陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ものを贈る話(その7)

2006-08-11 22:36:42 | 
7.「贈り物」の力学

『賢者の贈り物』で、デラが自分の髪の毛を売って手に入れた時計の鎖は、店にあった時計の鎖ではない。デラの人格と切り離すことはできない「時計の鎖」だ。
『バッタと鈴虫』で、男の子が女の子に贈った鈴虫は、そこらへんにいる鈴虫ではない。やはり、男の子の人格と切り離すことのできない「鈴虫」だ。
贈り物には、程度の差こそあれ、その人の人格がこもっている。

ところで、「人格」というのは、簡単に人に譲り渡せるものではない。自分の一部を切り取って渡すことなど、できるものではない。
『夕鶴』での最後の布などは、文字通り命を賭けた贈り物である。ここまで極端な贈り物をするケースは多くはないけれど、それでも贈る人は、意識するにせよ市内にせよ、自分から切り離せないはずの「人格」、生命の一部を贈っているのだ。

だから、相手からの評価を求めないではいられない。そうして、相手がそのようなものである、と理解してくれることを求める。
「贈り物」の受取り手は、相手の人格を受け取って、そのようなことをしてくれた相手を一段高いものとして承認し、評価し、感謝する。「贈り物」は相手の人格であり、生命の一部だから、受け取る側は、その「贈り物」を「自分のもの」にすることはできない。一時的に借り受けているもの、預かっているもの、としか感じ取れない。
だから、オフェーリアは相手の心変わりを知って返そうとするし、与ひょうは決して最後の布を手放さないだろう。
現実にわたしたちは、人からもらったがために、なんとなく捨てるに捨てられなくなってしまった物を、身の回りにいくつか持っているのではあるまいか?

なんで捨てられないのだろう?
それは、わたしたちがどこかで「借りているだけ」という意識を捨てきれないからではあるまいか。わたしたちは、この「物」を、一時的に使用できるだけなのだ、という。そうしてこれは「負い目」となってわたしたちに残っていく。

だから、「贈り物」をされた側は、お返しをする。お返しをすることで、この負い目の感情は帳消しにはできないけれど、相手にも同じ負い目を負わそうとするのである。

さて、この『蜆』のおもしろい点は、贈り物を扱った小説のなかでも例外的に贈られる側が感謝もしない、負い目も負わない点なのである。日常的に考えても、わたしたちが何かを贈られて、うれしい、とも、困ったな、とも、お返しをしなきゃ、とも考えず、ただ「もらっておく」ことができないことを考えてみても、この語り手である「僕」は、決して無色透明な語り手ではないことがわかる。

「僕」は外套をもらっても、それを自分の物だとは思ってはいない。だが、ありがたく着用させてもらっても、ただの一度も感謝の気持をもたない。
執着も持っていない。追い剥がれても、相手がその「男」と知ると、脱がせ易いような体勢をわざわざとったりもしている。

つまり「僕」は贈る-贈られる、「人格」の一部を譲り渡す-負い目を負う、という力学の外にいるのである。

この力学が働く場を「社会」と呼ぶことにしよう。
そうして、『蜆』の舞台は、戦争によって従来の秩序が破壊され、混乱した社会である。そうした社会を「偽物」として、飲んだくれているのが「僕」、酔うことで、社会の外側にいる。

一方、外套の男の方は、最初は従来の社会、「善いこと」「悪いこと」が明確に定められた社会に生きていた。現実の社会は、敗戦によって混乱し、揺れ動いていたのだけれど、そういうなかで、旧来の秩序を懸命に維持しようとしたのである。

けれども外套を贈ったけれど、感謝されなかったことがひとつの引き金になって、この男の社会も揺らいでいく。

そうして外套を取り戻したときに、逆に「僕」の一部を譲り受けてしまうのである。これまでの自分が「偽者」だったのだと思うようになる。

古いけれど、しっかりした外套は、男の従来生きていた社会をそのまま示している。
だが、これまでのように善いことをするために、自分の一部を押し殺し、喜びもなく生きるのをやめよう、偽者としてではなく「ほんもの」として生きていこうと思えば、この古い外套は「殺され」なければならない。
これを売って、闇商売の元手にする、という形でつぎに生かされるのではなく、まったく無意味に「蕩尽」されなくてはならない。だからこそ、外套の金は、酒に、しかも粕取焼酎に消えていく。そうして、共に飲み尽くした「僕」と「外套の男」というふたつの人格は、融合していくのである。

さて、いよいよ話は先が見えてきた。明日は最後にこの「贈り物」にまつわる「負い目」の感情を考えて、終点に着地してみたい。


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