陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

付記:シャーリー・ジャクスンをめぐるちょっとしたおしゃべり

2004-10-17 07:03:42 | 翻訳
以上がシャーリー・ジャクスンの『くじ』の全文である。
実際これはアメリカで非常に有名な短編のひとつで、数多くのアンソロジーに(たとえばフォークナーの『エミリーに薔薇を』や、ポーの『告げ口心臓』、O.ヘンリーの『賢者の贈り物』などと一緒に)収められている。
アメリカではそういう扱いを受けている作品であることを理解してほしい。

初出は1948年、雑誌「ニューヨーカー」。
『くじ』が掲載されるや、「これ以上『ニューヨーカー』を講読したくない」という何百通もの手紙が編集部に届いた、というエピソードを持つ。
いまよりはるかに「刺激」というものに敏感だった当時の人々に、どれほどのショックを与えたかは想像に難くない。

噴出する「なんのためにこんな作品を書いたのか」とか「このような儀式をおこなっているような村が、現実に存在するか」などという質問に対して、
「ジャクスンは『私はただ物語を書いただけ』と譲らなかった」(若島正 『乱視読者の英米短編講義』研究社)のだそうだ。

なるほど。
ただ物語を書いただけ、か。

こういうオチのある、構成のくっきりした短編は、いまではいささか時代遅れになった感はあるけれど、ひさしぶりに自分の訳をチェックするために読み返してみて、うまい作りだなーと改めて感じ入ってしまった。
この作品には細かい仕掛けがいっぱいある。

たとえばテシー・ハッチンスンが犠牲者(といっていいだろう)に選ばれるのは、実は偶然でもなんでもなく、登場してきた時から暗示されている。
テシーは遅刻してくる。この重要なくじの日を、「忘れていた」と言うのだ。
くじの審判役であるサマーズ氏(この村で最大の権力者であることが暗示されている)が遅刻を咎めたのに対しても、平気で口応えする。
あきらかに男中心の社会であるこの村のなかで(テシー以外の女性は、みなMrs.~と名前を持たない)、男性の立場を揶揄し(「あんたの出番だよ」)、嫁いでいった娘の家族もくじに参加させろと言う。
この村の調和を乱す存在であることが、きわめて巧妙に滑り込ませてある。
テシー自身が決して感情移入しやすい人物ではないために、わたしたちは最後近くの場面では、小さな子どもやかわいい女の子が選ばれなくて良かった、とさえ思っている(なんとなく良くないことのようだけど、それにしても何に選ばれるんだろう……と思いながら)。
けれども、そうした感情に目を眩ませられず、科学者のような態度で(!)作品を細かく見ていくと、テシー以外が犠牲者に選ばれることはあり得ないのだ。
彼女はこの村の秩序を脅かす存在なのだから。

それ以外にも、だれが当たりを引いたんだろう、とみんなが探す場面で出てくる「ダンバーか」「ワトソンか」という名前にも意味がある。
ダンバー家は当主が骨折してくじに参加できない。ワトソンは当主が不在。
この「くじ」は、コミュニティの周縁部分から犠牲者を選び出すものなのだ。
それゆえに、七十七回も参加して、一度も選ばれなかったワーナーじいさんは、そのことを誇りに思い、また、サマーズ氏を批判するようなことを口に出しても許される(だが、つぎの年はどうだろう?)

実に巧妙に織り上げられているため、作者の仕掛けを意識することもなく、読み手は作品の中に溶け込むことができる。
だれもがこう思うはずだ。
テシー・ハッチンスンはこのあとどうなったんだろう。
なんのための儀式、なんのためのくじなんだろう。
疑問は、いつまでも心にのこる。

だが、これこそまさに作者の思うつぼではないか!
わたしたちはまんまとジャクスンにしてやられたのだ。

若島はこのように続けている。
「ただの物語、というのがどんな自作に対してもジャクスンが使う言葉であり、読者はその言葉を真に受ける必要はない(実際、精神科医の診察を受けていたジャクスンにとって、執筆行為が一種の自己治療になっていたという側面は確実にあり、「ただの物語」としてすまされるような問題ではなかったはずだ)。しかし、ジャクスンのおもしろさはその「ただの物語」の危うさにある。日常と非日常、平凡と非凡の紙一重のはざまで、彼女の作品はきわどく宙吊りになっている」

