マドンナが全盛期だった92年ごろ。
当時マドンナは“ブロンド・アンビション・ツアー”という画期的なツアーを行ったあとで、それをもとにした“イン・ベッド・ウィズ・マドンナ”という映画もヒットし、バック・コーラスでレニー・クラヴィッツがため息まじりのスキャットを聞かせる"Justify My Love" のミュージック・ビデオがMTVで放映禁止になってさらに話題を盛り上げ、そこからまたさらにヌード写真集を出し、“エロティカ”というアルバムを出し、絶頂期というか、飛ぶ鳥を落とす勢いというか、まさに向かうところ敵なし、「望月の欠けたることもなしと思へば」状態だった。
そのころ、えらく奇妙なゴシップビデオ(ずっとTVの特番だろうと思っていたのだが、どうやら映画だったらしい)を見た。デビュー前に出演したポルノ映画の一シーンや、その時期の未公開VTRなどが収録されていることが謳い文句で、ブロンド・アンビション・ツアーのバックダンサーも出演してマドンナの素顔を語るという。わたしはそれについ引かれて、ビデオ屋で借りてきてしまったのだった。ところがバックダンサーは、自分が新しく出した歌のプロモーションのために出てきたのが見え見えで、たいしたことは言わないし、番組のなかでも「マドンナの衣を借る」とばかりに、ひどく粗雑な扱いをされていて、なんだか気の毒な感じがした。
ともかく、製作者たちの意図はあまりにもあきらかで、マドンナを「セックス・シンボル」というくくりでマリリン・モンローを重ね合わせ、かなり強引に、マドンナがこれからマリリン・モンローと同じ道筋をたどるにちがいないと、話を持っていこうとしていたのである。
マドンナの足跡をたどる、という脚本構成も、まさに落とすために持ち上げるもので、あんたたちはそんなに人を落としたいのか、墜ちていく人間が見たいのか、と作り手側の志の低さ、浅ましさを目の当たりにして、scavenger という単語を思い出し、いやいや、こんなものをついつい見てしまっている自分も同類なのだ、と忸怩たる思いを味わったものである。
だが、制作者のみなさんには非常に残念ながら、それを見ているうちに、マドンナはこれから先もかならず生き続けていくだろうという確信めいたものがわたしのうちに生まれていた。ヒットチャートのトップの座から滑り落ちたぐらいで、へこたれるようなタマか、と(笑)。
おそらくこの人は年を取っても、入念なマーケティングを続けて、新たなイメージを提供し続けるのではないか。一時のように、世界中に影響を与えるようなことはなくても、それよりはるかに小さなマーケットであっても、自分がトップになれるような場をかならず作るだろう、と。マドンナという人は、そのぐらいタフだろうし、自分と、自分が創りだす「マドンナ」というイメージ、もしくは商品を切り離して考えることのできる、希有なビジネス・ウーマンではあるまいか、と思ったのだった。
いつのまにかマドンナにはすっかり興味がなくなってしまったけれど、当時のわたしの予測はそれほど外れていなかったように思う(エッヘン)。
さて、そのマドンナが、80年代の終わり頃、同じく80年代のアイコンであったマイケル・ジャクソンに初めて会ったときの話をしているのを、その昔どこかで読んだことがある。彼があんまり変わった人だったので、さしものマドンナもめんくらったらしい。自分がデビューしたのは二十四歳というおとなになってからで、それまで普通の世界で生活してきて、普通の感覚や価値観、ものの見方考え方を育てることができたけれど、ショー・ビズの世界に小さいときからどっぷりと浸っていた彼は、まるでちがう、別世界の住人だった、という内容だった(あやふやな記憶によるいいかげんな記述である)。
小さいときから人に衆人環視の下に生きていく、というのはいったいどのようなものなのだろう。一方でワーワーーキャーキャーとまつりあげ、その一方で、墜ちていくのを手ぐすね引いて待ち受けているような人びと、さらに自分からほんの少しでもたくさん利益を引き出そうとする人びとや、逆に、自分の存在が邪魔でしょうがないと敵意を剥きだす人びとに、二十四時間取り巻かれ、それが十年、二十年と続いていく生活というのは。
マドンナは少なくともそういうなかで成長したわけではない。つまり、それとはちがう価値観・世界観を身につけたのちに、自ら野心と覚悟をもってその世界に飛び込んでいったわけだ。けれども、小さな子供、ただ歌うのが好きで、人に拍手してもらえれば有頂天になるような子供のまま、その世界に入っていくというのは、野心とも覚悟とも無縁なもののはずである。
