陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

『女主人』のつけたし

2009-08-03 23:03:51 | weblog
一昨日まで連載していたダールの『女主人』はいかがでしたか。
怪談の季節ということで、選んでみました。
以下、ネタバレを含むので、まだ読んでいない方は本文の方を先に読んでみてください。


この作品がゾッとするのは、ひとえに女主人の持つ特殊な技術にあると言ってよい。推理小説に殺人者はつきものだが、殺人シーンは一切出てこないにもかかわらず、彼女をほかの殺人者から際だたせているのは、巣を作って獲物をクモのように待っていることよりも、その目的が、剥製作りにあるからだろう。

とはいえ、剥製そのものがかならずしも不気味なわけではない。

その昔、小学校の理科室の奥にある準備室に、ライチョウだったかキジだったかの剥製が、ロッカーの上で埃をかぶっていた。カーテンを通した鈍い光の中で見る人体模型や剥製は、不気味というよりひどく非現実的で、人体模型がまるで人間と関係があるとは思えないように、ライチョウの剥製が本物の鳥の羽でできているようにも思えなかった。

動物園でシロクマの剥製も見たことがあるが、剥製か、まるっきりの作り物であるか、見ただけではほとんど区別もつかず、したがって、剥製を不気味と感じることもなかったのである。

かわいがっていたペットが死んで、その悲しさを埋めようと、剥製にすることを考える人はいる。

忠犬ハチ公も南極のタロとジロも、日本最後の天然朱鷺も、みんな剥製にされている。彼らが生きていたことを記念しておくために剥製にすることは、特にめずらしいことではない。

「亡き子犬を剥製にしたいのですが」
「亡き猫を剥製化するかどうか悩んでいます。」

だがどちらの質問に対しても、圧倒的多数の回答者が、剥製にすることに反対し、埋葬することを勧めている。たとえ剥製にしても、生きていた姿とはほど遠いものになるから、と言っている人もいるが、多くの人は「剥製にすること」自体を疎んじているように思える。

南極のタロとジロにせよ、朱鷺のキンにせよ、公的な性格の強い動物で、個人のペットとはちがう。剥製を考える人に反対する人は、おそらくは自分であれば自分のペットに対して、そういうことはしたくない、と考えているにちがいない。

剥製にするためには、遺体に手を加えなければならない。名前は知っていても、自分と直接には関係のない、南極の犬や朱鷺であれば、「死んだ」と聞いても、遺体をリアルに想像することもないが、自分と生活を共にし、家族の一員として過ごした生き物であれば、たとえ遺体であっても手を加えられることに、激しい抵抗感を伴うことも、十分に想像しうる。

だが、剥製にしようかと考える飼い主の気持ちはどのようなものなのだろうか。
ペットを亡くしたばかりだと、このあいだまでそばにいた生き物がいなくなる、空間的な喪失感が何よりも堪えるのかもしれない。彼らの不在がつらく、どういうかたちであっても、目の前にいてほしい、空間をふさいでいてほしい、という気持ちなのだろうか。
生きていなくても、そこにいるだけでいい、たとえ動くことはなくても、目の前にいるだけでいい……。ここまで来ると、その人がペットに対して何を求めているかということとは無関係ではなくなってくるように思う。

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