この「日常と非日常のはざま」というのは、確かにジャクスンの作品全部を貫くもので、この『くじ』や『山荘綺談』(ハヤカワ文庫)ばかりでなく、「スラップスティック式育児法」とサブタイトルがついている、ドメスティックコメディの風を装った『野蛮人との生活』(ハヤカワ文庫)にも十分に現れている。
最初に読んだときには、ケラケラ笑いながら読んだのだが(たぶん16歳ぐらい)、もう少し大人になって読み返してみれば、しだいしだいにずれていく感じ、日常から徐々に滑り落ちていく感じに頭がクラクラし、まえは一体どこを読んでたんだろう、と思ってしまった。

ところでヘミングウェイは『くじ』を評価していなかった、というのを、リリアン・ロスが「ニューヨーカー」に書いていたのを読んだ記憶がある。なんとなくわかるような気もして、すっかり忘れてしまっている正確な内容を求めて、今回探したのだけれど、どうやっても見つからない。そのうち見つかって、かつ、当方に暇があったら訳してみるかもしれないので、あまり期待しないで待っててください。
本は、うーん、出るかなぁ。
ともかく、ロスはおもしろいよ。邦訳は『「ニューヨーカー」とわたし』(古屋美登里訳 新潮社)と『パパがニューヨークにやってきた』(青山南訳 マガジンハウス社)が出ています。
あとの方は「ニューヨーカー」の記事一本を一冊の本にしたものなんだけれど、“パパ”はもちろん、ヘミングウェイね。これまた「ニューヨーカー」で賛否両論巻き起こったんだけど、この話はまたいつか。

あ、良かったら、読んだ感想、聞かせてください。


(この項終わり)

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8 コメント

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Unknown (ゆふ)
2004-12-11 23:07:34
遅まきながら『くじ』を読みました。



  だれもがこう思うはずだ。

  テシー・ハッチンスンはこのあとどうなったんだろう。

  なんのための儀式、なんのためのくじなんだろう。

  疑問は、いつまでも心にのこる。



陰陽師さんの解説にこうありましたが、私はさらにこんなことも考えました。



他の年、あるいは他の村ではどんな人が「当たり」を引いたのか

その人達もやはりテシーと同じようなうろたえ方をしたのか

それともそのことを淡々と受け入れたのか



でも、これもやはり作者の思うつぼなんでしょうね。





本当は愚かなことなのに、疑う機会を持たないまま続けられている儀式、伝統、習慣。

そして、それに異を唱える者には石を投げる。

我々はそんなことをしていないだろうか、などと考えてしまいました。

(こういった小説から教訓めいたことを導き出すのは非常に野暮なことではないかと思いつつ)





※稚拙なコメントでごめんなさい。まー、賑やかしってことで。

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『くじ』についてのあれこれ (陰陽師)
2004-12-13 18:18:04
コメントどうもありがとうございました。



わたしが初めて「くじ」を読んでから、かれこれ十五年ほどが経っているんですが、初めて読んだときの衝撃はいまだに記憶に残っています。

そしてしばらくゆふさんと同じようなことを、ああでもない、こうでもない、と考え続けました(そのくらい、頭の中に長く居座った)。



この文章はあくまでも「解説」ではなく、それこそ、ちょっとしたおしゃべりのつもりで書いただけなので、ふれなかったのですが、この村に教会がないこと、村人の中にも、牧師がいないこと、もうひとつ、ワーナーじいさんの『くじは六月、とうもろこしは、じき太る』ということばにもあきらかなように、この村ではキリスト教ではなく、おそらく土俗的な宗教が信仰されているのだろう、そして「くじ」は、収穫を祈願するための宗教的な儀式なのだろう、ということが推測できます。



収穫を祈願する儀式というのは、太古からおこなわれてきた。

地域によっては、人間を生け贄として捧げたところもあったのでしょうし、そうしたモチーフを持つ神話、民話の類も数多く残っていますよね。



ゆふさんご指摘の



>その人達もやはりテシーと同じようなうろたえ方をしたのか

>それともそのことを淡々と受け入れたのか



というのは、大昔の儀式、生け贄として選ばれた人がどうだったのか、という疑問にもつながっていきます。

フレイザーの『金枝篇』には、国土に豊穣をもたらす王が、年老いて病気になったり、性的能力を失ったりすれば、国土の不毛をまねくために、殺される(儀式的な場合もあります)ことになっていた、とあります。

