陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

『橋の下』で

2009-07-20 22:57:19 | weblog
昨日の話のつづき。

ともに大学を受験し、浪人を経験したのちに、道がまったく分かれてしまったAさんとB君だが、B君にとってAさんは憎悪の的となった。だが、人を憎むのにはしかるべき理由がいる。他人から見て、どれほど奇妙なものであっても、少なくとも自分をとりあえず納得させることのできる理由が必要なのだ。B君が繰りかえしAさんに「母親を泣かした」とからんでいったのも、それこそが憎む気持ちを正当化する「理由」となったのだろう。たとえ母親が泣いたほんとうの原因は、自分が大学受験に失敗したことであるとわかってはいても、Aさんが来たのを見て泣いたというその一点にすがりつくようにして、自分を納得させたのだろう。

それでも、Aさんからすれば、B君から憎まれるというのは、どうにも納得ができなかったにちがいない。だからわたしにも、その話を聞かせてくれたのだろう。Aさんから見れば、問題の端緒はB君が受験に失敗したことではないのか。Aさんが合格したからB君が不合格になったわけではないのだから、そのことで憎まれるのは、わけがわからない、と。
B君が思う対立点は、Aさんにとっては対立点でもなんでもない。

ただ、これが受験ではなく、もっと対立点が明確になるような、たとえば恋愛だったりしたら、仲が良かったふたりがあることをきっかけに仲違いすることは、よくあることだろう。

山本周五郎の武家ものの時代小説に『橋の下』というのがある。
漱石の『こころ』では、お嬢さんを争って、先生はKを出し抜くことになるが、この小説では逆になる。だが、ちょっと先を急ぎすぎたようだ。

果たし合いに赴いた若侍が、はやるあまりに、寺の鐘の音を数え間違い、夜明け前の冷気のなかで、橋の下の焚き火に引き寄せられる。火を焚いていたのは、橋の下で暮らしている老夫婦だった。いかにも果たし合いを前にしたらしい若侍に対して、老人は問わず語りに自分の過去の話を始める。

老人は、かつては由緒正しい家柄の武士だった。幼いころから仲の良い友だちがいた。友だちは、学問もでき、武芸の腕も確かで、家中でも注目を集めるようになっていたが、彼よりも身分がかなり下で、嫉妬を感じるような相手ではなかったのだ。

彼はかねてより思いを寄せていた娘を妻に貰い受けようとする。ところがその家では、すでにその友だちの方と、縁談を進めていた。彼は、その友だちに腹を立てた。友だちは、自分が娘に思いを寄せており、彼女の方もそれに応えていたことを知っていたではないか、きさまは他人の妻をぬすんだのだ、となじった。

ふたりは決闘することになる。友だちに二太刀浴びせた彼は、娘を呼びだし、そのままふたりで城下を出奔することになった。

「自分たちが恋に勝った」という気持ちは長くは続かない。
七年目に国許に帰ったとき、自分が斬ったはずの友だちは、ケガを負っただけで、かえって同情を買い、家中で出世を果たしていることを知る。

彼は、あのとき自分さえでしゃばらなければ、妻もいまごろ幸せになったのに、と後悔し、妻の側は、夫をこんなに落魄させたのは自分だと思い、ふたりで「憎むべきは、かの男だ」と友だちを憎んだ。

だが、その憎しみも、長くは続かなかった。やがて彼は体をこわして働けなくなり、ふたりは物乞いをしてくらすしかなくなるのである。

橋の下で暮らすことを余儀なくされた老人は言う。「この橋の下には、人間の生活はない」という。橋の上の「恋もあやまちも、誇りや怒りや、悲しみや苦しみさえも、いいものにみえます」と。

橋の上の世界から出てしまったのは、娘を失うか得るかが、命を賭けるほどの重大なことだと思い込んでしまったからだった。その結果を考えることもなく、思い詰め、果たし合いに臨んだ。だが時が経ってしまうと、恋は冷え、また友の出世を羨む気持ちも失せた。ただ、果たし合いで友を斬り、「医者を呼んでくれ」という友だちを見捨てたことだけが心残りだ。「医者を呼んでくれ」と言ったのも、おそらく友だちは表沙汰にすまいと考えてのことだったとわかったからだ。それを思うと、友が出世をし、自分が落魄したことさえもありがたいと思う、と。

老人の話を聞いた若侍が、果たし合いをやめる、というところでこの話は終わるのだが、その一種のハッピーエンドをよそに、なんともやりきれない思いが残る短篇である。

この老人が若い頃、友だちを「許せない」と思ったのも、やはりどこかでその友だちなら、自分のために何かをしてくれるはずだ、と思いこみがあり、それが裏切られた失望があったからだろう。

なぜ自分が裏切られたと思ったのか。なぜ自分は彼にそこまで期待したのか。そのことを思うと、逆に相手に期待していた自分の姿が見えてくるはずだ。もちろん、それがもっと早くになされていたのなら、もちろん果たし合いもしないですんだ。だが、長い年月の放浪のうちに、彼はそのことに気がついただろう。気がついても、もはや取り返しのつかない状態になって気がつくことと、ずっと気がつかずにいて、友だちのことを憎み続けるのと、どちらが彼にとって良かったのだろうか、とやはり考えるのである。