赤い彷徨 part II

★★★★☆★☆★★☆
こんにちは、アジア王者です。↑お星さまが増えました。

紀伊街道の要衝(1)

2009-10-10 00:49:09 | ぶらりアウェイの旅
夏場の連敗地獄にどっぷり浸かっていたアウェイ神戸戦、当日は新大阪駅で師匠に迎えてもらい昼飯にらーめんを食った後なぜか南海電車に乗り込み南下、向かった先は岸和田。

大阪で南に向かうということはまあそういうことなわけで、個人的にも「岸和田」というと「だんじり」とか「清原」とか「愚連隊」とか実に荒っぽいキーワードしか浮かんでこなかった(ごめんなさい)。



しかしながら、実際に歩いてみた岸和田の街並みはなかなか美しく歴史の香りを感じさせるもので正直意外(といっては失礼だったか)。写真は住宅街に佇む「だんじり」の格納庫かと思われる。



毎年秋に行われる「岸和田だんじり祭り」では、テレビの映像などでよく知られるように、だんじり(山車のようなもの?)を街中でハイスピードで曳き回し、急転回させるのがある種の見せ場。それゆえか、このように街の至るところには破損対策の緩衝材として紅白の飾りつけが施されていた。



そんなこんなで駅からとぼとぼ歩いていき、市役所や消防署を過ぎると大ぶりな石垣が忽然と姿を現す。ちなみに街並みを眺めながら歩きたかったので、駅からの道のりは少々遠回りをしております。



石垣沿いに歩を進め回り込むとやがて天守の姿が。それにしても街のそこかしこに歴史が溢れていて散策していて飽きない。



本丸へ続く櫓門を抜けると眼前にデカい釜が登場してちょっとびっくり。この釜は酒造用の大釜らしいのだが、何でまたこんなところに飾ってあるのかよくわからん。



岸和田城はもともと1300年代に楠木正成一族の和田高家が現在とは別の場所に築いたといわれている。当時この地は「岸」と呼ばれており、「岸の和田」転じて「岸和田」と呼ばれるようになったとかならなかったとか。



(つづく)

100%周防かもね(2)

2009-10-07 07:39:31 | ぶらりアウェイの旅
前回からのつづき)

とりあえず喰うもんだけ喰って、山城である岩国城に向けてロープウェイに乗り込む。20~30分おきに往復しているようだったが、週末でそれなりに観光客が訪れていたためそれなりに手狭でありつつも、あっという間に山上に辿り着く。



山上に着くなり早速お城に向かって歩き出す。獣道?を行く険しいコースと、舗装された坂道をひたすら登る2つのコースがあった。舗装された路を進むと眼前に突如現れた石垣、天守台っぽいがしかし建物らしいものもなく。よくよく解説を読んでみると、元々天守はここにあったのだそう。え、じゃあ復元天守は別の位置に建てられてるのかよ、ってなことでいきなりちょっと萎える。



で、こちらがその復元天守。昭和37年に再建されたもので、「桃山南蛮風」というらしいのだが、実にユニークなスタイル。錦帯橋から望むことができるように敢えて天守台と異なる場所に再建されたという話で、益々何だかなあという感じ。天守内の展示は刀剣が充実しており、どうも最近刀剣に目覚めたらしい連れがガン見。



頂上からの眺め。遠くに瀬戸内海も望むことが出来てなかなかの絶景ではある。それにしても錦帯橋といい岩国城といい、若いカップル(死語か)の姿が思いの外多くてちょっとびっくり。個人的にはデートで城ってのは有り得ないオプションなんだが、よっぽど他に行くところがねーのかな・・・。



岩国城について少々。関が原の後に大減封された毛利家、その一族であり同家存続のため奔走した吉川広家が毛利家家臣として1601年に米子よりこの地に赴任、築城したのが岩国城。しかし7年かけてせっかく築いたところで折悪しく江戸幕府による一国一城令が下り、敢えなく廃城の憂き目にあった城らしい。



ロープウェイと城との間になにやら曰くありげ「大釣井」という井戸跡があった。岩国城のような山城では篭城に備えての蓄えの一環として井戸を設けていたという話はどこかで聞いたことがある。ちなみに山城は防御に優れ戦略的であるため、安定期だった江戸期に入ってからその山城が築城されたという意味で岩国城は珍しい例らしい。



帰りのロープウェイは行列でポールポジションを取ってしまったので大人気なくアリーナ席を確保。蛇行する錦川はもちろん、錦帯橋もわずかながら見える。そんなこんなでようやく山を降りる。