あるいは、神話・民話でも、生け贄というのは、繰り返し現れるモチーフですが、あんまりそういうひとが暴れた、抵抗したという話にはなっていきません。

それを、たとえばエリアーデはこんなふうに説明しています。



「単純文化人は―そしてやがて見るようにこれは単純文化人だけではないのだが―いわれのない苦悩を考えることはできないのである。それは(もし彼が宗教上のあやまちだと知らされるならば)個人的なあやまちから起こるし、(もし術者が呪術行為が含まれていると発見した場合には)隣人の悪意から起こるのである。しかし、その底にはつねにあやまちがあるか、もしくは少なくともある原因があり、それはすでに忘れ去られた至上神の意志と認められ、この大神に対して最後に懇願せざるを得なくなる。これらいずれの場合にも、苦悩は理解し得る原因を持ち、それゆえに堪え忍び得るものとなるのである。この苦悩に対して、単純文化人はその利用し得るあらゆる呪術宗教的手段をもってこれに拮抗する。―しかし彼は、それが不合理なものではないゆえに、実際に堪え忍ぶのである」(『永遠回帰の神話―祖型と反復―』M.エリアーデ 未来社)



その一方で、生け贄の儀式を現在の文脈で再現するとどうなるか。

当時の世界観、文化的成熟度合いのなかで見る儀式とは、不合理さ、おぞましさ、陰惨さのレヴェルで較べものにならないものになってしまうであろうことは、想像に難くありません。



ジャクスンがやったのは、そういうことなんです。

ディテールを書き込んでいくことによって、架空の、けれど、実際にあっても全然不思議ではないニューイングランドの村(どこにもひとこともニューイングランドとは書いていないけれど、あれはまちがいなくニューイングランドでしょう)を出現させ、そこを舞台に、大昔の儀式を復活させてしまった。



このニューイングランドという土地には、忘れられない記憶があります。セイラムで17世紀末、実際に魔女狩りが起こり、約200名が逮捕され、20数名が処刑されて命を落とすという事件があったのです(マリオン・L・スターキー『少女たちの魔女狩り』平凡社 またこの事件をもとにアーサー・ミラーは『るつぼ』という戯曲を書き上げました。この作品はミラー自身が脚本を書き、『クルーシブル』として映画化もされています)。



古代ならともかく、魔女狩りというのは実際に18世紀まで残った(アメリカではこのセイラム魔女裁判を最後に収束しますが、ヨーロッパでは散発的に続いたようです)。

人間のなかにあるグロテスクな部分というのは、文明の進歩とは無関係のような気がしてなりません。



一見、澄んだ水に見える池の底をかき回すと、汚泥が湧き上がって、水が真っ黒になってしまう。ジャクスンの『くじ』が、多くの人の反発を生んだのも、あたりまえのことだったのかもしれません。みんなが、できれば忘れたいと思っていた人間のおぞましさを、そこだけ切り取って、取り出したようなものですから。



週末忙しくて更新できなかったもんで、久し振りに書いたらえらく長くなってしまいました(^^;)。



>稚拙なコメントでごめんなさい。まー、賑やかしってことで。



こういうことは言いっこなしです。どんなコメントにも「その人」が現れていさえすればわたしは歓迎するし、

先へ進んでいこうと思えば、「いま」のコメントは「稚拙」なもの以外になりようはないわけだから。



ということで、ほかのもヨロシク!
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『くじ』についてもう一言 (ゆふ)
2004-12-17 22:56:02
生贄にしろ魔女狩にしろ私にはまとまった知識がありません。

したがって断片的な知識やイメージをつぎはぎして想像するだけなのですが、そういったことが行われる時、人々は興奮し熱くなっているのではないでしょうか。

しかし、この作品中の人々は非常に醒めていて、「くじ」の儀式にはどこかのどかな雰囲気さえあります。

(「さっさと終わらせるとしよう」などとも言っているし、あまり夢中にはなっていない。)



文明が進歩しても、人間の中にあるグロテスクな部分やおぞましいものがなくならない、ということは(なんとなく)理解できます。

それはすごく嫌なことなんだけれども、そういったことというのは、何かすごく特別な状況の下で剥き出しにされるんじゃないか、と思うことで自分を慰撫してきました。



しかし、もし人間が、のどかにおぞましいことをやり得るものだとしたら、おぞましいことをしたすぐ後にいつもの仕事にもどれるような存在だとしたら………。

この作品を読んだ後、居心地の悪さがなかなか消えません。



(のどかさを、オチを際立たせるための作意としてとらえればどうってことないのですが)



