陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

昔ながらの自転車屋

2009-07-22 23:05:39 | weblog
帰りがけ、駐輪場から出て、自転車に乗ってすぐ、後輪がパンクしていることに気がついた。そういえば、来るとき後ろの空気がなくなってきたのかなあ、とは思っていたのだ。それでも駅の駐輪場に預けてしまえば、自転車のことはすっかり忘れていたのだった。

駅前の自転車屋まで押していくと、なんとシャッターが下りていて、張り紙がしてある。紙にはマジックで書いた「本日臨時休業」の文字。頭のなかにインプットしてある自転車屋を思い浮かべる。そこから一番近いのは、家とは反対の方角で、前を何度か通ったことはあるが、入ったことはない店である。駅のはずれの商店街の一角にある昔ながらの自転車屋で、軒の低い、家の間口を広げたような店先に、この前売れたのはいつだったかわからないような、黄色い値札のついた自転車が数台置いてあり、その横が修理場になっていたような記憶があった。その修理場から、歩道にまで自転車がはみ出していて、前を通るのに難儀したこともあったような気がする。

とにかく記憶をたよりに、そこだけ取り残されたような、古いアパートやクリーニング屋や八百屋やパン屋が軒を連ねる通りを、自転車を押しながら歩いていった。

修理場のサッシが開いていて、頭の白いおじさんがふたり、長いすに並んでタバコを吸いながら、話をしていた。
「パンクだと思うんですけど、修理をお願いできますか?」と言うと
ふたりともさっと立ちあがって、「まあ、すわってすわって」とわたしに長いすをすすめた。ちょうど小学校にあるような、木の長いすの上に、畳を一枚のせたものである。ひとりのおじさんは、わたしの自転車を店のなかへ入れ、もうひとりは立ったまま「チェーンに油を差したらなあかんな、このままやったらチェーンが切れるよ」と観察している。

自転車を入れてくれたおじさんは、腰を載せる低い台を持ってきて、それに腰かけると、自転車のタイヤにドライバーをはさんで、チューブを取り出した。どうやらこのクレープ地の下着のシャツに、腹巻きをしているおじさんの方が自転車屋さんらしい。駅前の自転車屋の、ブリジストンのロゴ入りの、青いつなぎを着たお兄さんとはえらい違いである。

蚊の死骸が二、三匹浮かんでいる赤い桶を引き寄せると、おじさんは、反対側の手に持っていたタバコに、すくった水をぱしゃっとかけて、火を消し、それを少し遠くにある蓋を切った灯油缶に放り込んだ。見ると、そこには一年分ほどもあのではないかと思われるぐらいのタバコの吸い殻が溜まっている。

タバコを捨てた手に、今度はドライバーを持って、後輪からチューブを取り出す。
「あー、タイヤがだいぶあかんようになってるなあ。そろそろ変えたらなあかんかもしれんなあ」と、タイヤのゴムの部分がひび割れている箇所を教えてくれた。考えてみれば、十年近く乗っている自転車で、前輪は五年ほど前、外に駐輪しているときにカッターか何かで切られたときに取り替えたのだが、後輪は買ったときのままだ。ほとんど毎日乗っているのだから、へたってきても当たり前だ。

だが、そうは言ってもおじさんはそれ以上、タイヤを取り替えた方がいいとも言わず、黙々と作業を続けている。もうひとりのおじさんは、立ったまま、ミシン油みたいな、さらさらした油では、ちょっとの間はいいが、すぐダメになってしまう、車用のオイルはべたべたしすぎて、ほこりを吸って余計走りにくくなる、としゃべり続けている。

チューブに空気をいれると、シューシューと音がする。腹巻きのおじさんは、水に漬けてその箇所を探した。直径5ミリほどの穴が空いている箇所が見つかった。
「こら、尖った石かなんかを踏んだんやな」
そう言うと、おじさんは工具箱に入れてあった丸い大きな石で、チューブをこすり始めた。そうやってチューブから完全に水気を取り除くと、透明の接着剤を掬い取って、手早く塗っていく。そのあと、さらに工具から黒いパッチを取り出して、その箇所に当てた。チューブを引き延ばしながら、パッチを馴染ませていく。再度、桶につけて、空気が漏れていないか確認して、後輪に戻していった。

「虫ゴムも替えときまひょな」とおじさんが言い、わたしが、何で虫ゴムっていうんだろうなあ、と人生で何度目かにそう思っていると、もうひとりのおじさんが「ほれ」と小さな引き出しから、小さな黒っぽいゴムを取り出した。腹巻きのおじさんは「おおきに」とそれを受けとって、自分の口に入れ、つばをつけてから、自転車の空気穴のところの金具に差しこもうとする。うまくいかなかったらしく、もう一度口に入れ、やり直すと今度はうまくいった。そこからボルトを締め直し、最後にキャップをかぶせてできあがり。

「ありがとうございました」とお礼を言うと「パンクの修理は800円な」と言われた(小学生のときは500円だったことを思い出した)。財布からお金を出そうとしていると、おばさんが「あんた、ちょっと戻ってきて、××がまたあかんようになったから」と、自転車屋さんではない方のおじさんを呼びに来た。見ているとふたりは一軒置いた八百屋に入っていく。どうやらチェーンに差す油について講釈してくれたおじさんは八百屋さんらしかった。

それを見て思い出したのか、自転車屋のおじさんは、「これ、差しときまひょか」といって、細いノズルのついたオイルをスプレーでシューッシューッと差してくれた。どうやらそれはサービスだったらしい。千円札を出すと、奥へいったん戻ったおじさんが、「すんまへんなあ、百円玉が一枚しかあらへんかった」と恐縮しながら百円玉と五十円玉二枚のおつりを手渡してくれた。

「どうもありがとうございました。ほんとうに助かりました」ともう一度頭を下げて、自転車屋をあとにした。タイヤの交換について、おじさんから勧められなかったことをもう一度思い出し、つぎにパンクしたらここに持ってきて、タイヤごと替えようかと思ったのだった。