ややくだびれてしまい、帰りの飛行機まで時間もあったので錦帯橋そばのレストランで茶をしばきつつ一服。ほどなく目の前の錦川で鵜飼のパフォーマンスが始まって賑々しい様子だった。飛行機のチケットの控えをなくして焦ったのはご愛嬌w



(広島編・了)

100%周防かもね(1)

2009-09-22 22:29:45 | ぶらりアウェイの旅
前回からのつづき)

A広島戦翌朝は山陽本線で西へ向かう。海沿いに化学コンビナート群が広がる様子が見えてくると、やがて行き着いた先は岩国。というわけで、既に安芸国でなく周防国に入ったので件名も変えてみる。ま、いずれにせよくだらんと。岩国駅からバスに乗って向かった先はどうやら岩国観光の定番らしい錦帯橋(きんたいきょう)。



錦帯橋は江戸時代に領主吉川氏によって架けられた木造組木によるアーチ橋。それまで、錦帯橋が跨いでいる錦川の氾濫によって何度も橋が流されたためにいろいろ研究を重ねて辿り着いたもので、中国は杭州に架かる橋をモデルにしていたとのこと。技術的なことはわからないが、川岸から見上げるとご覧のとおり。



その錦川は流れる水の清らかさが非常に印象的だった。錦川の水はこんなに澄んでいるいるってのにオレたちと来たら・・・。



簡単に言うと、段のある太鼓橋を繰り返し3つ渡るような感じでちょっとした違和感。ちなみに、橋を渡るのは有料だが、駅の改札を出て直ぐの窓口で①駅から錦帯橋までの往復バスチケット、②錦帯橋往復、③岩国城に登るロープウェイ往復チケット、④岩国城入城チケットをセットで販売しているのでそちらが便利かと。



錦帯橋を渡ると土産物屋とソフトクリーム屋がしのぎを削っているエリアを経て武家屋敷の多数残るエリアへ。武家屋敷は中には崩れかかっているのもあったりして何だかなあと。さらに歩を進めると、山上に聳える岩国城に向かうためのロープウェイの乗り場があり、奥には吉川氏歴代が祭られている吉香(きっこう)神社。



神社の脇に「吉香」というレストランがあったのでそちらで昼飯を頂くことに。写真は「吉香うどん」に「岩国寿司」がついたセットメニュー。「吉香」とは隣にある神社から取った名前と思われ。まあ可もなく不可もなくというところか。



レストランの窓からも見えた錦雲閣(きんうんかく)。なかなか趣のある建物だが、実は明治に入ってからの建物で、旧藩時代の矢倉に似せて造られた絵馬堂。近づいて中に入ってみてもなるほど風情のある建物には違いないのだが、メンテナンスが行き届いていないようで蜘蛛の巣がはってたりしてそのあたりちょい幻滅。



(つづく)

試練は続くよ安芸までも(3)

2009-09-20 17:55:58 | ぶらりアウェイの旅
前回からのつづき)

広島城を後に。引きつづき徒歩で向かったのは縮景園。広島藩の藩主浅野長晟(ながあきら)によって築かれた庭園で、実際に庭造りを担当したのは茶人でもあったという家老・上田宗箇(そうこ)。ってな薀蓄は少し前に観たBSの番組で仕入れたものなのだが。

こちらは入ってすぐに目に飛び込んでくる清風館。前述のBSの番組の内容が茶室にフォーカスした内容だったので特に建物内や周辺が楽しみだったが、残念ながら建物の中はよく見させてもらえず。これっていつものことなのだろうか。



この庭園のシンボル(のように見えた)跨虹橋(こうこきょう)。上を渡ることもできるし、脇を通ってやり過ごすことも可能。この跨虹橋の両側に広がる池では魚だけでなく亀たちも気持ちよさそうに泳いでおり、池のほとりに我々が近づくとエサがもらえると思ってかもの凄い勢いで近づいてきた。亀が亀に吸い寄(ry



入口からみて裏側を流れる京橋川のほとりで一服。向こう岸にはマンション群が広がっており、やはり周辺をテレビ局やマンションに囲まれていた広島城同様に都市に溶け込んでいる印象。向かいのマンションの1Fがバスの車庫になっているようだった。



やはり川に近いエリアに位置する茶室・明月亭。個人的に一番興味があったのだが、何か作業中だったのか全て戸が閉められていて残念。内側で作業か何かしている方が聞いていたラジオが裏にあり、そこから競馬中継が庭園に響いていたのは何ともはや・・・。



ひっそりとした週末の官庁街の外れに佇むスイーツショップで野郎2人涼をとった(営業妨害だったらごめんなさい)後はとりあえず宿へ。さすがに徒歩で徘徊する気力はもうわいてこず、広電にて宿方面へ。別の機会では新型車輌にも乗り、そちらはスムースで乗り心地はよかったけど、やっぱりこっちのが風情はありますわ。