* * *
おっそろしく規模のちがう話だが。
中学受験の模擬試験で、つねに成績上位者一覧のトップクラスに名前を連ねている男の子がいた。たいていそういう子はもっと偏差値の高い中学へ行ってしまうのだが、その子はどういうわけかわたしと同じ学校にきていた。入学式のときに読み上げられた名前のうちに、いつの間にか覚えてしまったその子の名前を聞いて、いったいどの子だろう、と声のするあたりを探した。
背の低い、銀縁眼鏡をかけた、いかにもかしこそうなその子とわたしは同じクラスになった。ただ、そのときのその子の記憶は、いつも机に向かっていて、休憩時間さえ教科書を広げていたことぐらいしかない。まともに話をしたこともなかったように思う。
その子とつぎに同じクラスになったのは、高校に入ってからだ。始業式かその翌日ぐらいに向こうから話しかけてきて、一瞬誰だかわからず、高校から入ってきた子がなんでわたしの名前を知っているのだろうと思ったほどだった。
身長も伸び、髪型もまるで変わり、外見にかつての面影がまったくなかっただけではなかった。相手から受ける印象が、同一人物と思えないほど変わっていたのである。少なくともわたしが知っているその子は、女の子に話しかけてくるような子ではなかった。
そういえば中学の終わりごろ、当時、学校になかった運動部の設立を求めて、男の子たちが何人か活動していたのは知っていたし、署名に協力もした。その子が設立運動に加わっているという話を聞いて、ちょっと意外に思ったことも思い出した。けれど、そこまでまるでちがう子になってしまっているとは思いも寄らなかったのである。
その年、委員会活動だったか文化祭だったかを通じて、その子とはかなり親しく言葉を交わすようになっていた。家の方角が途中まで一緒だったので、乗換駅で途中下車して、駅前のマックで話し込むことも何度かあったような気がする。いったいどんな話をしていたのだろう。
数少ない記憶のなかにあるのは、おそらくわたしが、小学校の頃から上位成績者名簿で名前を知っていた、というような話をしたのだろう、彼が「そんなことあったっけ。小学生のときのことは全然覚えてないなあ」と言ったことだ。十六歳にとっての十二歳、たかだか四年ほど前の話である。そんなバカな、と思ったわたしは、それはきっとあまりふれてほしくない話題なのだろうと理解したように思う。それっきり、当時の話をすることもなかった。
ただ、いま考えてみるに、もしかしたらその子はほんとうに小学校時代の「ものすごく成績が良かったころのこと」をはっきりとは覚えていないのかもしれない、という気もするのだ。
人は、「自分がどんな人間か」ということを、物語の形式を借りて理解する。
たとえば、電車で整列乗車をしない人を見て、無性に腹が立つ。だらしない制服の着方をしている高校生や、あきらかに十代とおぼしき子供が濃い化粧をしたりしているのを見たりすると、一言、注意したくてたまらなくなる。この腹立ちの原因は何だろう、と考えて、「ああ、自分は正義感が強いのだ」という答えを、「自分の物語」として採用する。
そうすると、今度はその物語が、あらゆる行動の指針となってくる。スーパーで走り回っている子供を見かけると、親に逆ギレされるかもしれない、と思いながらも、いやいや、自分は正義感が強い人間だ、と考えて、「ここで走ると他の人の迷惑になるよ」と注意する。疲れていても電車で目の前にお年寄りが立つと席を譲る。今日ぐらいは、という気持ちも起こるのだが、それは自分らしくない、と歯止めをかけて、自分の行動に一貫性を持たせようとするのだ。
ただ、この「自分が自分に語る物語」は、自分の身に合わなくなってくることがある。特に子供の場合、「あんたはこんな子だ、小さい頃からそうだった」という話を親に聞かされながら育っていくので、子供の物語の書き手は、最初は親であることが多い。
やがて十代になり、その「親の作った自分の物語」と自分のあいだがどうもしっくりこなくなってくる。その「物語」をいったんすべてリセットし、自分の作った「自分の物語」を作ろうとする。だからこそ、おおざっぱに言ってしまうと、十代というのは、自分がわからなくなり、不安になり、どうしていいかわからなくなるのだ。
