陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

まるで鏡のような

2009-07-10 23:07:26 | weblog
誰かを批判している人の話を聞いていて、あなたがいま言っていることは、そっくりそのままあなたに当てはまるんじゃない? と思った経験はないだろうか。

先日、こんなことがあった。
Aさんが憤懣やるかたない調子でBさんを非難している。
Bさんはひどい人間である。というのも、自分が事情をよく知らなくて不適切な行動を悪意なくとってしまい、謝ったにもかかわらず、自分の悪口をふれまわっている。しつこいったらない。

だが、発端となった出来事は、二年ほど前に起こったことなのである。わたしがAさんからその話を聞かされたのも、一度や二度のことではない。Aさんは「Bさんが悪口をふれまわる」と言うが、Aさんが言っていることも「Bさんの悪口」に他ならないし、しつこいのも同じだ。

Aさんのような事例は、わたしたちの周りにあふれている。
落書きだらけの塀に、「落書きをするな」と書けば、それも落書きになってしまうし、大声で「静かにしろ!」と怒鳴れば、そこをうるさくすることになる。掲示板に「荒らしはスルーで」と書き込むのも、荒らし回る人を相手にしていることには変わりないし、人の行動の一部をとらえて、あの人はデリカシーに欠けると決めつけることは、デリカシーのある行為とはいえない。「決めつけは悪い」ということ自体が、一種の決めつけであることもある。あの人はちっともわたしのことを考えてくれていない、と彼氏を責める女の子が考えているのは、自分のことばかり、「わたしばかり責められる」と言う人は、そう言うことで周囲の人びとを責めている。

つまり、自分と対立する相手の批判をする場合、その批判がそっくりそのまま自分に当てはまってしまうことが少なくないのである。

AさんとBさんの対立を端で見ていたわたしのように、第三者的立場にいる人間は、その滑稽さにも気がつくのだが、その渦中にいると、なかなかそのことに気がつかない。もちろん、このわたしにしてからが、Aさんの悪口をこうしてAさんのいないところで、しかもおおっぴらに言っているのだから、同じ穴のムジナもいいところだ。

どうしたらこういう「自分が批判する通りのことをやってしまっている」状態から抜け出すことができるのだろうか。

おそらくそれは、自分が一方の当事者であることを忘れて、あたかも自分が第三者的な、公平な立場から批判をやっているような気持ちになってしまうところに問題があるのではあるまいか。

対立している一方の当事者は、相手のことを第三者的に見ることはできない。あくまでも、対立する一方の側からの批判だ。わたしはこう考える、と言うことはできても、「その行為が正しいか誤っているか」「それが善か悪か」を言うことはできない。

その対立と無関係なところにいる、どちらにも荷担しているわけではない人なら、諸状況を考え合わせたり、規範に照らし合わせたりして、いまの時点では、どちらの言い分がより正しく、どちらの言い分がより誤っているかを指摘することができる(それもあくまでも「いまの時点」という限定がつくが)。だから、そういう人に向かって「それだってあなたの見方でしょう?」と言うことは、その第三者をも、自分の敵にしてしまうことに他ならない。かくして敵はどんどん増えていき、その人はいよいよかたくなに周りに対して牙をむくことになってしまうのだ。

寅さんじゃないが、「それを言っちゃあおしめえよ」なのである。第三者的立場の人の意見に耳を傾けなければ、決して対立を解消することはできない。

自分と対立する相手の批判がしたくなったら、まず自分がそれとおなじことをやっていないか、振り返ってみることだ。大丈夫。かならずおなじことをやっている。自分の行動を改めること。まずは、そこからじゃないだろうか。