陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

正しい方を選びたいけれど

2009-07-14 22:55:31 | weblog
一昨日のログを書いていて、ふと思い出したことがあって、昨日うまくまとまらなかった話を。

塾のバイトをしていたころ、教えていた子に「自分の考え方はおかしいか?」と聞かれたことがある。

その子は学校で杉原千畝の話を聞いたのだそうだ。ビデオを見せられ、あとで感想文を書くことになった。そこで、その子は杉原が外務省や日本政府の出した指示に従わなかったのは間違っている、と書いたのだという。
すると、そのような考え方はおかしい、と先生に批判されたらしい。わざわざその子の作文を取り上げて、こういうことを書いた生徒がいたが、杉原は多くのユダヤ人の命を救ったのだ、人の命は地球より重いのだ、とみんなの前で指摘を受けたのだそうだ。

おそらく先生からの批判を受けて、ずっと考えていたのだろう。その子はわたしに、それが正しいとするなら、ある場面では法律違反だって正しいということになる、そんなことを認めていたら、法律そのものが成り立たなくなってしまうではないか、外交官という職にある人間は、その職にふさわしい行動をすべきではないのか、と言った。

わたしがそれに対してなんと答えたのか、はっきりした記憶はないし、いまだにどう考えたらいいのか、わたしのなかにはっきりとした答えがあるわけではないのだが、たぶんそのときは、役割としての行動と個人としての行動、というふうなことを言ったような気がする。社会の一員として、期待される行動や果たさなければならない役割がある、けれどもそれが、個人としての倫理観や「こうすべきだ」という考えが、その役割と一致しない場合がある。問題は、そういうときにどう行動するかということなのではないか。そうして、その行動というのは、かならずしも二者択一ではないのではないか。

そんな答えでその子が納得したのかどうなのか、もう全然覚えていないのだが、それでもその子はそれから後も、授業が終わると講師控え室に来て話こんでいた記憶があるから、大きな失望はしなかったのではないか、という気がする。

わたしたちの日常生活では、ミープ・ヒースを始めとした二万人のオランダ人となるか、見て見ぬふりをした何十万人かのオランダ人となるか、の選択をせまられる場面はあまりない。その一方を選べば、身に危険が及ぶ、けれど、そのことで人の命を救うことができるような。

けれど、そんな明らかな選択というのは比較的まれで、わたしたちの多くが直面するのは、どちらが正しいかわからない、その選択が、いったいどのような結果をもたらすかも容易なことではわからない、わたしたちの多くが直面するのはそんな選択のような気がする。ちょうど、一昨日もあげた菊池寛の「乱世」のように、その選択が、どれほど大きな問題なのかすらも明らかではないような。

渦中にある人は、このように、その時点では一体何が問題なのかすらわからないまま、行動の選択をせざるをえない。一方を選択したのちに時間が経ってからでないと、正しいかどうかわからないのだから、どれだけ考えても、正しい方を選択できるかどうかわからないのだ。

問題は、のちに誤った選択であったことがあきらかになった時点でどうするか、ということなのだろう。

そのとき、ふたつのやり方があるように思う。「役割」を規準に行動したから選択が誤っていたとしても、しかたがなかったのだ、とするやり方。
「個人」として、その責任を引き受け、自分のあり方を反省する、というやり方。

おそらくその人がどういう人か、ほんとうに問われるのは、誤るか、誤らないかではなく、誤った選択をしたのちに、どのようなかたちで自分の責任を問うかのときなのだろう。