すぐ! すぐ来てください! パトリックが死んでる」
「どなたです?」
「マロニーです。パトリック・マロニーの家内よ」
「じゃ、パトリック・マロニーが死んでるんですって?」
「そうよ」メアリーは泣きじゃくった。「床に倒れてるの……きっと、死んでるんだと……」
「すぐそちらに向かいます」
(同僚の刑事相手にメアリーはうまくやりとげられるのか。結果や如何。
次回怒濤の最終回)
激しい衝撃、大きな音、ひっくり返る小さなテーブル、こうしたものが、茫然自失の状態にあったメアリーを現実に引き戻した。じわじわと寒気と驚愕が体全体に拡がっていき、しばらくのあいだ立ちつくしたまま、自分が目にしているものを信じることもできずに夫の死体を見おろしていた。ばかげた肉の塊を両手にしっかりと握りしめたまま。
そうよ、わたし、殺しちゃったんだわ。
いまになって急に頭が冴えかえってきたのも奇妙な話だった。めまぐるしく頭を働かせる。刑事の妻であるメアリーには、予測される罪状がはっきりとわかった。いいわ。わたしにとってはたいしたちがいはない。ううん、そのほうがありがたいぐらい。だけど、この子はどうなるの? 人殺しのお腹に子供がいるときは、法律ではどうなっているんだろう? お母さんも、子供も、両方死刑ってこと? それとも十ヶ月になるまで待ってくれるのかしら? これまでどうしてたんだろう。
メアリー・マロニーにはわからなかった。もちろん、いちかばちかそれに賭けてみるつもりもなかった。
肉を台所に持っていき、焼き皿にのせて、オーブンの火を強くすると、中へ押し込んだ。それから手を洗って、二階へ駆け上がり、寝室に入る。鏡の前で腰を下ろし、髪をなでつけ、口紅と頬紅をつけた。笑ってみる。なんだかヘンね。もう一度。
「こんにちは、サム」ほがらかに、はっきりと。
声もどこかおかしいし。
「じゃがいもを少しばかりくださいな、サム。そうそう、グリーンピースの缶詰めも」
こんどはずいぶん良くなった。笑い方も声の調子も、ずっと良くなってきた。メアリーはなおも何度か練習を繰りかえした。それから階段を駆け下りて、コートを取り上げると、裏口から庭へおり、通りに出た。
まだ六時にもならない時刻だったし、食料品店にも明かりが煌々とともっていた。
「こんにちは、サム」メアリーは明るい声でそう言うと、カウンターの向こうにいる男にほほえみかけた。
「やあ、いらっしゃい、マロニーさん。お元気そうで」
「じゃがいもを少しばかりくださいな、サム。そうそう、グリーンピースの缶詰めも」
店主はくるりと向こうを向いて手を伸ばし、棚から缶詰めを取った。
「パトリックったらね、疲れているから、今夜は外で食べるのは止めだ、なんて勝手に決めちゃうのよ。いつもだったら木曜日はいつも外で食べることにしてるのね、だもんだから家には野菜なんて少しもなかったの」
「それじゃ肉はどうしましょう、奥さん」
「ええ、お肉はいいのよ、ごめんなさいね。冷凍庫にいい羊のもも肉があったの」
「そりゃ、よござんした」
「ねえ、サム、凍ったままお料理しない方がいいのはわかってたんだけど、今日は仕方がないからそうしちゃったの。そんなことしても大丈夫かしら?」
「問題ないと思いますよ。たいしたちがいなんぞ、ありゃしません。このアイダホ・ポテトでかまいませんかね?」
「ええ、それをくださいな、ふたつ」
「何かほかにお入り用じゃございませんか」店主は首を傾げて、愛想良くメアリーをじっと見た。「食後に何かいかがです? 何かデザートみたいなものをご主人にお出しになるでしょ」
「ええ、そうね……お勧めは何かある?」
店主は店をぐるっと見まわした。「うまくてでかいチーズケーキひと切れ、なんていかがです? きっとご主人、お喜びのはずですよ」
「それはいいわね。うちの人、大好物だもの」
買った物を包んでもらってお金を払うと、とびきりの笑顔を浮かべて言った。「ありがとう、サム、おやすみなさい」
「おやすみなさい、マロニーの奥さん。まいどどうも」
さて、と、家路を急ぎながらメアリーは胸の内でこう呟いた。いまわたしがやっているのは、家に帰っているってこと。そこには夫がいて、夫は晩ご飯を待ってるの。だからわたしはがんばってお料理しなくちゃ。とびきりおいしいものを作るのよ、だってかわいそうに、あの人は疲れているのだから。それからもし、わたしが家に入って、たまたま何か、ふだんとはちがってること、とか、不幸なこと、とか、恐ろしいこととかに気がついたとしたら、それは当然、とんでもないショックで、わたしは悲しくて、恐ろしくて、気が変になっちゃうわ。でもね、わたしは何かが起こってる、なんて思ってるわけじゃない。わたしはただ、野菜を買って、家に帰っているところ。パトリック・マロニーの奥さんが、木曜日の夕方、旦那さんに晩ご飯を料理するために、野菜を抱えて家に帰っているところ。
そういうことよ、とメアリーは自分に言い聞かせた。当たり前に、自然にしてること。何もかも、自然にしていれば、どんなお芝居もする必要なんかないんだから。
そうして勝手口から台所に入るメアリーは、簡単な曲をハミングしながら笑顔になっていたのだった。
「あなた、いま帰ったわ」
包みをテーブルにおろし、リビング・ルームに入っていく。夫が、床に倒れている夫が、脚を折って、片方の腕はねじれて体の下敷きになっている夫がいる。その光景は、事実、大変なショックだった。夫に対する積年の愛情と熱い思いがメアリーの内にこみあげてきて、駆け寄ると傍らに跪き、心から、声をあげて泣いたのだった。少しもむずかしいことではなかった。演技する必要もなかったのだ。
しばらくすると、立ち上がって電話をかけた。警察署の番号ならよくわかっている。向こうから男の声が応えると、メアリーは泣き声で告げた。「すぐ! すぐ来てください! パトリックが死んでる」
「どなたです?」
「マロニーです。パトリック・マロニーの家内よ」
「じゃ、パトリック・マロニーが死んでるんですって?」
「そうよ」メアリーは泣きじゃくった。「床に倒れてるの……きっと、死んでるんだと……」
「すぐそちらに向かいます」
(同僚の刑事相手にメアリーはうまくやりとげられるのか。結果や如何。
次回怒濤の最終回)
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