チェックインしてしばし休憩の後アストラムラインに揺られて広島ビッグアーチへ。時節柄地元メディアが衆院選投票キャンペーンみたいなのをやっていた。キャンペーンマスコットが金色のサイで「投票に『きんさい』」だって。写ってるお姉さんたちの服装を見ると当時はまだ夏だったんだなとしみじみ(エロ目線ですいません)。ちなみに「アストラムライン」って言葉をごく自然に口にして、しかも澱みなく言えると例外なく広島出身者に感動されるのはちょっと不思議。



ビッグアーチってテレビ中継だとかなり大きい部類のスタジアムのように見えるのだが、実際現場に行ってみるとさほどでもないように感じる不思議。バックスタンドが大きめであるのに対して、ご覧のとおりゴール裏は奥行きがないからそう感じるのだろうか。試合?そんな時代もあったねといつか笑える日が来るんじゃないかとようやく思えなくもない今日この頃。



試合後は、今度は言葉少なに、再びアストラムラインに揺られ中心部へ帰還し、ささやかな残念会で地元料理(と思われるもの)で少々癒される。時間の経過とともに赤く染まりゆく飲み屋というのは遠征先の街ではまあもう慣れた話で。おいしかった岩牡蠣だが食べかけで恐縮。そしてこの日も、翌日早いってのに例によって例のごとく夜遅くまで街を徘徊。



(つづく)

試練は続くよ安芸までも(2)

2009-09-18 07:35:16 | ぶらりアウェイの旅
前回からのつづき)

広島城はもともと1500年代終盤に建設されたもので、毛利氏が中国地方一帯を対象とする執政にあたり、建物として手狭になった居城・吉田郡山城から拠点を移したのが事の始まり。その後毛利氏は関ヶ原の戦いで西軍についたため転封され、福島氏が入城。しかし十数年後にその福島氏も改易となり、後を継いだのが浅野氏でその後明治維新まで統治を続けた。浅野氏はあの「忠臣蔵」に出てくる赤穂浅野家の本家。



前述のとおり広島城(てか、市街の建物のほとんど)は残念ながら原爆で吹っ飛んでしまったため、現在の天守は昭和33年に再建された鉄筋コンクリート建てのもの。城内も小奇麗で、こちらも建物そのものよりも展示を楽しむという感じだった。写真は最上階からの眺めで、タワーは地元の放送局RCCのものと思われ。



広島護国神社。ここも本丸跡らしい。それにしても広島城址ではジュースの自動販売機がなかなか見つけられず、灼熱のなかやっとのことで周囲を1周してきたオレたちは辟易。最上階でやっと販売機を見つけたと思ったら全部売り切れって砂漠のオアシスの蜃気楼かと・・・。結局その他は、売店の前と、大手門を出たところのバス駐車場にしか見かけなかった。公園の敷地が広いだけにしんどい。



お堀に佇む鳩(昨今の政局とは無関係)たちの視線の先には・・・。



「穴」には目がない男がひとり・・・。さて広島ではどちらに鉄砲をぶっ放すおつもりでしょうか。



2つの櫓とそれを結ぶ渡り廊下もささやかな展示があり、上がって見学することができる。太鼓櫓では太鼓も叩けます。いや叩いていた男がひとりいたもので・・・。



我々は結局この大手門から出たのだが、そもそもこちらから「入る」のが王道っぽかった。結局城址公園をほぼ1周する羽目になったが、ビッグアーチに行く前の準備運動とポジティブに考えておく。



(つづく)

試練は続くよ安芸までも(1)

2009-09-11 07:42:24 | ぶらりアウェイの旅
また随分と昔のように感じられるというか、むしろ感じたいというか、そんな広島遠征の話でも。

広島に到着してまずは腹ごしらえっつーことで向かったのはお好み焼きの「はぜ屋」。しっかりと広島出身者にヒアリングの上ピックアップしたお店だったので間違いはなかった。「大手町」という住所のイメージのとおりオフィス街で、そのビル群の路地裏に佇む小さなお店というところか。



地元の人が訪れるようなお店は一般的にカウンターのみであるというのは今回初めて知ったこと。目の前の鉄板で焼き上げてくれるのでやや暑いが臨場感十分。うどん肉玉(700円)、大変おいしゅうございました。いや「そば肉玉」にすべきだったのかもしれないが。しかし電話でお好み焼きの出前を取っているのはなかなか面白い光景だった(マヨは自らかけたものでございます)。



