その5.
「あのですね」ビリーが口を開いた。「これって何だかほんとうに、とてつもなくへんてこなことのような気がするんです」
「そんなはずはないと思いますけれど」
「そうだなあ。どっちの名前も――マルホランドもテンプルも、単に別々の名前として記憶しているっていうだけじゃなくて、言ってみたら、どういうのかな、奇妙な具合に関連しているような気もするんです。ちょうど、ふたりとも同じ種類のことに関して、名前が知られているみたいに。ああ……そうだな……たとえばデンプシーとタニー(※アメリカのプロボクサージャック・デンプシーとジーン・タニーのこと。1926年と27年に対戦した)とか、チャーチルとルーズヴェルトみたいに」
「なんておもしろいお話なんでしょう」女主人は言った。「でもね、もうこちらへいらっしゃって、わたしの隣りにおかけになって。おやすみになる前に、お茶とジンジャー・ビスケットを召し上がってくださいな」
「どうぞおかまいなく」ビリーは言った。「こんなことをしていただくにはおよびません」ビリーはピアノの脇に立ったまま、カップだの皿だのと忙しく準備する手をじっと眺めた。小さく、色白で、爪の赤い手が、めまぐるしく動き回っている。
「きっとその名前をぼくは新聞で見たんだ」ビリーは言った。「あとちょっとなんだけどな。あとちょっとで思い出せそうなのに」
記憶の鳥羽口まで来て、中に入れないというときほど、いらいらが募ることはない。絶対、あきらめるもんか。
「ちょっと待ってくださいよ」と彼は言った。「ちょっと待って。マルホランドですよね……クリストファー・マルホランド……イギリス西部を徒歩旅行してたイートン校の生徒の名前じゃなかったっけ。ある日突然……」
「ミルクは入れてかまいません?」女主人は言った。「お砂糖はどうしましょう?」
「お願いします。それで、あるとき急に……」
「イートン校の生徒ですって?」女主人は割り込んだ。「いいえ、ちがいますよ。絶対にそれはありません。マルホランドさんがわたしのところへいらしたときは、確かにイートンの生徒さんじゃありませんでした。ケンブリッジの学生さんでしたから。ねえ、こちらへいらっしゃって、わたしの横で、気持ちの良い火で温まってくださいな。ね。お茶の用意もできてますから」女主人は自分の横の空いた場所をぽんぽんと叩き、坐ったままビリーに笑いかけると、彼がそこに来るのを待った。
ビリーはのろのろと部屋を横切り、ソファの縁に腰を載せた。テーブルの目の前に、ティーカップが置かれる。
「さあ、遠慮なさらないで」彼女は言った。「ここ、気持ちがいいでしょう?」
ビリーはお茶を口にした。彼女も同じことをした。三十秒ほど、ふたりとも口を利かなかった。だがビリーには、彼女が自分をじっと見つめていることがわかっていた。半身をひねって彼の方を向き、カップの縁越しに視線をじっと自分の顔顔に注いでいるのが、はっきりと感じられる。ときどき何か奇妙なにおい、彼女の体から発散される、独特なにおいが鼻先をかすめた。少しも不快な臭いではなく、何かを彷彿とさせるようなにおいだ――だが、一体何を彷彿とさせるのだろう? わからない。クルミのピクルスか。真新しい皮のにおいか。それとも病院の廊下のにおいだろうか。
しばらくのち、女主人がふたたび口を開いた。「マルホランドさんはお茶が大好きだった。あんなにお茶をたくさん飲んだ人を、わたしはこれまで見たことがなかったわ。あのかわいいマルホランドさんは」
「つい最近、ここをお出になったんでしょう?」ビリーは言った。頭の中では、ふたつの名前が引っかかったままでいる。いまでは、新聞で読んだことまで思い出していた――見出しで読んだのだ。
「出た、ですって?」彼女はそう言うと、目を丸くした。「あらあら、あの方はどこにもいらっしゃったりしてませんよ。ずっとここにいらっしゃるんです。テンプルさんもね。おふたりとも四階にいらっしゃるんですよ、ご一緒に」
(いよいよアヤシイ女主人。明日最終回。)
