(前回からのつづき)
今日も「自称」新聞記者がお元気みたいで何よりです。
さて続き。
中津駅から歩くこと15分ほどだったろうか、リバーサイドに佇む中津城に到着。それなりの暑さと晴天の中15分は普通は結構きつい方なんだと思うけど、普段から走ったり歩いたりして慣れているので個人的にはさほどでもなかった。ご覧のとおり何となく天守が石垣からハミ出しているように見えるのがなんとも印象的。かといって「ハミ城」と呼ばれるわけでは無論なく、河口にあり「水城」と分類される向きもあるよう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/2d/3f82d7d1921da6e31625965229195872.jpg)
少々近づいてみると、階段らしきものの上に昔使っていたであろう出入口らしきものが見えたのだが、なんとも場末のスナックチックな押し引きするタイプのガラス戸・・・。お城の入口にあれはないわなと。いきなり生々しい黒歴史をみせつけられてしまったような気がした。ま、図らずも裏口から入ってしまったオレたちが悪いんでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/cd/44b44dafe1c081f4b74e4da233ff446a.jpg)
中津城の歴史は1587年に秀吉による島津征伐の際に戦功のあった軍師・黒田官兵衛(孝高)が豊前16万石を拝領して築城しました的な展開がそもそもの始まりとなるらしい。その後、関ヶ原に勝利した東軍徳川方の細川忠興が豊前豊後32万石を与えられ入城する。忠興は小倉城を築城して自らはそちらに移り息子の忠利にこの城を譲るものの、老後は小倉を息子に任せて老後は再びこの中津城ですごした由。そんないきさつもあり黒田の石垣と細川の石垣がくっきり分かれているところもあったのだが撮影失念。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/f1/0d4104f5e0c5bda934293a4a6dfd2f1b.jpg)
この細川氏というのはあの細川元総理のご先祖様、つまり程なく加藤清正の息子が改易になった熊本に転封となる(1617年)。そしてこの中津を引き継いだのが小笠原氏、しかしその小笠原氏も断絶となり奥平氏が入り以降歴代城主を務めたという経緯らしい。てなわけで敷地内には「奥平神社」。からくり人形がおみくじを運んできてくれるユニークなおみくじが印象に残った。傍らに見られるのは櫓だが、天守共々昭和39年に再建されたもの(つまり天守は模擬天守。だから石垣とアンバランスな感じなのだろうか・・・建築は詳しくないのでわからんが)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/a8/0328c6f5a8af9d837834931a4389f799.jpg)
奥平神社の隣には中津大神宮。天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)などを祀った明治時代からの神社のよう。倉敷の神社でも見かけた砲弾は日露戦争の際に奉納されたものなのかしら。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/2e/4125b907b68336559540bce6e7f5982a.jpg)
最上層からは山国川(中津川)の河口とその先に広がる周防灘を望むことができる。昭和30年代に建てられただけあって、城内は何となく昔の公立図書館を思わせるようなある種懐かしいつくりになっており、展示はお城の歴史よりもむしろ地元中津の輩出した英雄、それも主に軍人に関する展示が多かったような。ちなみに城内は灰皿が置いてあって喫煙可能で、城内で喫煙OKってのは初めてのことでかなり衝撃的。いや自分は吸わないんでどうでもいいのだが、大丈夫なんかね?w
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/b3/ef3a00e6eb103648991418e3486273da.jpg)
最後の「殿様」奥平氏の家紋は軍配っぽいデザイン。現在も建物は奥平氏の経営する会社の所有物なのだが、維持費が大変で売却したがっているなんて世知辛い話もあるようです。ちなみにこの天守はそもそも往時ホントに存在したかどうかさえ定かじゃないみたいだが・・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/8d/0c2ccdd59a03800519b4f68ffdff10c4.jpg)
(つづく)
今日も「自称」新聞記者がお元気みたいで何よりです。
さて続き。
中津駅から歩くこと15分ほどだったろうか、リバーサイドに佇む中津城に到着。それなりの暑さと晴天の中15分は普通は結構きつい方なんだと思うけど、普段から走ったり歩いたりして慣れているので個人的にはさほどでもなかった。ご覧のとおり何となく天守が石垣からハミ出しているように見えるのがなんとも印象的。かといって「ハミ城」と呼ばれるわけでは無論なく、河口にあり「水城」と分類される向きもあるよう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/2d/3f82d7d1921da6e31625965229195872.jpg)
少々近づいてみると、階段らしきものの上に昔使っていたであろう出入口らしきものが見えたのだが、なんとも場末のスナックチックな押し引きするタイプのガラス戸・・・。お城の入口にあれはないわなと。いきなり生々しい黒歴史をみせつけられてしまったような気がした。ま、図らずも裏口から入ってしまったオレたちが悪いんでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/cd/44b44dafe1c081f4b74e4da233ff446a.jpg)
中津城の歴史は1587年に秀吉による島津征伐の際に戦功のあった軍師・黒田官兵衛(孝高)が豊前16万石を拝領して築城しました的な展開がそもそもの始まりとなるらしい。その後、関ヶ原に勝利した東軍徳川方の細川忠興が豊前豊後32万石を与えられ入城する。忠興は小倉城を築城して自らはそちらに移り息子の忠利にこの城を譲るものの、老後は小倉を息子に任せて老後は再びこの中津城ですごした由。そんないきさつもあり黒田の石垣と細川の石垣がくっきり分かれているところもあったのだが撮影失念。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/f1/0d4104f5e0c5bda934293a4a6dfd2f1b.jpg)
この細川氏というのはあの細川元総理のご先祖様、つまり程なく加藤清正の息子が改易になった熊本に転封となる(1617年)。そしてこの中津を引き継いだのが小笠原氏、しかしその小笠原氏も断絶となり奥平氏が入り以降歴代城主を務めたという経緯らしい。てなわけで敷地内には「奥平神社」。からくり人形がおみくじを運んできてくれるユニークなおみくじが印象に残った。傍らに見られるのは櫓だが、天守共々昭和39年に再建されたもの(つまり天守は模擬天守。だから石垣とアンバランスな感じなのだろうか・・・建築は詳しくないのでわからんが)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/a8/0328c6f5a8af9d837834931a4389f799.jpg)
奥平神社の隣には中津大神宮。天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)などを祀った明治時代からの神社のよう。倉敷の神社でも見かけた砲弾は日露戦争の際に奉納されたものなのかしら。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/2e/4125b907b68336559540bce6e7f5982a.jpg)
最上層からは山国川(中津川)の河口とその先に広がる周防灘を望むことができる。昭和30年代に建てられただけあって、城内は何となく昔の公立図書館を思わせるようなある種懐かしいつくりになっており、展示はお城の歴史よりもむしろ地元中津の輩出した英雄、それも主に軍人に関する展示が多かったような。ちなみに城内は灰皿が置いてあって喫煙可能で、城内で喫煙OKってのは初めてのことでかなり衝撃的。いや自分は吸わないんでどうでもいいのだが、大丈夫なんかね?w
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/b3/ef3a00e6eb103648991418e3486273da.jpg)
最後の「殿様」奥平氏の家紋は軍配っぽいデザイン。現在も建物は奥平氏の経営する会社の所有物なのだが、維持費が大変で売却したがっているなんて世知辛い話もあるようです。ちなみにこの天守はそもそも往時ホントに存在したかどうかさえ定かじゃないみたいだが・・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/8d/0c2ccdd59a03800519b4f68ffdff10c4.jpg)
(つづく)