幸せになろうね 改め しあわせだね

日々の生活の中のほんの小さな出来事をどう捉えるかで
私達はすぐにも幸せになれるのです。

陰徳を積んでわかったこと

2017年10月19日 21時27分01秒 | 波動
数年前に読んだ豊かさを引き寄せるための本
に書かれていたことを
今でもいくつか実行している。


                          

そのなかのひとつに
陰徳を積むがある。


誰も見ていないところで良いことをすると
神様貯金の貯蓄率が高くなる


とかいう言葉に触発されて
うん、
まさに「欲」の塊から
早朝ウォーキングでのゴミ拾いを続けている。



なるべく人の目のないところで拾う。

ま、人の目があってもごみを見つければひろうけれど。

そのためにスーパーの袋を持ち
ゴム手袋ももち、
準備万端で歩き出す。



最初のころは

「なんでこんなところにごみを捨てるんだろう!!」

って、ぶつぶつ言いながら拾っていた。

でも

「文句を言いながらの行為にはマイナス点がつく」

ことを知り、文句や愚痴を言うのはやめた。

ただ、淡々と拾い続けることを心掛けた。


そうしているうちに

「捨てる側じゃなくてよかったわ」

と思うようになった。

「少なくとも自分の生活エリア内くらいはきれいであってほしい。
 そしてまた、誰かのエリアも汚したくはない。

 そう思えて、そうできる自分でよかったな」

と思うようになったのだ。


で、ゴミって
たいていがコンビニで買えるような
あるいは安いお弁当チェーン店で買ったような
そんなもののくずばかり。

少なくとも
おカネのかかったものの包装紙だとか箱だとかは落ちていない。


つまりは
そういうものしか食べない人たちだからごみを平気で捨てる?
それとも
ゴミをしても平気な人たちだから
そういうものしか食べられない境遇になる?

なんて
いろいろ考えながら拾っていた時期もあった。



そのうち
結局は
これも陰陽の法則、だな、と気づいた。

「捨てる」という行為はあるけれど
ただそれだけの事。
ほんとうはそれには良いも悪いもないのだ。

それがよいか悪いかを宇宙は判断したりしない。
なのに
私が
ジャッジする権利や必要がどこあるというのだろう。

おこがましぞ、わたし。



ジャッジすれば、そこにまた正義を振りかざす複雑な感情が出てきてしまう。


「そこにごみが捨てられている」

という事実がただあるだけではないか。



ゴミがあると私にとって心地よくないから私は拾う。

その場所がキレイなほうが私には気持ち良いから私は拾う。

私が拾うのは
あくまでも私がそうしたいからに過ぎない。

つまりは私の勝手。

私にとって心地のよいほうを選択しているだけのことなのだ。

そう、
ただ、それだけの事なのだ。




拾い始めたころの私は

「拾う=善い行い」
「捨てる=悪い行い」

というジャッジをいつもしていた。
そして「悪い行い」をする人たちを非難していた。
もちろん
非難すれば腹が立つ。

腹が立つことは気持ちの良いことではない。
その瞬間、幸せではない、ということになる。



でも今、心を動かさずに拾っている自分がいる。

目についたら拾わないと気分の悪い自分がいる。

心を動かさずに黙々と拾っている自分を私自身が見ていて
それが結構気に入っていたりする。

そんな自分を好きだとさえ思えるのだ。

自分を好きだと思えることは
「幸せになる」必須条件ではないだろうか。


結局
陰徳を積む、ということは
「誰かのため」ではなくて
自分のためだから、
ということに気づくきっかけになるのかもしれない。

そうして、それは心の平安という幸せ、豊かさをもたらしてくれる。

だから
豊かさを引き寄せる方法の中に「陰徳を積む」があったのかもしれない。



で、心に豊かさができると
当然現実的にも豊かになる、というのが宇宙の原理だから
たぶん端から見れば
数年前よりも今の私のほうが豊かに見えるのだろうね。

自分ではまだあまり自覚はないけれど
まあ、少なくとも
あくせく時間に追われていないだけでも
ずいぶん違った毎日になっているのは確かだ。





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