陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

想像力の源泉

2009-07-15 22:36:26 | weblog
昨日書いたログに対して、コウさんからコメントをいただいたので、もう少しこれについて考えてみたい。

わたしたちはさまざまなとき、自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の頭で考えていると思っている。けれどもそれはほんとうにそうなのだろうか。

車で走っていて、事故現場に遭遇する。何だかずいぶん大きな事故だったようだ。そんなとき、わたしたちは夜のニュースを見、翌朝の新聞を見るだろう。目で見ただけでは、それがどんな事故だったかわからないのだ。ニュースや新聞では、事故を起こした人と被害者、原因と結果が伝えられる。そうした登場人物と、原因と結果を結ぶ物語の助けを借りて、初めて「事故現場」の意味がわかってくるのだ。

もしそうした物語がなくても、少なくともわたしたちは大破している車、飛び散ったフロントガラスを見て、「事故があったのだ」ということはわかる。なぜわかるのかといえば、すでにニュースや新聞で「交通事故の絵」を見ているからだ。つまり、目の前にある光景に過去の物語を当てはめることによって、「事故」ということを理解する。

地下鉄サリン事件があったとき、ちょうど八丁堀駅の近くを通りかかったという人の話を聞いたことがある。その人は、人がいっぱい地面にすわっていて、何事だろうと思ったのだそうだ。思ったけれど、ちょうどそのとき自分がかかりきりになっていた仕事が気がかりで、その光景に一瞬不安をかき立てられたけれど、仕事に意識を振り向けて、足早にその傍らを通っていったのだという。

のちに、地下鉄サリン事件の全貌があきらかになり、その日の映像も繰りかえし流れた。傍らを通り過ぎてゆく人を、問題視するようなコメントも見たような気がする。

けれども、その事件は、まったく前例のないものだった。前例、すなわち、人びとがその事件を理解するための物語があれば、それがどういうことか、ということもわかるし、自分がどうすればよいかもわかる。その物語がまったくない状況で生きるというのは、とんでもなく困難なことだろう。

物語がないとき、人はどうしようもなくて、それまでその人が生きてきた物語を、生き続けるしかない。傍らを通り過ぎた人は、冷たかったわけでも、無関心だったわけでも、自己中心的だったのでもない。自分をその場に位置づけられないまま、通り過ぎるしかなかったのだ。

だが、ひとたびそういう物語を経験すれば、わたしたちはその物語を通して、事態を眺めることができる。どういうことかを理解し、自分の位置を定めることもできるだろう。つまり、物語は出来事とわたしたちを結びつける役割を果たしているのだ。

だが、この物語のおかげで、わたしたちの出来事の理解の仕方も決まってくるとしたら、物語というのは、一方で、極めて危険なものでもあるのではないか。

ナチスが採用した「アーリア民族の優秀性」という物語が、いったい何をしたか。
それだけではない。現在、わたしたちの周りにも、さまざまな物語があふれている。テレビをつければ、のべつまくなしに“エコカーに乗り換えることは環境に優しい”という物語や、“シャツを真っ白に洗い上げることは妻の愛情”という物語、“痩せた体は美しい”という物語や、“口臭は不潔だ”という物語。これはすべて、さまざまなようで、実はたったひとつの物語である。あれを手に入れろ、これを手に入れろ、それを持たないとあなたは幸せにはなれないぞ、という脅迫的な物語である。

けれども、物語はたったひとつではないはずなのだ。
肩こりという言葉がない国では、肩こりは存在しない、という物語もある。その物語を通すなら、口臭という言葉がない国では、口臭は存在しないはず、という見方ができる。口が臭いのではなくて、口臭という言葉があるから、ある種の臭いが「口臭」と呼ばれ、改善の対象であり、市場となる、という物語で、コマーシャルを見ることもできる。

いろんな物語があるのだ、ということを知らなければならない。ちゃちな物語ではなく、自分の理解の程度に応じて、深まっていくような物語。自分の生き方を手に入れることができるような物語。だからこそ、自分以外の人に会わなければならないのだろうし、歴史を知らなければならないのだろうし、本を読まなければならないのだろう。