やがて、うまく自分に納得できる、自分に語って心地よい、しかも周囲もそう見なしてくれる物語と出会えるかもしれない。そのとき、その人は新しい「自分が自分に語る物語」を手に入れることができるのだ。
おそらくわたしが知っていた彼は、中学生のあいだに、うまく「自分の物語」を紡ぐことができたのだろう。そうして、古い、親から与えられた「勉強の良くできるA君」という物語を、脱ぎ捨てたのだろう。物語の抜け殻は、人によっては、覚えていないのかもしれない。
なんであれ、トップを走るということは、苦しいことだ。ほんの少し落ちただけで、点数ではなく「落ちた」ということが大問題になる。「○○はできるから」という、他の人間からしてみれば、何気ない一言が、大変なプレッシャーにもなっていく。そういうなかで、トップを維持する人間がよりどころにするのは、「自分はできる」という物語である。その物語は、つぎの行為の指針にはなってくれるが、たえまなく動き続ける現実に、いつも対応するとは限らない。ずれてくれば、そのずれはその人を苦しめる。けれど、いったん身に纏った物語は、容易には脱ぐことはできない。自分をごまかしながら、その物語に安住することの方がよほど容易だ。
マイケル・ジャクソンの悲劇は、小さい頃に与えられた物語の外に出ることができなかった「男の子」の悲劇だったような気がする。
マイケル・ジャクソンの訃報を聞いて、持っていたアルバムを聞き返してみた。曲よりも「あの頃」の自分がよみがえって、なんともいえない気がした。
わたしはまだ "Thriller" を完璧に踊ることができる(笑)。
4分15秒あたりから始まるこのダンスを、わたしは一体何度繰りかえして見たことか。
二番のポジション(向かってマイケルの左側)のお姉さんの大きなダンスも好きなのだが、三列目、マイケルのすぐ左に見える白いシャツのお兄さんの肩の入れ方が好きで、何とかしてまねようと思ったものだった。
だが、当時は、自分たちもてっきりこんなふうに踊っているとばかり思っていたのだが、You Tube には、実に大勢の人がこれを踊っていて、仮にステップが同じであっても、プロのダンスというのはまるでちがうのだなあ、と改めて思い知らされる。
その頃はビデオがなくて良かった。
当時の自分のダンスを見たら、恥ずかしくてしばらくは立ち直れないことだろう。
当時マドンナは“ブロンド・アンビション・ツアー”という画期的なツアーを行ったあとで、それをもとにした“イン・ベッド・ウィズ・マドンナ”という映画もヒットし、バック・コーラスでレニー・クラヴィッツがため息まじりのスキャットを聞かせる"Justify My Love" のミュージック・ビデオがMTVで放映禁止になってさらに話題を盛り上げ、そこからまたさらにヌード写真集を出し、“エロティカ”というアルバムを出し、絶頂期というか、飛ぶ鳥を落とす勢いというか、まさに向かうところ敵なし、「望月の欠けたることもなしと思へば」状態だった。
そのころ、えらく奇妙なゴシップビデオ(ずっとTVの特番だろうと思っていたのだが、どうやら映画だったらしい)を見た。デビュー前に出演したポルノ映画の一シーンや、その時期の未公開VTRなどが収録されていることが謳い文句で、ブロンド・アンビション・ツアーのバックダンサーも出演してマドンナの素顔を語るという。わたしはそれについ引かれて、ビデオ屋で借りてきてしまったのだった。ところがバックダンサーは、自分が新しく出した歌のプロモーションのために出てきたのが見え見えで、たいしたことは言わないし、番組のなかでも「マドンナの衣を借る」とばかりに、ひどく粗雑な扱いをされていて、なんだか気の毒な感じがした。
ともかく、製作者たちの意図はあまりにもあきらかで、マドンナを「セックス・シンボル」というくくりでマリリン・モンローを重ね合わせ、かなり強引に、マドンナがこれからマリリン・モンローと同じ道筋をたどるにちがいないと、話を持っていこうとしていたのである。
マドンナの足跡をたどる、という脚本構成も、まさに落とすために持ち上げるもので、あんたたちはそんなに人を落としたいのか、墜ちていく人間が見たいのか、と作り手側の志の低さ、浅ましさを目の当たりにして、scavenger という単語を思い出し、いやいや、こんなものをついつい見てしまっている自分も同類なのだ、と忸怩たる思いを味わったものである。
だが、制作者のみなさんには非常に残念ながら、それを見ているうちに、マドンナはこれから先もかならず生き続けていくだろうという確信めいたものがわたしのうちに生まれていた。ヒットチャートのトップの座から滑り落ちたぐらいで、へこたれるようなタマか、と(笑)。
