古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

「おらが村の小学校」の礎を築いた先生の碑です。

2011年02月09日 02時58分10秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 口吉川町公民館で『楽しい郷土史講座』第四回があり、二人で参加して十数名の生徒とともに勉強しています。月曜日の講座では東中に美嚢郡里郷という郷学(私塾)があったことを学びました。兵庫県教育史に出ている資料では、「播磨の国は気候温暖にして地味亦沃え、海陸の交通便よきため、その文化的水準は概ね高かりし模様である。」とあり、東中と久次の学校が出ています。
 その資料を載せておきます。

 塾名  学科      所在地  開業    廃学     生徒数        塾主       身分
 里郷  読方 算術  東中   文化元年 嘉永五年 男30名 女5名   国嶋 尚謙     医者

 口吉川町には二つの郷学があり、その一つが我が東中にあったこと、尚謙の死後、子・三左衛門が大庄屋になり職務の傍ら郷党の育英に当る。助教として長谷川長兵衛あり。先代尚謙の弟子である。

 長兵衛の子孫にあたる方も講座に参加しておられました。この塾が明治の学制で小学校となり、口吉川学校になっていったのです。これは昭和17年に出た『兵庫県教育史』からの引用です。
 講座が終って帰りに八幡神社の横にある国嶋尚謙先生の碑に寄ってみました。資料には碑の先生をたたえる教え子(筆子)中の碑文が載っていますが、石のほうは風化して碑文が読めません。なお「筆子中」の字はいまは石碑の前に花立てが置かれて写真では見えなくなっています。
 医者として眼科の名医でもあり、質素で倹約家であり、金持ちに屈せず貧しい人にやさしく、立派な人であったと漢文の碑文にあります。
 時間の落葉が降り積もり、生身の人々が歴史に埋もれていく現場を見た気がしました。でも碑のそばに碑文と訳を書いた看板でもあるといいですね。
コメント
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