「あのですね」ビリーが口を開いた。「これって何だかほんとうに、とてつもなくへんてこなことのような気がするんです」
「そんなはずはないと思いますけれど」
「そうだなあ。どっちの名前も――マルホランドもテンプルも、単に別々の名前として記憶しているっていうだけじゃなくて、言ってみたら、どういうのかな、奇妙な具合に関連しているような気もするんです。ちょうど、ふたりとも同じ種類のことに関して、名前が知られているみたいに。ああ……そうだな……たとえばデンプシーとタニー(※アメリカのプロボクサージャック・デンプシーとジーン・タニーのこと。1926年と27年に対戦した)とか、チャーチルとルーズヴェルトみたいに」
「なんておもしろいお話なんでしょう」女主人は言った。「でもね、もうこちらへいらっしゃって、わたしの隣りにおかけになって。おやすみになる前に、お茶とジンジャー・ビスケットを召し上がってくださいな」
「どうぞおかまいなく」ビリーは言った。「こんなことをしていただくにはおよびません」ビリーはピアノの脇に立ったまま、カップだの皿だのと忙しく準備する手をじっと眺めた。小さく、色白で、爪の赤い手が、めまぐるしく動き回っている。
「きっとその名前をぼくは新聞で見たんだ」ビリーは言った。「あとちょっとなんだけどな。あとちょっとで思い出せそうなのに」
記憶の鳥羽口まで来て、中に入れないというときほど、いらいらが募ることはない。絶対、あきらめるもんか。
「ちょっと待ってくださいよ」と彼は言った。「ちょっと待って。マルホランドですよね……クリストファー・マルホランド……イギリス西部を徒歩旅行してたイートン校の生徒の名前じゃなかったっけ。ある日突然……」
「ミルクは入れてかまいません?」女主人は言った。「お砂糖はどうしましょう?」
「お願いします。それで、あるとき急に……」
「イートン校の生徒ですって?」女主人は割り込んだ。「いいえ、ちがいますよ。絶対にそれはありません。マルホランドさんがわたしのところへいらしたときは、確かにイートンの生徒さんじゃありませんでした。ケンブリッジの学生さんでしたから。ねえ、こちらへいらっしゃって、わたしの横で、気持ちの良い火で温まってくださいな。ね。お茶の用意もできてますから」女主人は自分の横の空いた場所をぽんぽんと叩き、坐ったままビリーに笑いかけると、彼がそこに来るのを待った。
ビリーはのろのろと部屋を横切り、ソファの縁に腰を載せた。テーブルの目の前に、ティーカップが置かれる。
「さあ、遠慮なさらないで」彼女は言った。「ここ、気持ちがいいでしょう?」
ビリーはお茶を口にした。彼女も同じことをした。三十秒ほど、ふたりとも口を利かなかった。だがビリーには、彼女が自分をじっと見つめていることがわかっていた。半身をひねって彼の方を向き、カップの縁越しに視線をじっと自分の顔顔に注いでいるのが、はっきりと感じられる。ときどき何か奇妙なにおい、彼女の体から発散される、独特なにおいが鼻先をかすめた。少しも不快な臭いではなく、何かを彷彿とさせるようなにおいだ――だが、一体何を彷彿とさせるのだろう? わからない。クルミのピクルスか。真新しい皮のにおいか。それとも病院の廊下のにおいだろうか。
しばらくのち、女主人がふたたび口を開いた。「マルホランドさんはお茶が大好きだった。あんなにお茶をたくさん飲んだ人を、わたしはこれまで見たことがなかったわ。あのかわいいマルホランドさんは」
「つい最近、ここをお出になったんでしょう?」ビリーは言った。頭の中では、ふたつの名前が引っかかったままでいる。いまでは、新聞で読んだことまで思い出していた――見出しで読んだのだ。
「出た、ですって?」彼女はそう言うと、目を丸くした。「あらあら、あの方はどこにもいらっしゃったりしてませんよ。ずっとここにいらっしゃるんです。テンプルさんもね。おふたりとも四階にいらっしゃるんですよ、ご一緒に」
(いよいよアヤシイ女主人。明日最終回。)