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もう一言にもうひと言 (陰陽師)
2004-12-20 05:52:09
>「さっさと終わらせるとしよう」などとも言っているし、あまり夢中にはなっていない。



ここに気がついたのはすごい炯眼だと思います。

ゆふさんに指摘されるまで、思い至りませんでした。

そうですよね。

興奮して(それこそ『るつぼ』のように、集団ヒステリー状態に陥って)、みんなが「くじ」に熱中しているわけではない。

もはや年中行事と化して、その意義さえはっきりとは意識されていないんです。

にもかかわらず、行為の残酷さだけは残っている。

確かに、そうすることで、奇妙さは際立ちます。

ヘミングウェイが嫌ったのは、そうしたあまりに作為的な部分だったような気がします。



ただ、非常に考え抜かれた、緻密な構成をもつ一方で、この作品の中には、やはり、どこか歪み、みたいなものがあります。

アンサンブルのなかの、ひとつの楽器の弦一本だけだけ、微妙に調律が狂ってる感じ。そのせいで、非常に聞いていて居心地が悪いんです。

この歪みはシャーリー・ジャクスンのほかの作品にも通底しているような気がします(ただ、ここまで緊密な構成を持っているものはあまりない)。

その歪みがなかったら、『くじ』はいままで残ってなかったかもしれません。
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石なところが (くみにゃ)
2009-03-24 03:27:52
いまごろになってスミマセン。

たまたま最近同じ作者の『ずっとお城で暮らしてる』を読み、そのひとのもっとも有名な作品である「くじ」ってどんな話なの? ……と検索してみて、陰陽師さまのご翻訳に行き当たりました。家にいながらにしてすぐに読ませていただけたことにまず感謝いたします。
文章の美しさ、わかりやすさ、「解説」の格調の高さ、英米文学への造詣の深さなどなどに、感動しました。

余計な話だったらすみません。
ワタクシメは、「石をぶつける」ところが肝なんじゃないかなぁ、と思いました。火あぶりとか、銃殺じゃなくて。
土俗的というご指摘がありましたし、犠牲者エシーが「選ばれたものである」指摘にも、うなりました。でも、わたしは、むしろそれは、「もっとコワイ話にしてしまわないため」の選択なような気がします。

『ニューヨーカー』誌の読者の大半はキリスト教文化圏のかたがたなので、例の「罪なきもののみ石を持て」が関係なかったはずはないと思うのです。

バイブルでは、売春婦がリンチされそうになったとき、通りすがりのイエスがそんなことをいうと、みんな恥じ入って石を握った手をおろしたとされています。
でも、「ほんとにおろせる?」
「おろしてる?」
「その石、どうするの?」
そんな話なんじゃないかな。

わたしは信者じゃありませんが、ミッション系の学校にいたことがあるのでちょこっとだけ聞きかじってますが、カソリックでは、洗礼を受ければ原罪が消え、告解(懺悔)をすれば日常の罪も毎度消去できるそうです。なんだか、しょっちゅう発生するけど、どうせコマメに消せるもんね、みたいな、ペンでなく鉛筆でものを書くような感覚なんじゃないかなぁ、と、疑ってしまうぐらい。

自分が「原罪を負っている」とか「しょっちゅう罪を犯してる」とかと感じながら生きていくのはずいぶんとヘビーですが、他人やさまざまなものごとに「不愉快」になったり「ゆるしがたい!」と感じたりすることは、あまりにも日常的です。つまり、他人はしょっちゅう「罪」を犯していて、自分はずっとそれを我慢することを強いられている。お互いさま、なんですけど、ときどき、妙にムカッ腹がたつ。

不平不満や傷ついた気持ちを我慢して、なるべくおだやかに(装って)暮らしていても、こころは救われない。なまじ、無理に押し殺せば押し殺すほど、だんだんコワイものになってくる。

だから、たまに、発散する必要があるのではないか。圧力鍋のふたについてる蒸気を散らすシクミのように、人類は(あるいは社会生活は)怒りや暴力的衝動の発散を必要としている。よって、集団機構は、それを相殺するシステムを必要としている。

ご翻訳を読んで真っ先に、あー、コレは、そういう話なのね、とワタクシメは感じたのでした。なので、陰陽師さまのご指摘の数々に、このへんのことがでてこないことが、すみません、ちょっと不思議だったのでございます。

