陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ある意味で、運が良かった人びと

2009-07-12 23:21:42 | weblog
『アンネの日記』に無性に引かれ、毎日毎日アンネのことばかり考えていた時期がある。まだ小学校の低学年で、歴史的背景などろくにわかっていなかった。ナチスの台頭した時期のことも、日本がナチス・ドイツと同盟を結んでいたことも、知ってはいなかったろう。おそらくわたしが夢中になったのは、日記を書き続け、愛称で呼ぶことだったり、「隠れ家」での生活に、なんともいえないロマンチックなものを感じたからだ。

だが、いつのまにかアンネより、アンネをかくまった人びとのほうに興味は移っていった。自分たちにも災いが及ぶ、それも逮捕されるだけではない、自分たちが強制収容所送りになるかもしれないのである。秘密警察はいたるところにいる。密告に対しては報奨金が出る。そのようななかで、自分の身を危険にさらしてまで、かくまうようなことができたのだろうか。
わたしはヒーローなのではない。たんに、あの暗い、おそろしい時代に、わたしとおなじようなことをした、あるいは、もっと多くの――はるかに多くの――ことをした良きオランダ人たちの、長い、長い列の端に連なっているにすぎない。……

およそ二万人以上のオランダ人が、あの時代に、ナチスの目をのがれねばならなかったユダヤ人およびその他の人びとをかくまうことに尽力した。わたしもまた、すすんでできるだけのことをした。わたしの夫もおなじことをした。それでもじゅうぶんではなかった。わたしはけっして特別な人間ではない。…略…たんに、そのときわたしに要求されていること、そして必要と思われることを、すすんでしようとしてきたにすぎない。
(ミープ・ヒース『思い出のアンネ・フランク』深町眞理子訳 文春文庫)

当時オランダはすべてのものが配給制だった。アンネを含め、八人のユダヤ人をかくまった、ということは、毎日毎日、それだけの食料を調達し続けなければならない、ということでもある。夫とふたりぐらしのミープ・ヒースが、配給制と秘密警察の監視の目をかいくぐって十人分の食料を調達できたのは、彼女だけが勇敢だったからではない。彼女のまわりに、食料品店を営む人、パン屋を営む人、薬や日用品や服地を調達してくれる人びとの協力が不可欠だった。ミープ・ヒースのいう「長い、長い列」が指すのは、それらの人びとのことだ。

彼らはどうして密告しなかったのだろう。

『思い出の…』のなかにも、こんなエピソードがある。あるときミープ・ヒースが八百屋に行くと、いつもの店主ではなく、奥さんが店に立っている。ミープ・ヒースは、はっとして、奥さんに聞いてみると、やはり店主は連行されてしまっていた。八百屋もユダヤ人をふたりかくまっていたのだ。

ミープ・ヒースは衝撃を受ける。もし連行された八百屋が拷問によって口を割ってしまえば、ただちに自分にも危険が及ぶ。自分に危険が及ぶことは、すなわち八人のユダヤ人が当局の手に渡るということにほかならない。

だが、この八百屋の主人は拷問に耐えた。強制収容所で凍傷で脚をやられて戻ってきた八百屋と、ミープ・ヒースが再会する場面は感動的だ。

だが、一方でこうも思うのだ。ミープ・ヒースは「二万人以上」のオランダ人が、ユダヤ人を守ることに協力した、という。けれども、それをはるかにしのぐ数十万人のオランダ人たちは、そういうことをしなかった。何もしなかった人びとを、自己保身だったとか、見て見ぬふりをした、といえるのは、歴史の趨勢を知っている、いまのわたしたちだから言えることだ。その渦中にいる人に、何が正しくて、何が間違っているか、どうしたらわかるのだろうか。
わからないながらも、自分の信念に従った行動が、のちに「正しかった」ことが証明された、その意味では幸運な人びとだった、とは言えないだろうか。


菊池寛の短篇に「乱世」というのがある。

幕末の動乱時、桑名藩は藩主松平定敬が将軍徳川慶喜の下へ行って不在の折り、官軍が目前に迫って来る。いまとはちがって、直接藩主と連絡するすべもないなか、藩の人びとはどうすべきか思い悩む。藩を存続させるためには、官軍に投降して無血開城すべきなのか、それとも関東に下って、幕府軍と協力して官軍と戦うべきなのか。藩はまっぷたつに割れる。

結局、藩は無血開城するのだが、それを潔しとしない藩士たちは、桑名藩を離れ、幕府軍に進んで捕らわれに行く。
だが、その彼らを何よりも苦しめたのは、自分たちのやったことが、悪いことなのか、適切な判断だったのか、見当がつかないことだ。自分たちのやったことが「死罪」にあたるのか、乱世にあっては罪ですらないようなことなのか、咎められることなのか、適切な判断とみなされうるのか、まったくわからないのである。ひとりの若侍は、早合点してしまい、捨てなくてよい命を捨ててしまうのだが、もしかしたら、若侍と、ほかの十二人は、運命がまったく逆転していたのかもしれないのだ。

何が正しく、何が間違っているか、平時なら判断もつく。だが、乱世、つまり、世の中が大きく動いていて、人びとの行動の基準となる規範すらも、ある日を境に変わってしまうようなときには、何を善とし、何を悪とするかも、偶然に支配されてしまうのかもしれない。

ミープ・ヒースはじめ、当時、ユダヤ人を、自分の生命を賭してかくまった人びとのすばらしさは言うまでもないことだ。だが、そうしなかった人を、いまのわたしが批判できるとはどう考えても思えないのだ。
菊池寛は「どうして格之介をわらうことができよう」という言葉で、この短篇をくくっている。