陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

友情を成り立たせるもの

2009-07-21 23:09:56 | weblog
話はまだ続く。

山本周五郎の「橋の下」は、人生経験を経た年長者が青年に語るという筋書きといい、友人がひとりの女性を争ったことが、それぞれの人生の転換点となるところといい、さらに、それほどまでして得た女性に対する恋愛感情が、ほどなく冷えていく点といい、あきらかに夏目漱石の『こころ』が意識されている。

思うに、周五郎は『こころ』の結末には、納得しきれないものがあったのではあるまいか。だからこそ、自分ならこう書く、として「橋の下」を著したような気がする。

「橋の下」と『こころ』の最大の相違は、『こころ』では年月を経たのち、先生がKのあとを追うように自殺するのに対し、「橋の下」では、誰も死なない。過去を悔いる老人も、恋が冷えてもなお、妻とふたり、物乞いをしながら生き続けていく。そうして、この生き続ける老人の姿を見、助言を聞いて、青年は果たし合いをやめ、和解するのである。

ここには、「先生」ならば、「先生」と自分を慕う年少者がいるならば、彼のために死んではいけない、たとえどんな境遇になったとしても、生き続けなければならない、という周五郎の思想が読みとれる。

老人は若侍に言う。
「あやまちのない人生というやつは味気ないものです、心になんの傷ももたない人間がつまらないように、生きている以上、つまずいたり転んだり、失敗をくり返したりするのがしぜんです、そうして人間らしく成長するのでしょうが、しなくても済むあやまち、取返しのつかないあやまちは避けるほうがいい、――私がはたし合いを挑んだ気持は、のっぴきならぬと思い詰めたからのようです。だが、本当にのっぴきならぬことだったでしょうか…(略)…

「どんなに十代だと思うことも、時が経ってみるとそれほどではなくなるものです…(略)…家伝の刀ひとふりと、親たちの位牌だけ持って、人の家の裏に立って食を乞い、ほら穴や橋の下で寝起きをしながら、それでもなお、私は生きておりますし、これはこれでまた味わいもあります、そして、こういう境涯から振返ってみると、なに一つ重大なことはなかったと思うのです…(略)…
(山本周五郎「橋の下」『日日平安』所収 新潮文庫)

「あやまちのない人生というやつは味気ない」が、それでも取り返しのつかないあやまちは、避けた方がいい。それは、自分のように橋の下で暮らすことを余儀なくされるからだ。「この橋の下には、人間の生活はない」「ここから見るけしきは、恋もあやまちも、誇りや怒りや、悲しみや苦しみさえも、いいものにみえます」と言う。

だが、取り返しのつかないあやまちを犯して、たとえ「人間の生活はない」ところへ落ちたとしても、それでもなお、「私は生きておりますし、これはこれでまた味わいもあります」と言わせている。たとえどんなところにいたとしても、どんなあやまちを犯したとしても、生きているということは、それだけで「いいものだ」という肯定がある。

おそらく若侍に決闘を思いとどまらせたのは、老人の、人間の生を無条件に「いいもの」とする肯定だったのだろう。

では、漱石にはこの肯定はなかったのだろうか。

『こころ』のなかで、「先生」が「私」に、自分を慕ってはならない、と釘を刺す箇所がある。
「とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。今に後悔するから。そうして自分が欺かれた返報に、残酷な復讐をするようになるものだから」
「そりゃどういう意味ですか」
「かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥けたいと思うのです。私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」
 私はこういう覚悟をもっている先生に対して、いうべき言葉を知らなかった。

ここで先生は、自分が過去、友人であるKの「膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようと」したことを暗に語っている。「何をしてもKに及ばないという自覚」が、恋愛においてはKをうち負かそうとしたのだ、と。
そうして「私」がいま先生を仮に尊敬しても、その記憶がやがて自分の頭の上に足を載せさせようとするにちがいない、と考えている。

そうして、「自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」というのである。これはどういうことなのだろうか。
漱石は「古い道徳」を批判しています。『こゝろ』の「私」や「先生」は「生活の内面によって自分自身の型を造ろう」(※漱石の講演『中味と形式』)とするタイプであることは明らかです。しかしその個人主義の代償として「自由と独立と己れに充ちた現代」がやってくるのです。人は各自パーソナルなモデルを求めなければならなくなります。しかし古風なモデルとは異なって、この新しいモデルは容易にライヴァルと化するモデルなのです。そしてまた、弟子のほうも、古風な弟子とは異なって、容易にライヴァルへと変身します。
(作田啓一『個人主義の運命』岩波新書)

さらに、『こころ』で先生は、単にKの死の責任を負って自殺しただけではなかった。その引き金になったのは、乃木大将の殉死である。もう少し『個人主義の運命』を引こう。
徳川時代の「古い道徳」も、新しい明治の道徳も、共に人格に対する忠誠の観念を含んでいました。しかしいつの時代にも権力や金力が誠実の徳をおびやかしています。特に近代化に伴って、金力や権力への関心が強まり、形成されたばかりの明治の道徳を深部からむしばんできました。言いかえれば、個性の個人主義が生まれた明治期において、漱石は欲望の個人主義がすでに始まっているのを見たのです。そして彼は個性の個人主義が滅びるのではないかという危機感をもっていました。この漱石の危機感が「明治の精神に殉死する」という「先生」の言葉に投影されているのではないでしょうか。

「橋の下」の世界には「人格に対する忠誠の観念」がまだ生きていた。老人は、もはや恋愛の妄執も、出世への妄執も朽ち果てたのちに、自分のことを友だちと呼んでくれた相手を斬りつけ、医者も呼ばずに出奔したことのみを悔いている。そしてまた、自分が話を聞かせた青年が、自分の助言に耳を傾けてくれるのではないか、それによってあやまちを避けてくれるのではないか、と願っている。

だが、やはりいまに生きるわたしたちの目から見れば、周五郎の世界は、やはり時代小説だからこそ成り立つ世界なのかもしれない。

自分には友人がいる、と思う人は多いだろう。けれども、その友人は、果たして自分にとってどのような存在なのだろうか。その人の人格を尊敬して、ものの見方、感じ方に惹かれて、その人とつきあっている? それとも、なんとなく一緒に過ごす機会が多くて、そんなときに気が合う、気心が通じるから、友人関係を築いているのだろうか。

「自由と独立と己れに充ちた現代」というのは、現代に生きるわたしたちにすれば、あまりにあたりまえになりすぎて、逆に意識されることもなくなってしまった。そういうなかで、自分自身の型を特に造ろうとすることもなく、深く考える前に、何となく流通している「モデル」にばくぜんと自分を当てはめようとしているのではないか。同じモデルを抱いている相手を、「友人」と呼び、ほんの少しばかりの差異をとらえて、それを「個性」と呼ぼうとしているのではあるまいか。

もしかしたら、友人関係がうまくいかなくなったとき、自分が相手に何を求めていたか、そうして、相手にそれを求める自分がいったいどのような人間であるのかが、初めて見えてくるのかもしれない。型がなくなり、モデルとなるような型すらも見失ったわたしたちの型は、そんな方法を介さなくては、浮かび上がって来ないのかもしれない。