お店を出て近くのコンビニで松本のチケットを購入。天皇杯2回戦だってのに発売日の午後にアウェイゴール裏が完売になってて苦笑を禁じえず。さて腹ごなしも兼ねて強い日差しの下、次に徒歩で向かったのはまた芸のないことに広島城。思いっきり一般的な入口とは違う方面からアプローチしてしまったため炎天下の中城の周りを一周してしまっていきなり汗だく。



広島城址は敷地がやたらと広かった。そして城郭は勿論、後に建てられた帝国陸軍の施設も含めて原爆で吹っ飛んでしまって土台しか残っていないものが多い。こちらは陸軍幼年学校(だったかな?)の施設のうち唯一残った門。



維新後の広島城敷地内には広島鎮台が設置されていたが、なんと日清戦争のあいだはここに大本営が置かれ天皇陛下もこちらに行幸されていたとか。太平洋戦争当時は史跡として残っていたこの建物もご多分に漏れずご覧の有様ということのよう。



というわけで天守も当然復元されたものなわけだが、偶然なにかどうかわからんがこんな特集展示の真っ只中。ちなみに浦和はこの晩、三本とまではいかねど二本の矢で射られて敢えなく撃沈・・・。



(つづく)

霧降る駿河路(5)

2009-09-03 07:36:37 | ぶらりアウェイの旅
前回からのつづき)

久能山東照宮の復路。青銅製の鳥居が濃霧に包まれる姿はなかなか神秘的な光景なのだが、如何せんポリバケツが2つも写っちまっているので現実に引き戻されてしまうのが残念無念・・・。向かって右に五重塔跡、左に鼓楼という配置となっています。



楼門の裏面の両側に配置されている狛犬、左側は一角獣的なものだった。狛犬は一般的には参道と垂直方向に左右が向き合っているが、何となくコイツはお宮様の方向を向いているような。



振り返って、楼門を再びアップにて。この後は久能山東照宮博物館で徳川家縁の品々を、これまたほぼ貸しきり状態で堪能した。そういえば、地元の各社の新人バスガイドさんっぽい人たちが合同研修かなんかで境内をウロウロしてたな。



ここからは通常眼前に広がる海原が望める筈なのだが・・・。ちなみに家康公の遺命は正確には「わが屍は久能山に、葬儀は増上寺で行い、位牌は故郷の大樹寺に置き一周忌が過ぎたら日光山に移せ。そして関八州の平和の守り神となろう。西に向かってうずめよ」といったものだったらしいのだが、結局のところ葬儀は増上寺では行われず、また位牌でなく亡骸が1年後に日光に移されたので、遺言が一字一句守られたわけではなかったよう。神格化され、まさに「関八州の守り神」となったのには違いないが、そうはいっても何となく切ない話。



日本平に戻るロープウェイはまたまた貸切状態。しかしガイドさんは再び往路と同じおばさんでややがっかり。霧に包まれたまま日本平に到着、これまた貸切の土産屋で買い物を終え、タクシーを呼び出し、ここでようやく「アウスタ日本平」へ到着。やっぱ平日だった昨年のリーグ戦アウェイよりよっぽど人は多かったと思ったのだが・・・。



個人的に初めて見かけた車両なのだが、道具類でも運んでいるのだろうか。何かチームの調子的に棺みたいに見えちまうのだが・・・。アウェイスタンドに向かう道すがら、パルちゃんでもいないかなぁとメインスタンド裏を眺めながら歩いていたところ、橋本代表と河野某を含む数名がイスに腰掛けてタバコの煙を燻らせながら談笑するという何ともいえない光景を目撃。



そしてこの後はスタジアムで本日2度目の「コロニー落とし」を浴びて涙ながらに東京に逃げ帰りましたとさ・・・。

(清水編・了)

霧降る駿河路(4)

2009-09-01 07:43:27 | ぶらりアウェイの旅
前回からのつづき)

さていよいよ御社殿へ、右手から侵入と。ご覧のとおりすっかり霧が立ち込めて屋根を覆わんばかり。何となく夢見心地な気分だが、残念ながらガイドのおじさん含めて野郎3人連れ。しかもこの後、晩には夢も希望もない試(ry



御社殿の中心は拝殿。その見事な極彩色。こういう伝統を受け継ぎ、施工しているのは「ハチミツとクローバー」とかに出てきた「宮大工」さんのお仕事ということになるのでしょうか。



この彫り物にはそれぞれにストーリーというか、教訓のようなものが示唆されている由。浦和を応援する者として、種々のことわざや戒めがやけに身に沁みる今日この頃であります・・・。



こちらは唐門の扉を横から撮影したもの。凝ってますね。このように間近で彫り物が堪能できる点や、観光地として比較的メジャーでないため人が少なめな点、そして今回は断念したけど1000段以上もの階段を登って辿り着ける点など、個人的には日光東照宮よりも久能山東照宮の方が好みかなあと思う。



