陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ロアルド・ダール「女主人」その4.

2009-07-30 22:49:59 | 翻訳
その4.

 たとえ女主人の頭のネジが少々ゆるんでいるにせよ、ビリーはたいして気にもならなかった。ともかく、あの人は無害だし――これはもう疑問の余地もないことだ――どう見ても親切で、けちとはほど遠いにちがいない。たぶん、戦争で息子を亡くしたかどうかしたんだろう。それで、あんなふうになっちゃったんだ。

 数分後、スーツケースの中身を取り出してから手を洗うと、足取りも軽く一階へ下り、居間に入っていった。女主人はそこにはいなかったが、暖炉の火はあかあかと燃え、相変わらずその前には小さなダックスフントがぐっすりと眠っている。部屋は暖かく、すばらしい居心地だ。ぼくはツイてるぞ、と思いながら、両手をこすり合わせた。まったくなかなかのところじゃないか。

 ピアノの上に宿帳が広げてあったので、彼はペンを取り上げ、住所と名前を書き込んだ。そのページには、彼の名前の上に、ふたつだけ、名前が記されていた。誰でも宿帳に記入するときにそうするように、彼もその名前をしげしげと眺めた。ひとつはカーディフから来たキリストファー・マルホランド、とある。もうひとつはグレゴリー・W・テンプル、こちらはブリストルからだ。

 変だぞ。不意に彼の胸にそんな思いが兆した。クリストファー・マルホランド。何か引っかかる。

 一体全体どこで、こんな名前を聞いたんだろう。どこにでもあるような名前じゃない。

 学校にいた? いいや。じゃ、姉貴の何人もいた彼氏のひとりだったんだろうか。いや、親父の友だちか。いや、ちがう、そんな関係ではない。

 クリストファー・マルホランド
 カーディフ カテドラル通り 231

  グレゴリー・W・テンプル
 ブリストル サイカモアドライヴ 27

 いまでは二番目の名前にも、最初の名前同様、心あたりがあるような気がしてきた。

「グレゴリー・テンプルだって?」声に出して言うと、記憶をさぐった。「クリストファー・マルホランド……?」

「それはもう、ステキな青年でした」背後で声が聞こえた。振り返ると、女主人が大きな銀製のお盆にお茶の用意をして、部屋に入ってきていた。お盆を体の正面のやや高い位置で、まるではね回る馬の手綱であるかのように、しっかりと捧げ持っている。

「この名前、聞いたことがあるような気がするんです」彼は言った。

「そうなんですの? おもしろいこともあるものね」

「絶対前にどこかで聞いたはずだ。変ですよね。たぶん、新聞で読んだんだ。ともかく、有名人の名前じゃありませんよね。有名なクリケットの選手や、サッカー選手みたいな、そんな関係の人じゃない」

「有名ねえ」彼女はそう言って、お茶の盆をソファの前の低いテーブルにおろした。「いいえ、ちがうと思うわ。あの方たちは有名人ではありませんでした。でも、ほんとうにきれいな顔立ちの人でね、ふたりとも。それだけは確か。背の高い、若くてハンサムな人たちでしたよ、ちょうどあなたみたいにね」

 もう一度、ビリーは宿帳に目を落とした。「ここ、見てください」日付けを指さしながら言った。「最後の日付は二年前だ」

「そうでしたかしら?」

「ええ、そう書いてある。クリストファー・マルホランドはそれより一年近く前だ――いまから三年以上経ってる」

「あらまあ」頭をふりながら、ため息を静かに品良くつきながら、彼女は言った。「そんなこと、考えたこともありませんでした。光陰矢の如しって、ほんとうなんですね、ウィルキンスさん」

「ウィーヴァーです」ビリーは言った。「ぼくはウィーヴァーです」

「ごめんなさい、そうでしたわね!」大きな声を出すと、ソファにすわりこんだ。「わたし、ぼうっとしてしまって。ほんとにごめんなさい。こっちの耳から入っても、反対側から出ていってしまうんですのよ、ウィーヴァーさん」



(この項つづく)