陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

新規更新されない不幸

2009-07-19 23:18:13 | weblog
夏目漱石の『こころ』では、友情ということが大きな問題になっているが、先生とKが、もし大学生でなく、高校生だったら、あんなことにはならなかっただろうと思う。もちろん高校生であれば、恋愛がたちまち結婚に結びつくという話にはならない、ということもあるのだけれど、それ以上に、高校の友人関係で、裏切った・裏切られたということがあったとしても、それぞれに大学に進めば、そこでそれぞれに新たな友人関係が形成され、そこでの問題の方が大きなものとなっていくだろうから。どれほど深刻な問題でも、つぎの関係が上書きされていけば、それは過去の問題になっていく。もちろんそのときの経験は、のちのちに大きな影響を落としていくとしても、そうしてまた、どうかすると、あれはどういうことだったのか、と考え直すことがあったとしても、それが『こころ』のように、唯一絶対の問題にはなりえない。

逆にいうと、学校を卒業してしまうと、学校時代のような友人関係を、誰かと新しく結ぶというのは、それほど困難なのだろう。

ところが、高校時代の問題を一生引きずってしまった人の話を、先日聞いたのだった。

その人を仮にAさんとする。
そのAさんには、高校時代、B君と知り合った。B君のお父さんは法律事務所を開いている地元でも高名な弁護士で、B君は跡を継ぐことを期待されている。Aさんも法学部を目指していたことから、ふたりは何かと親しく行き来するようになった。

B君はお父さんの力か、学校の先生に個人指導してもらっていた。そのB君と親しくすることで、Aさんにもその便宜が図られるようになったという。数学の先生に難問を添削してもらったり、英語の先生に毎日長文読解の問題を作ってもらったり、ふたりは切磋琢磨しながら勉強を続けた。そうしてふたりは同じ大学の法学部を受験し、枕を並べて討ち死にした。

その翌年、Aさんの方は、お父さんの仕事の関係で大阪に引っ越すことになり、B君は地元で浪人するようになった。大阪と地元と分かれても、ふたりは頻繁に手紙を交換して、励まし合ったという。

そうしてつぎの受験で、Aさんは見事志望校に合格し、B君の方は、その年も失敗してしまった。Aさんの方は、合格の報告を兼ねて、先生に挨拶するために母校へ赴いた。そして、もう会う機会もないかもしれないと、B君を励ますために彼の家へ行った。

B君の家へ行き、玄関のチャイムを鳴らすと、これまで何度となく顔を合わせてきたB君のお母さんが出てきた。お母さんはAさんを見てキッと睨みつけると、切り口上で「何のご用ですか?」と言った。驚いたAさんは「もうここに帰ってくることもないので、B君に挨拶しようと思って」と言うと、お母さんは引っ込み、すぐにB君が玄関に出てきた。

B君はAさんを中に招じることもなく、玄関先で「よかったなあ、おまえ、これから司法試験、がんばれよ」と言ってくれ、Aさんも「おまえもがんばれ」とだけ言って、そのままふたりは分かれた。そして、それ以後はお互いに連絡を取ることはなくなったという。

ところが数年後、Aさんのところに高校のときの友人が遊びに来た。昔話に花が咲き、B君のことも話題に出た。B君は、結局三浪したけれど、目指す大学の法学部に行くことはできず、その近隣の私大へ来ているとのこと。友人の提案で、AさんはB君と再会することになった。

再会した三人は、飲み屋へ行き、旧交を温めた。やがて酔いもまわってきたころ、B君がAさんに突然、「あまえはあのとき何でうちに来たんだ?」と絡んできた。

「え?」と聞き返すAさんに、B君は続けた。「あのときな、オレの母親は泣いてたんだぞ」

「あのとき」というのは、AさんがB君の家へ行ったときのことである。B君のお母さんにしてみれば「この子は自慢しに来たのか!」と腹立たしかったにちがいない。わたしに話を教えてくれたAさんは、「ぼくは純粋に、B君に、次は頑張れよと言いたかっただけで、B君にはわかってもらえたと思ったのですがね、そうじゃなかったんだなあ。彼はきっと母親思いだったんだろうなあ」と言っていた。

だが、話はそれだけではないのである。
高校を卒業して三十年後、高校の同窓会が開かれた。AさんはB君のことが気がかりではあったけれど、さすがに三十年もたっていることだし、皆に会えるのも楽しみだと思って、奥さんと二人で参加したという。

先生もやってきて、みんなで昔話を肴に楽しい時が流れた。そのとき、B君がAさんのところにやってきた。ずいぶんアルコールも入っているようで、「お前、なんであのときにうちに来たんだ」「オレの母親は泣いてたんだぞ。いったいどういうつもりだったんだ」と絡み始めた。異様な雰囲気を察して、ほかの同級生たちが話を反らそうとしても、B君は離れない。

Aさんは、何を言っても弁解に取られるだろうし、もうB君には自分の気持ちは決してわかってもらえないと思って、何ともいえない気持ちがしたのだそうだ。

おそらく、B君の人生の時計は、一浪の結果が不合格だった時点で、止まってしまったのだろう。それも、Aさんが来て、お母さんが泣いたのを見た瞬間に、止まってしまったんだろう。だから、それから何が起こったとしても、B君の時間は、ふたたび動き出すことはしなかったのだろう。

それからあとは、何が起こっても、どんな経験があっても、まるでアリ地獄の巣の底にある「あのとき、あいつが家に来なければ」という思いに、流れていってしまったのにちがいない。何をしてもそこに引き戻され、そのアリ地獄のような止まった時間から、二度とふたたび出ることができなかったのだろう。

だが、どうしてそこは「アリ地獄」であると同時に、彼には居心地の良い場所だったのだろうという気がする。すべての失敗も、うまくいかないことも、自分の外に理由があれば、ありのままの自分と向き合わずにすむ。受験に失敗した自分、その失敗から、自分の人生の建て直しをすることもできない自分、おなじことばかり繰りかえし言っている自分。

その自分と向き合うことより、「アリ地獄」の方を選んだのだろう。