おそらくこの人は年を取っても、入念なマーケティングを続けて、新たなイメージを提供し続けるのではないか。一時のように、世界中に影響を与えるようなことはなくても、それよりはるかに小さなマーケットであっても、自分がトップになれるような場をかならず作るだろう、と。マドンナという人は、そのぐらいタフだろうし、自分と、自分が創りだす「マドンナ」というイメージ、もしくは商品を切り離して考えることのできる、希有なビジネス・ウーマンではあるまいか、と思ったのだった。
いつのまにかマドンナにはすっかり興味がなくなってしまったけれど、当時のわたしの予測はそれほど外れていなかったように思う(エッヘン)。
さて、そのマドンナが、80年代の終わり頃、同じく80年代のアイコンであったマイケル・ジャクソンに初めて会ったときの話をしているのを、その昔どこかで読んだことがある。彼があんまり変わった人だったので、さしものマドンナもめんくらったらしい。自分がデビューしたのは二十四歳というおとなになってからで、それまで普通の世界で生活してきて、普通の感覚や価値観、ものの見方考え方を育てることができたけれど、ショー・ビズの世界に小さいときからどっぷりと浸っていた彼は、まるでちがう、別世界の住人だった、という内容だった(あやふやな記憶によるいいかげんな記述である)。
小さいときから人に衆人環視の下に生きていく、というのはいったいどのようなものなのだろう。一方でワーワーーキャーキャーとまつりあげ、その一方で、墜ちていくのを手ぐすね引いて待ち受けているような人びと、さらに自分からほんの少しでもたくさん利益を引き出そうとする人びとや、逆に、自分の存在が邪魔でしょうがないと敵意を剥きだす人びとに、二十四時間取り巻かれ、それが十年、二十年と続いていく生活というのは。
マドンナは少なくともそういうなかで成長したわけではない。つまり、それとはちがう価値観・世界観を身につけたのちに、自ら野心と覚悟をもってその世界に飛び込んでいったわけだ。けれども、小さな子供、ただ歌うのが好きで、人に拍手してもらえれば有頂天になるような子供のまま、その世界に入っていくというのは、野心とも覚悟とも無縁なもののはずである。
* * *
おっそろしく規模のちがう話だが。
中学受験の模擬試験で、つねに成績上位者一覧のトップクラスに名前を連ねている男の子がいた。たいていそういう子はもっと偏差値の高い中学へ行ってしまうのだが、その子はどういうわけかわたしと同じ学校にきていた。入学式のときに読み上げられた名前のうちに、いつの間にか覚えてしまったその子の名前を聞いて、いったいどの子だろう、と声のするあたりを探した。
背の低い、銀縁眼鏡をかけた、いかにもかしこそうなその子とわたしは同じクラスになった。ただ、そのときのその子の記憶は、いつも机に向かっていて、休憩時間さえ教科書を広げていたことぐらいしかない。まともに話をしたこともなかったように思う。
その子とつぎに同じクラスになったのは、高校に入ってからだ。始業式かその翌日ぐらいに向こうから話しかけてきて、一瞬誰だかわからず、高校から入ってきた子がなんでわたしの名前を知っているのだろうと思ったほどだった。
身長も伸び、髪型もまるで変わり、外見にかつての面影がまったくなかっただけではなかった。相手から受ける印象が、同一人物と思えないほど変わっていたのである。少なくともわたしが知っているその子は、女の子に話しかけてくるような子ではなかった。
そういえば中学の終わりごろ、当時、学校になかった運動部の設立を求めて、男の子たちが何人か活動していたのは知っていたし、署名に協力もした。その子が設立運動に加わっているという話を聞いて、ちょっと意外に思ったことも思い出した。けれど、そこまでまるでちがう子になってしまっているとは思いも寄らなかったのである。
その年、委員会活動だったか文化祭だったかを通じて、その子とはかなり親しく言葉を交わすようになっていた。家の方角が途中まで一緒だったので、乗換駅で途中下車して、駅前のマックで話し込むことも何度かあったような気がする。いったいどんな話をしていたのだろう。