御社殿を抜けて御廟所へ向かう。何となく薄暗く、荘厳な印象を与える参道、の傍らに佇む苔がメインであります。



徳川家康公の遺命により亡骸が最初に埋葬された「御廟所」。西向きに建てられていて、ガイドさんによれば背後の線つまり東に伸びる線はまっすぐ日光に向かっている由(未確認)。江戸城の「鬼門」に日光東照宮が建てられているように、結構な風水の影響を受けているみたいですね。



こちらは先ほどの苔生した壁の、参道を挟んで反対側。大地震で「ずれ」が生じたものがそのままになっているとのこと。




参道の両側には諸侯から奉納されたという石灯篭が並び立つ。何かもうタイミング的には「浦和 黄泉の国へ」という感じの絵・・・。



(つづく)

霧降る駿河路(3)

2009-08-31 07:48:02 | ぶらりアウェイの旅
前回からのつづき)

日光東照宮にもあった「神厩」。こちらの馬は彫像?となっている。全体感としては馬というか子馬というかロバというか、そんな風に見えたがまあ馬は馬っつーことで。



これは・・・なんだったかなぁ。傍らのバケツは上に鳥の巣があるため設置されているって話だったような。



五重塔跡。もともとは立派な五重塔が立っていたのだが、明治時代の廃仏棄却政策により撤去されてしまった由。ここに限らず敷地のあちらこちらに蘇鉄が植えられているのだが、その一部は朝鮮半島から持ち帰った「チョウセンソテツ」らしい。



参道?を挟んで五重塔跡の向かいにある「鼓楼」。こちらも廃仏棄却までは「鐘楼」だったのだが鐘が撤去されて太鼓になってしまい今に至るということらしい。霧の中にそびえる姿はなかなか絵になるなと。



ハイライトともいえる「唐門」は極彩色に包まれ実に鮮やか。しかし真っ直ぐこの門をくぐって拝殿の敷地へ侵入することはできず、右の階段を登り神楽殿のところから登ることになる。



その神楽殿(訂正)。言われてみれば歴史で習った「校倉造」であります。文字通りの倉庫と理解しておけばよいのだろうか。



唐門の両側から広がり拝殿を囲む壁には、1つ1つ異なるいろいろな動物の彫り物があしらわれている。それぞれ意味があり、また角度によっていろいろな表情を見せてくれるのでなかなか見ごたえあり。左側はふくろうだったような、そうじゃなかったような・・・。



(つづく)

霧降る駿河路(2)

2009-08-29 00:12:54 | ぶらりアウェイの旅
前回からのつづき)

沼津駅から静岡行き東海道本線に乗り込むと、これが思いのほか混んでいて座れるまで数駅費やした。ようやく席を確保して顔を上げると清水サポの姿も。富士駅で製紙会社の社員とおぼしき人たちが乗り込んできたりなかなか面白かった。車窓からは既に山の上に霧が立ち込め始めていることが確認できた。そんなこんなで14時ちょい前に清水駅に到着、別途鉄道で来ていた極太うぃあーさんとここで合流。



タクシーに乗り込み、日本平のロープウェー乗り場に向かう。2年前に行って改装中のため断念した久能山東照宮の参拝が目的だったのだが、件の霧は日本平でも猛威をふるっており、タクシーに乗っていて視界の悪さに少々怖さを感じるほど。1000段以上の階段を登らずして東照宮に行く為にはロープウェーに乗るしかないので、霧で運休だったらハイそれまでヨだったのだが、運良く運行中。ロープウェーはもう貸しきり状態。



貸切はよかったのだがガイドさんは往復おばさんorz しかしまあたった2人相手でもいろいろと機嫌よく良く喋ってくれたので飽きずに済んでよかったのかも。ガイドさん曰く、この季節にこんな霧が出ることは清水では珍しいこととのこと。ご覧のとおり霧のため風景を楽しむことはできなかったが、日本平と東照宮のまたいつもと異なる顔を見られたような気がして、これはこれでよかったのかなと。で、ロープウェイを降りると左手には東照宮がかつて城だったころ(後述)の石垣も見られてすぐ東照宮入口。



楼門。後水尾天皇筆による「東照大権現」の額が見られる。このあたりから、人手が少なくてヒマを持て余していたであろうボランティアのガイドのおじさんがぴったりマンマークで懇切丁寧に説明してくれて、薀蓄好きには悪くないシチュエーションだった。しかしガイドのおじさんは時間が空くと一生懸命巫女さんに話しかけていたのは内緒だ。