これ、たとえば、クラスのイジメ問題になやんでいるコドモさんとか、育児や嫁姑問題やママ友関係で追い詰められてるおかあさんとかにとっても、ものすごく、身近な話だと思うんです。はたまた、世界不況のせいでシゴトがたいへんなことになっている派遣のかたとかにとっても。

ないほうがいいとわかっちゃいるけどどんどん積みあがってしまうこの「石」を、どこにもぶつけちゃいけないとしたら、じゃあ、どうしたらいいんだ?  その答えを、この物語は要求しているのではないでしょうか。

どこであってもかまわない遠い国のいつであってもかまわないお話でありながら、すべての人間のこころにグサッと突き刺さるチカラを持っていて、ほんとにスゴイなぁと思います。
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石る (陰陽師)
2009-03-25 10:40:12
くみにゃさん、初めまして。

> 『ずっとお城で暮らしてる』

は不思議な感じの作品ですよね。
一種のゴシック・ロマンというか、アイデアそのものとしては、いまのわたしたちにはそれほどめずらしいものではない。
物語としてのおもしろさ、というのも、何がどう、とあるわけではない。
けれど、妙なつじつまのあわなさ、とらえどころのなさ、作者自身の精神のゆがみみたいなものも微妙に感じられて、よくわからないけれど、不思議な雰囲気に引かれてしまう。

この作者のものをもっと読んでみたい、という気になるのは、よくわかるように思います。
検索でたどりついて、読んでくださって、どうもありがとうございました。

>「もっとコワイ話にしてしまわないため」

このご指摘は、ああ、そういう読み方もあるのか、と思いました。

stone には動詞があるのをご存じですか?

オックスフォードを引くと、動詞の第一項にこう書いてあります。

stone:v
1. throw stones at:
ex:policemen were stoned by the crowd
■ chiefly historical excute (someone) by throwing stones at them:
ex: Stephen was stoned to death in Jerusalem.

つまり「石」の動詞というのは(「石る」とでも言いましょうか)、第一義的として「石をぶつける」ということなんです。
そうして、その言葉がどこから来たかと言えば、「石打ち」の刑罰からです。

このオックスフォードに出ている例は、キリスト教の最初の殉教者とされる聖ステパノのこと。石を人びとからぶつけられて、死んでしまったのです。

ほかに「石打ちの刑」として思い出すのは、シュテファン・ツヴァイクの『マリー・アントワネット』に、フランス革命後のフェルゼンは、スウェーデンに戻って、徹底的に自由主義者たちを弾圧したために、後に「石打ちの刑」で最期を迎えた、とあったように思います。

石打ちというのは、「死罪にあたいする罪人にたいして大勢の者が石をなげつけるというもので、古代においては一般的な処刑方法であった」と wikipedia にもあります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%89%93%E3%81%A1

> バイブルでは、売春婦がリンチされそうになったとき、通りすがりのイエスがそんなことをいうと、みんな恥じ入って石を握った手をおろしたとされています。

これはちょっとちがうんじゃないかと思うんですが。
わたしも聖書のことはよく知らないんですが、これは例の「パリサイ人」たちが、イエスを陥れようとして、「姦淫」の罪を犯した女性を連れてきた、という脈絡ではなかったかと思います。

http://www2.tbb.t-com.ne.jp/nakashibuya/yohane/j056071111.html

つまり、イエスが女を赦す、と言ってしまえば、イエスは律法に違反したことになる。もちろん律法に従うとなると、自分のこれまでの教えと矛盾することになります。パリサイ人の律法学者たちは、イエスを陥れようとしたんですね。

ただ、ここでも重要なのが、

> 姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、

ということだと思うんです。
つまり石打ちの刑(死刑)というのは、当時ありふれたものだった。

シャーリー・ジャクスンの「くじ」を読んで、英語圏の人が "stone" という単語から連想するのは、ヨハネ書ではなく、動詞としての "stone"、「石打ちの刑」だと思います。

だからこそ、この作品が発表された“ニューヨーカー”は、大変な騒ぎになり、抗議の投書が殺到したのだろうと思うのです。

確かにおっしゃるように、日常の些細な不満のガス抜きというのは、いろんな時代、いろんな社会でさまざまなかたちを取られてきたことと思うんです。

でもね、それがたとえば魔女狩りであったり、それこそ「石打ちの刑」だったりもしたんじゃないか。中世ヨーロッパでは、死刑というのは見せ物でもあったわけですよね。みんながそれを見て「楽しんで」いた。ガス抜きの要素もあったのだと思います。