数少ない記憶のなかにあるのは、おそらくわたしが、小学校の頃から上位成績者名簿で名前を知っていた、というような話をしたのだろう、彼が「そんなことあったっけ。小学生のときのことは全然覚えてないなあ」と言ったことだ。十六歳にとっての十二歳、たかだか四年ほど前の話である。そんなバカな、と思ったわたしは、それはきっとあまりふれてほしくない話題なのだろうと理解したように思う。それっきり、当時の話をすることもなかった。
ただ、いま考えてみるに、もしかしたらその子はほんとうに小学校時代の「ものすごく成績が良かったころのこと」をはっきりとは覚えていないのかもしれない、という気もするのだ。
人は、「自分がどんな人間か」ということを、物語の形式を借りて理解する。
たとえば、電車で整列乗車をしない人を見て、無性に腹が立つ。だらしない制服の着方をしている高校生や、あきらかに十代とおぼしき子供が濃い化粧をしたりしているのを見たりすると、一言、注意したくてたまらなくなる。この腹立ちの原因は何だろう、と考えて、「ああ、自分は正義感が強いのだ」という答えを、「自分の物語」として採用する。
そうすると、今度はその物語が、あらゆる行動の指針となってくる。スーパーで走り回っている子供を見かけると、親に逆ギレされるかもしれない、と思いながらも、いやいや、自分は正義感が強い人間だ、と考えて、「ここで走ると他の人の迷惑になるよ」と注意する。疲れていても電車で目の前にお年寄りが立つと席を譲る。今日ぐらいは、という気持ちも起こるのだが、それは自分らしくない、と歯止めをかけて、自分の行動に一貫性を持たせようとするのだ。
ただ、この「自分が自分に語る物語」は、自分の身に合わなくなってくることがある。特に子供の場合、「あんたはこんな子だ、小さい頃からそうだった」という話を親に聞かされながら育っていくので、子供の物語の書き手は、最初は親であることが多い。
やがて十代になり、その「親の作った自分の物語」と自分のあいだがどうもしっくりこなくなってくる。その「物語」をいったんすべてリセットし、自分の作った「自分の物語」を作ろうとする。だからこそ、おおざっぱに言ってしまうと、十代というのは、自分がわからなくなり、不安になり、どうしていいかわからなくなるのだ。
やがて、うまく自分に納得できる、自分に語って心地よい、しかも周囲もそう見なしてくれる物語と出会えるかもしれない。そのとき、その人は新しい「自分が自分に語る物語」を手に入れることができるのだ。
おそらくわたしが知っていた彼は、中学生のあいだに、うまく「自分の物語」を紡ぐことができたのだろう。そうして、古い、親から与えられた「勉強の良くできるA君」という物語を、脱ぎ捨てたのだろう。物語の抜け殻は、人によっては、覚えていないのかもしれない。
なんであれ、トップを走るということは、苦しいことだ。ほんの少し落ちただけで、点数ではなく「落ちた」ということが大問題になる。「○○はできるから」という、他の人間からしてみれば、何気ない一言が、大変なプレッシャーにもなっていく。そういうなかで、トップを維持する人間がよりどころにするのは、「自分はできる」という物語である。その物語は、つぎの行為の指針にはなってくれるが、たえまなく動き続ける現実に、いつも対応するとは限らない。ずれてくれば、そのずれはその人を苦しめる。けれど、いったん身に纏った物語は、容易には脱ぐことはできない。自分をごまかしながら、その物語に安住することの方がよほど容易だ。
マイケル・ジャクソンの悲劇は、小さい頃に与えられた物語の外に出ることができなかった「男の子」の悲劇だったような気がする。
マイケル・ジャクソンの訃報を聞いて、持っていたアルバムを聞き返してみた。曲よりも「あの頃」の自分がよみがえって、なんともいえない気がした。
わたしはまだ "Thriller" を完璧に踊ることができる(笑)。
4分15秒あたりから始まるこのダンスを、わたしは一体何度繰りかえして見たことか。
二番のポジション(向かってマイケルの左側)のお姉さんの大きなダンスも好きなのだが、三列目、マイケルのすぐ左に見える白いシャツのお兄さんの肩の入れ方が好きで、何とかしてまねようと思ったものだった。
だが、当時は、自分たちもてっきりこんなふうに踊っているとばかり思っていたのだが、You Tube には、実に大勢の人がこれを踊っていて、仮にステップが同じであっても、プロのダンスというのはまるでちがうのだなあ、と改めて思い知らされる。
その頃はビデオがなくて良かった。
当時の自分のダンスを見たら、恥ずかしくてしばらくは立ち直れないことだろう。