鳥居も霧がかってなかなか風情があります。この久能山、もとは日本平と一体の山だったものが侵食により現在のように独立した山となったものらしい(ロープウェイのガイドさんの受け売り)。そしてそこにはもともとお寺が栄えていたところ、戦国時代に武田信玄が駿府に進出した際にその寺を移動させた上でこの地に久能城を築いたと。



(つづく)

霧降る駿河路(1)

2009-08-25 07:37:15 | ぶらりアウェイの旅
何かもう最近ではちょっと前の遠征のことを振り返るのさえ萎えるくらいだけども、現実逃避の意味でも先日日本平に行ったときの話を今更ながらつらつらと。

この日は分割夏休み第1弾として終日有給を取得、当日朝に新宿西口からひとりでバスに乗って沼津港に向かう。例によって、せっかく静岡まで行くのだからおいしい魚でも食べてからということなのだが、バスを降りるといきなりGRANDEのTシャツが目に飛び込んできて何となく身の引き締まる思い。そして耳に飛び込んできたBGMは杉本清貴「ふたりの夏物語」。漁港に杉山清貴、悪くない。



魚といいながら噂の掻き揚げ丼にチャレンジせんと、巷では有名らしい「丸天」に単騎突入、カウンターに陣取って待つことしばし。そして登場したのがこれ。これが「コロニー落とし」に見えてしまうのでさすがにガンヲタに過ぎますでしょうか。いずれにせよ、この日1発目のコロニー落としを浴びてほうほうの体でお店を出る羽目に。てかバカ正直にひとりで全部喰うのが間違ってるのだが。自らの行為に恐怖した。



沼津港は大型船が停泊する外港と、漁船や定期船が停泊する内港に分かれており、それを分かつのがこの巨大な水門「びゅうお」。なかなか壮観で、経済インフラ好きとしては目を奪われてしまう。この「びゅうお」、一番上が展望台になっている上に、夜はライトアップまでされるらしい。無論、おっさんひとりで展望台に登ってみても虚しいだけなのでこの日は自重しておいた。駐車場にはエンブレムのシールが貼られた車の姿もちらほら。



水門は東海大地震の際の津波を防ぐために設置されたものとのこと。そしてこちらは水門の内側、内港。飲食店街がやたらと充実していた。しかし丸天では鮮魚を食うべきだったんじゃないかとやや後悔の念が・・・。



海釣りの後姿がなかなか絵になる。しかし平日だと言うのに家族連れやデートで訪れている方が予想以上に多くて少々びっくりした。まあ平日だというのにひとりで東京から沼津港に来て清水でサッカー観戦するような人間が何を言えるはずもないが。



当たり前と言えば当たり前だが、港では結構高い確率で野良猫の姿を見かける。まあ野良猫なんて我が足立区でもいやというほど見かけるんですがね・・・。それにしても腹いっぱいで、また日差しもそれなりに厳しかったためこれ以上うろうろする気力もわかず、路線バスでJR沼津駅まで戻り、在来線(東海道本線)で清水へ向かう。



(つづく)

砂場の十字架(6)

2009-08-15 09:41:39 | ぶらりアウェイの旅
前回からのつづき)

杵築城を後にし、城下町へ繰り出す。今思えば、城よりもむしろ風情のある城下町の方が杵築という街の観光ポイントだったのかもしれないくらいなのだが、しかし「坂道の城下町」と自ら名乗るだけあって確かにアップダウンが多くて夏場は心が折れる。こちらは「勘定場の坂」。



その勘定場の坂を登りきったところ。このあたりは「北台武家屋敷」と呼ばれるエリアで、ご覧のとおり路の両側に武家屋敷が立ち並んでいて中には未だ現役の住まいとして機能している建物も。ちなみに名前の由来は坂の「下」に勘定場があったことなんだとか。



こちらも坂の上にある藩校「学習館」の門(1785年築)。しかし今となっては「学習館」とはまたえらくストレートなネーミングだったんだななんて。門の向こう側には藩校の一部を再現した建物があって少々くつろぐことが出来たが、裏庭に池があるせいか物凄い勢いで蚊が飛び回っていて早々に退散。



番所の坂。番所とはいわゆる関所のようなもの。反対側には「酢屋の坂」という一番の絶景っぽい坂もあるにはあったのだが、浦和者な方々が一服しておられたため競合を避けて反対側から下ったもの。



その坂を下ったところには杵築ふるさと産業館という土産物と杵築バスターミナルがある。少々腹が減ったためふるさと産業館に併設された食堂「故郷」にて昼飯。「杵築城主名物うれしの茶漬け」はただの鯛茶漬けにしては1200円と少々お高いかな・・・。食堂内はやがてバスでやってきた韓国人観光客団体ご一行様でごった返してきたのでそそくさと退散。まるで「故郷」を「コヒャン」と読んぢまいそうな勢いだったが、杵築あたりまで観光に来ていることにはややびっくり。