「ガス抜き」として、誰かをくじ引きで選んで、みんなで石をぶつけて殺しちゃう。
そうやって、共同体の絆を強固なものにしていく。

そんなことを実際に人びとはやってきたし、いまなお、ちがうかたちで続けているからこそ、この話はいまなお怖いんじゃないでしょうか。

> ないほうがいいとわかっちゃいるけどどんどん積みあがってしまうこの「石」を、どこにもぶつけちゃいけないとしたら、じゃあ、どうしたらいいんだ?
>その答えを、この物語は要求しているのではないでしょうか。

この作品からそういう問いかけを受けとるのは、もちろん「あると思います」(笑)。
わたしたちも、実際そうなんですよね。
ちょっとしたことで腹を立てたり、落ち込んだり、不安になったりする心を、どうやって平安に保っていくか。この問題は誰もが考えていかなくちゃなりません。

わたしはなんとなく、日々のルーティンワークをきちんと、丁寧にこなしていくことじゃないか、みたいに、漠然と考えているのですが。
またこの話はどこかに出てくるかもしれません。

> どこであってもかまわない遠い国のいつであってもかまわないお話でありながら、すべての人間のこころにグサッと突き刺さるチカラを持っていて、ほんとにスゴイなぁと思います。

そうですよね。
これがスローガンだったら、誰の胸にも響かない。
物語だからこそ、人の心にいつまでも生き続けていくんだろうな、物語にはそんな力があるんだろうな、と思います。

書きこみ、ありがとうございました。
とても楽しく拝見しました。
また何か感じたことなどありましたら、お気軽に聞かせてくださいね!
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石る! (くみにゃ)
2009-03-26 01:51:01
さっそくお返事ありがとうございます。

ストーンに動詞があるとはまったく存じませんでした! はたまた、うろ覚えの逸話が「イエスを陥れようとしてのものだった」というのも見逃してました。なるほどなるほどです。

>「ガス抜き」として、誰かをくじ引きで選んで、みんなで石をぶつけて殺しちゃう。そうやって、共同体の絆を強固なものにしていく。
そんなことを実際に人びとはやってきたし、いまなお、ちがうかたちで続けているからこそ、この話はいまなお怖い

あー、そうなんです。そういうことを言いたかったのです。

まったく、いつどこでとんでもない「くじ」がまわってくるかわからない、ですよねぇ。でも、なぜか、「サマージャンボ」はあたるかもしれないと思って行列しても、こういう「くじ」のことは、ふだんは都合よく忘れてるんですよね。

陰陽師さまのサイトにめぐりあえて楽しかったです。もしかして、また、同じ本を読んだりしたら、おしゃべりしにまいりますです。ありがとうございました。
返信する
くじは当たらない方がいい (陰陽師)
2009-03-27 07:19:30
>まったく、いつどこでとんでもない「くじ」がまわってくるかわからない、ですよねぇ。でも、なぜか、「サマージャンボ」はあたるかもしれないと思って行列しても、こういう「くじ」のことは、ふだんは都合よく忘れてるんですよね。

小説で宝くじが当たると、たいてい主人公たちはひどい目に遭います(笑)。

フランク・ノリスの『死の谷 ―マクティーグ』でも、奥さんが宝くじに当たったばっかりに、主人公は酷い運命に転落していくし、スティーヴン・キングの『クージョ』だって、事件を引き起こした原因は、クージョの飼い主が宝くじに当たったこと。ジョン・ファウルズの『コレクター』も、主人公がサッカーくじ(そういえば日本にサッカーくじが導入されたとき、わたしが真っ先に思い出したのはこの小説でした。初めて読んだとき、「サッカーくじ」が何か、想像がつかなかったんです)に当選しなければ、そもそもあんな家を作ることはなかった。

宝くじに当たってハッピーエンド、って小説は思いつかない(笑)。

それを考えると、くじなんてものは、当たらない方がいい、ってことでしょうか。

わたしは中学受験で一生分のくじ運を使い果たした(笑)と思っているので、宝くじは買ったことがありません。商店街の福引きだって、赤玉以外、出したことがありません(笑)。

翻訳は、わたしが言うのもなんですが、おもしろいものがたくさんあると思うので、ぜひ読んでみてください。くみにゃさんのお気に入りが見つかるといいな。

また遊びに来てくださいね。

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