その2.
とはいえ、寝泊まりできるパブの方が、下宿屋より楽しそうではある。夜になれば、ビールやダーツを楽しんだり、大勢の人と話したりもできるだろうし、きっとそっちの方がずっと安上がりだろう。前にもパブには数日泊まったことがあって、すっかりそこが気に入っていたのである。下宿屋に入った経験はなかったし、正直なところ、少しばかりぞっとしない気持ちもあった。下宿屋と聞くと、なにやら煮すぎたキャベツや、ごうつくばりの女主人、部屋まで漂ってくる薫製ニシンの強烈な臭いなどが連想されてしまう。
二、三分、ビリーはこのように決めかねていたのだが、どちらかに決める前に、とりあえず『鐘とドラゴン亭』を見てみることにしようと考えた。そこでくるりと向きを変えたそのときである。
奇妙なことが起こった。一歩下がって窓に背を向けかけたとき、ひどく奇妙なことに、そこにあった小さな張り紙に目が吸い寄せられ、釘付けにされてしまったのだ。張り紙には「お泊まり と 朝食」とあった。「お泊まり と 朝食」「お泊まり と 朝食」「お泊まり と 朝食」……。それぞれの言葉が、まるでガラス越しにこちらを見つめる大きな目のように見えてくる。彼をがっちりと捕らえて離すまい、この家からよそへ行かすまいとしているかのような。やがて気がついたときには、実際に窓の前を横切り、家の玄関を開けようと階段をのぼり、呼び鈴に手を延ばしていたのだった。
彼は呼び鈴を押した。ドアの向こう、家の奥の方で鳴っている音がしたかと思うと、即座に――まさに音がした瞬間、彼の指が呼び鈴のボタンから離れてさえいないうちに、ドアがさっと開いて女性がそこに現れた。
ふつうなら呼び鈴を押しても、ドアが開くまで、どう考えても三十秒ほどはかかるはずだ。だが、この女性はまるでびっくり箱を開けたときのように出てきたのだ。呼び鈴を押す――すると、ぽん! 彼はぎょっとして跳び上がった。
女は四十五から五十歳といったところ、彼を見るとたちまち暖かな、よく来てくれたと言わんばかりの笑顔を見せた。
「お入りになって」にこやかにそう言う。脇へ退いて、大きく開いたドアを押さえたのにつられるように、自分でもはっきりと気がつかないまま、ビリーは足を踏み出していた。自分でもよくわからない衝動にかられたというよりは、あとについて中に入っていきたいという欲望が、抑えがたいまでに高まった、と言った方が正確だろうか。
「窓の張り紙を見たんです」なんとか自分を抑えようとしてそう言った。
「ええ、わかってますわ」
「空き部屋があるんでしょうか」
「もちろん、ちょうどぴったりのお部屋がありましてよ」彼女の頬はふっくらと薄紅色、青い目はとても優しげだ。
「『鐘とドラゴン亭』に行こうと思ってたんです」ビリーは言った。「でも、偶然、ここの窓の張り紙が目に入って」
「あらあら」と彼女は言った。「外は寒いでしょうに、どうぞお入りになって」
「おいくらなんでしょうか」
「一泊五シリング六ペンスいただいています、朝食付きでね」
途方もない安さだ。彼が、このぐらいなら、と思っていた額の半分にも満たない。
「高いようでしたら」と彼女は言い足した。「少しならお安くもできましてよ。朝食に卵はお望み? きょうび、卵も高くなりましたでしょ。もし卵なしでかまわないっておっしゃるんだったら、六ペンス、お引きしますわ」
「五シリング六ペンスで結構です」彼は答えた。「喜んでここに泊めさせていただきますよ」
「そうなさると思ってたました。お入りになって」
(この項つづく)
とはいえ、寝泊まりできるパブの方が、下宿屋より楽しそうではある。夜になれば、ビールやダーツを楽しんだり、大勢の人と話したりもできるだろうし、きっとそっちの方がずっと安上がりだろう。前にもパブには数日泊まったことがあって、すっかりそこが気に入っていたのである。下宿屋に入った経験はなかったし、正直なところ、少しばかりぞっとしない気持ちもあった。下宿屋と聞くと、なにやら煮すぎたキャベツや、ごうつくばりの女主人、部屋まで漂ってくる薫製ニシンの強烈な臭いなどが連想されてしまう。
二、三分、ビリーはこのように決めかねていたのだが、どちらかに決める前に、とりあえず『鐘とドラゴン亭』を見てみることにしようと考えた。そこでくるりと向きを変えたそのときである。
奇妙なことが起こった。一歩下がって窓に背を向けかけたとき、ひどく奇妙なことに、そこにあった小さな張り紙に目が吸い寄せられ、釘付けにされてしまったのだ。張り紙には「お泊まり と 朝食」とあった。「お泊まり と 朝食」「お泊まり と 朝食」「お泊まり と 朝食」……。それぞれの言葉が、まるでガラス越しにこちらを見つめる大きな目のように見えてくる。彼をがっちりと捕らえて離すまい、この家からよそへ行かすまいとしているかのような。やがて気がついたときには、実際に窓の前を横切り、家の玄関を開けようと階段をのぼり、呼び鈴に手を延ばしていたのだった。
彼は呼び鈴を押した。ドアの向こう、家の奥の方で鳴っている音がしたかと思うと、即座に――まさに音がした瞬間、彼の指が呼び鈴のボタンから離れてさえいないうちに、ドアがさっと開いて女性がそこに現れた。
ふつうなら呼び鈴を押しても、ドアが開くまで、どう考えても三十秒ほどはかかるはずだ。だが、この女性はまるでびっくり箱を開けたときのように出てきたのだ。呼び鈴を押す――すると、ぽん! 彼はぎょっとして跳び上がった。
女は四十五から五十歳といったところ、彼を見るとたちまち暖かな、よく来てくれたと言わんばかりの笑顔を見せた。
「お入りになって」にこやかにそう言う。脇へ退いて、大きく開いたドアを押さえたのにつられるように、自分でもはっきりと気がつかないまま、ビリーは足を踏み出していた。自分でもよくわからない衝動にかられたというよりは、あとについて中に入っていきたいという欲望が、抑えがたいまでに高まった、と言った方が正確だろうか。
「窓の張り紙を見たんです」なんとか自分を抑えようとしてそう言った。
「ええ、わかってますわ」
「空き部屋があるんでしょうか」
「もちろん、ちょうどぴったりのお部屋がありましてよ」彼女の頬はふっくらと薄紅色、青い目はとても優しげだ。
「『鐘とドラゴン亭』に行こうと思ってたんです」ビリーは言った。「でも、偶然、ここの窓の張り紙が目に入って」
「あらあら」と彼女は言った。「外は寒いでしょうに、どうぞお入りになって」
「おいくらなんでしょうか」
「一泊五シリング六ペンスいただいています、朝食付きでね」
途方もない安さだ。彼が、このぐらいなら、と思っていた額の半分にも満たない。
「高いようでしたら」と彼女は言い足した。「少しならお安くもできましてよ。朝食に卵はお望み? きょうび、卵も高くなりましたでしょ。もし卵なしでかまわないっておっしゃるんだったら、六ペンス、お引きしますわ」
「五シリング六ペンスで結構です」彼は答えた。「喜んでここに泊めさせていただきますよ」
「そうなさると思ってたました。お入りになって」
(この項つづく)