再び坂を登る気力も体力もなく、とりあえず平らなところをうろうろ。「本丸御殿跡」という表示に誘われてふらふら近づいてみると何か学校の敷地内「みたいな」ところに辿り着き草ぼうぼう。何となく曰くありげな祠があり、何か映っちゃいけないものが映っちゃいそうで怖かったがパチリと1枚。大丈夫みたいだな。



どうもこれが「本丸御殿跡」らしい。どう見ても学校の脇の草むらにしか見えませんな・・・。部活後で学校に来ていたんであろう生徒さんに怪しまれながら歩いてきた甲斐もないっつーもの。



師匠と別れ、杵築バスターミナルから空港行きの路線バスに乗り込む。暑さに閉口して少々前倒しで空港へ。ひとしきりお土産を買い込んだ後は、さっき鯛茶を食べたばかりだというのに空港のレストランでだんご汁定食を喰らう。夜まで腹が減らなかったのは言うまでもない。



それにしても、

僕は・・・大分に・・・勝ちたい!(アムロ風にどうぞ)

(大分編・了)

砂場の十字架(5)

2009-08-14 07:51:36 | ぶらりアウェイの旅
前回からのつづき)

しかしお盆休み真っ只中に普通に(いやむしろ忙しい)通勤して普通にブログ更新してるってのもなぁ、などと思いながらしつこく大分編。杵築城のつづき、であります。

ご覧のとおり杵築城は海と川に囲まれた城。1394年に大友氏の流れを汲む木付(きつき)氏の4代頼直によってこの地に築城されたと言われているらしい。台地に建てられたため台山城、また台山の形状が牛の寝姿に似ていることから臥牛城といった別称がある由。



木付氏16代鎮直の時代には島津氏臣下の武将の猛攻を受けても見事持ちこたえたというエピソードもあり。しかしその数年後、朝鮮出兵の際に敵前逃亡したことで秀吉の逆鱗に触れた大友宗家が改易されるに及び、宗家に従っていた時の木付氏当主統直は帰国途中にその悲劇を嘆いて門司ノ浦にて自刃。さらにその悲報を聞いた父鎮直らも城内で自害し、300年以上に及ぶ木付氏17代の歴史が幕を閉じたということらしい。で、その後紆余曲折あって松平氏が明治維新まで統治。



城内はご多分にもれず町の資料館という感じ。しかし中津城に比べると代々の支配者の武具や生活用品が展示されており、なかなか興味深い。入口の案内のおばさんがいやに親切で、うちわを貸してくれたり、解説してくれたり、槍を持たせてくれたりしてちょっと戸惑ったほどだが悪い気のしようはずがない。ついにおばさんは連れの極太うぃあーさんに甲冑の試着まで勧め始める。そしてその極太さんもまんざらでもないご様子で・・・。


「彼氏が甲冑(よろい)にきがえたら」来夏公開予定

天守からは、中津城同様に海(別府湾でいいのかな?)に川が流れ込む様子を望むことができる。河口というより干拓地みたいな印象が強いのではあるが。左下に見えるのが入城前に上った展望台。バズーカ砲みたいなカメラを携えた方を小さく捉えている。



(つづく)

砂場の十字架(4)

2009-08-13 07:48:55 | ぶらりアウェイの旅
前回からのつづき)

ソニックで中津から大分に到着、ホテルにチェックインして九州石油ドームへ。その砂場のような場所で何やら酷いエンターテイメントを見せられたおぼろげな記憶が。しかし、小学生を動員してピッチの補修をさせるというのは何か無邪気な彼らを利用しているようにしか見えなかったが・・・。



砂遊びの後は打ちひしがれたまま大分駅周辺を彷徨う。散々な試合の後でもやっぱり浦和者がうろうろしていて店探しにやや難儀したが、無事「りゅうきゅう」の食べられる居酒屋を何とか見つけ出して入店。メガジョッキ(だったかな)で生ビールを流し込むなどひとしきり飲み食いし、勢いで閉店30分前のカラオケ屋に突入した上で2時くらい?にホテルに帰還。贅沢を言えば鴨すいも食べたかったが。



それでも翌朝はしっかり7時半には起床。大分駅前から路線バスに乗ってゆうに1時間以上かけて国東半島にある街・杵築(きつき)へと向かう。バスの中でぐったりしながら10時半前には杵築に到着、いきなり案内板に「坂道の城下町」と書いてあってちょびっとだけげんなり・・・。とにもかくにも、とりあえず杵築城へ向かって階段を登り始める。



前日訪れた中津が慶應義塾の創設者福澤諭吉を輩出した街なら、こちら杵築は法政大学の前身・東京法学社の設立者である伊藤修と金丸鉄を輩出した街らしく、城址にある城山公園には2人の記念碑があった。六大学のうち2つの創設者を輩出とは大分恐るべし(2つ以上かもしれないけど)。



夥しい数の石塔(でいいのかな?お城のパンフでは「石造文化財」「城山公園石造物群」とされていた。)が建てられていたのが印象的だったのだが、歴史的背景はよくわからず。



中津城と同じくこちらも模擬天守、昭和45年に再建されたもので少々小ぶりな印象。せっかく城に行ったのに肝心の天守の写真がこれしか残っていなかったのは、城そのものに深い感銘を受けなかったからかもしれない。てなことをいいながら次回も杵築城ネタを引っ張る気マンマンなのだが。



天守入口の傍にあるちょっとした展望台。バズーカ砲みたいなカメラを持った紳士が気合入れて恋した・・・いや気合入れて写真撮影に勤しんでおられた。



(つづく)

砂場の十字架(3)

2009-08-09 23:55:24 | ぶらりアウェイの旅
前回からのつづき)

中津城を後にし、次に向かったのは福澤諭吉旧居。慶應義塾の創始者にして「学問ノススメ」などの著者、そして何より壱万円札に刻まれていることで有名な人物。その福澤は旧中津藩の下級藩士として生を受けた。名前の由来は儒学を嗜んでいた彼の父が『上諭条例』という入手困難だった中国の書物をを手に入れた日に誕生したことによるんだとか。



生家そのものはご覧のような感じで今となっては何の変哲もないもの。しかし隣に建てられた2階建ての福澤記念館の展示、まあ誠に堅苦しいものだったのだが、福澤がどんなものやどんな人物に影響を受け、逆にどんな人物と関わりどんな人物に影響を与えたのかがそれなりに詳しく説明してあって興味深かった。「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」という、昔の本で読んで何となく記憶していた彼の言葉は、自らの父が下級藩士だったこととも関係あったのかななんて思った。



そんなこんなで、幕末の人物の中ではどちらかと言うと「いけすかないヤツ」という印象を持っていた福澤がちょびっとだけ身近に感じられた。学生時代に一度読んだきりの「学問ノススメ」やら「福翁自伝」やら、もう1度読み返してみようかなあなどといい歳して柄にもなく思ってみたりして。ちなみに中津城から歩いてすぐの距離にあります。



中津駅まで戻る道すがらには寺社仏閣が集結したような通りが。そこで一際目を引いたのがこの「合元寺」。秀吉に疎まれ、彼の命を受けた黒田官兵衛によって謀殺された戦国武将がいて、彼の家臣団が中津城に出向いた主を待っていたのがこのお寺。そこで家臣団は主が中津城で騙され殺害されたことを知り、勝てぬ戦を挑み散り、その血しぶきがこの寺の壁に飛び散った。そしてその血しぶきが何度洗っても何度洗っても落ちなかったためやむなく赤く塗りつぶすに至ったという伝説があるらしい。というわけで、「赤壁」ということで思わず反応してしまったが、赤といってもこれは茨城方面の赤であると結論付けた。てか、これペン(ry



連れの中にはネオンで光合成するような人物がいるもので、図らずも吸い寄せられるように通りがかってしまった中津の歓楽街(でも昼間ですのでご安心ください)。街の規模の割りに歓楽街の規模が大きいような印象を受けたのだがこれ如何に。そこで一番笑えた看板がこれ。今後はロシアのお姉ちゃんが加わってG8となり、やがてBRICsなどの新興国がオブザーバー参加して・・・、みたいな展開なんでしょうか。



大分に向かうソニックを捕まえようと中津駅のホームに戻るとこんな長いベンチが鎮座。中津はからあげと、ハモ料理が名物だったらしいのだが、今回はラーメンを食っちまったためさすがにこれ以上腹にぶちこむわけにはいかず残念でした。また機会があれば。いや次回がいつになるのかはあれですが・・・。



到着したソニックは見事に撮影失敗。JR九州日豊本線を走り、博多-大分駅間を結ぶ特急列車。JR九州の列車のデザインはこのソニックに限らず前衛的なものが多く、きっと議論は多いんだろうけど、個人的にはいつも目を楽しませてもらっている。



外観のみならず車内のデザインもこれまた非常にユニーク。特にこの椅子は足は乗せられるし、頭が安定するしで重宝します。乗り込んだソニックがえらく混雑していたのは浦和者だけのせいじゃないと思いたいのですが果たして真相や如何に。博多から乗り込んできたっぽい大分サポの姿も見られたが。



(つづく)