赤い彷徨 part II

★★★★☆★☆★★☆
こんにちは、アジア王者です。↑お星さまが増えました。

砂場の十字架(2)

2009-08-07 22:45:03 | ぶらりアウェイの旅
前回からのつづき)

今日も「自称」新聞記者がお元気みたいで何よりです。

さて続き。

中津駅から歩くこと15分ほどだったろうか、リバーサイドに佇む中津城に到着。それなりの暑さと晴天の中15分は普通は結構きつい方なんだと思うけど、普段から走ったり歩いたりして慣れているので個人的にはさほどでもなかった。ご覧のとおり何となく天守が石垣からハミ出しているように見えるのがなんとも印象的。かといって「ハミ城」と呼ばれるわけでは無論なく、河口にあり「水城」と分類される向きもあるよう。



少々近づいてみると、階段らしきものの上に昔使っていたであろう出入口らしきものが見えたのだが、なんとも場末のスナックチックな押し引きするタイプのガラス戸・・・。お城の入口にあれはないわなと。いきなり生々しい黒歴史をみせつけられてしまったような気がした。ま、図らずも裏口から入ってしまったオレたちが悪いんでしょう。



中津城の歴史は1587年に秀吉による島津征伐の際に戦功のあった軍師・黒田官兵衛(孝高)が豊前16万石を拝領して築城しました的な展開がそもそもの始まりとなるらしい。その後、関ヶ原に勝利した東軍徳川方の細川忠興が豊前豊後32万石を与えられ入城する。忠興は小倉城を築城して自らはそちらに移り息子の忠利にこの城を譲るものの、老後は小倉を息子に任せて老後は再びこの中津城ですごした由。そんないきさつもあり黒田の石垣と細川の石垣がくっきり分かれているところもあったのだが撮影失念。



この細川氏というのはあの細川元総理のご先祖様、つまり程なく加藤清正の息子が改易になった熊本に転封となる(1617年)。そしてこの中津を引き継いだのが小笠原氏、しかしその小笠原氏も断絶となり奥平氏が入り以降歴代城主を務めたという経緯らしい。てなわけで敷地内には「奥平神社」。からくり人形がおみくじを運んできてくれるユニークなおみくじが印象に残った。傍らに見られるのは櫓だが、天守共々昭和39年に再建されたもの(つまり天守は模擬天守。だから石垣とアンバランスな感じなのだろうか・・・建築は詳しくないのでわからんが)。



奥平神社の隣には中津大神宮。天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)などを祀った明治時代からの神社のよう。倉敷の神社でも見かけた砲弾は日露戦争の際に奉納されたものなのかしら。



最上層からは山国川(中津川)の河口とその先に広がる周防灘を望むことができる。昭和30年代に建てられただけあって、城内は何となく昔の公立図書館を思わせるようなある種懐かしいつくりになっており、展示はお城の歴史よりもむしろ地元中津の輩出した英雄、それも主に軍人に関する展示が多かったような。ちなみに城内は灰皿が置いてあって喫煙可能で、城内で喫煙OKってのは初めてのことでかなり衝撃的。いや自分は吸わないんでどうでもいいのだが、大丈夫なんかね?w



最後の「殿様」奥平氏の家紋は軍配っぽいデザイン。現在も建物は奥平氏の経営する会社の所有物なのだが、維持費が大変で売却したがっているなんて世知辛い話もあるようです。ちなみにこの天守はそもそも往時ホントに存在したかどうかさえ定かじゃないみたいだが・・・。



(つづく)

砂場の十字架(1)

2009-08-06 07:50:31 | ぶらりアウェイの旅
もはや遠い昔の出来事のように感じられるのだが、リーグも中断ということで大分遠征についてぼちぼちと。いや、遠い昔と言っても4連敗の始まりだったんだからそう遠くもないのかな・・・。今回はロジ隊長の極太うぃあーさんの判断で割高な大分便を避け、スターフライヤーで北九州空港から九州入り。機体も真っ黒なら、座席まで黒い革張りと、なんてーのかな、ラグジュアリー感(笑)っていうの?束の間そんなものを感じた。まあ勘違いも甚だしいのだが。そういえば、荷物検査の際にICカード的な感じでチケットをかざすってのは初体験でちょっとどきどきした。



SFJ75便で午前中に北九州空港に到着。北九州空港は人工島の上に位置する新しい空港で、2006年に開港したばかり。ゆえに空港施設は非常に新しく清潔な印象だった。とりあえず大分方面に向かうため日豊本線にアクセスする必要があり、早速エアポートバスに乗り込む。天気が良かったせいもあって、空港と九州本土?を結ぶ長い橋は実に眺めが良く、またインフラ好きにはたまらない光景でもあり。そして大阪からやってきた師匠と行橋(ゆきはし)駅で合流、一路大分方面へ。



大分方面に向かう道中、中津駅で途中下車。中津は大分県内で人口では大分市、別府市に次ぐ規模を誇る、福岡県と大分県の県境にある街。そんなわけで大分県に入ったという実感を強く覚えることもなく・・・。その中津を訪れた主な目的は(1)らーめん(宝来軒、紹介済み)、(2)中津城、(3)福沢諭吉の生家の3つ。中津駅前にはその福沢諭吉像が凛とした姿を見せる。中津藩の下級藩士の息子として生まれた人物で、言わずと知れた慶應義塾の創始者。



昼飯にらーめんを食べて腹ごしらえを終え、早速山国川河口にある中津城へ向かう。天気予報ではさほどよくなかったはずなのだが、この日は(も?)カンカン照り。地方都市というのは幹線道路を徒歩で異動する人はほとんどおらず、この日も中津城までの道中3人で浮きまくり。それでも額に汗しながら歩を進めていくと、ようやく前方川沿いに天守の姿が見えてきた。



(つづく)

水母を訪ねて百二十三里(7)

2009-08-02 05:57:55 | ぶらりアウェイの旅
前回からのつづき)

まだまだ続くクラゲのオンパレード。つい先月山形に行ったことがもう随分と昔のように感じられてしまうのはまあ、あれなんでしょうな・・・。以降、バラエティに富んだクラゲの行進についていちいちコメントできるのほどボキャブラリーをもっているわけではありませんので、しばし写真のみでお楽しみください(苦手な人はすいません)。



「手の空いている者は左舷を見ろ」とか呟きたくなる光景ではあります。



↓なんか蛍光っぽい光を発していたような・・・。



これ↓は恐らくエチゼンクラゲ。刺されたらすげえ痛そう・・・。毎年大量の発生して漁業への影響甚大とのことだった。





下のクラゲが怪しく光っているのはさすがに照明による効果なので誤解なきよう。












以降は確かパラオのクラゲ。



パラオのサカサクラゲ。「余り動きません」との解説が付してあったが、確かにほぼ動かず。逆さになっていることもあり、くらげというよりは一見海草にしか見えない。



こうしてクラゲをガン見しているところを連れに背後から盗撮されてしまった。そろそろ少し人生について考え直した方がいいのだろうか。



そんなこんなでクラゲ鑑賞を堪能(見つけてくれた連れには感謝)し、路線バスで鶴岡に戻り、再び特急いなほ(羽越本線)で今度は新潟方面に向かう。ここまで来たら新潟まで出て上越新幹線で帰京した方が早いとの判断だったのだが、帰路の「いなほ」では、JRの駅のポスターでよくみかける「きらきら うえつ」という言葉の意味がようやくわかった。日本海沿いを走る羽越本線では、沈み行く太陽の光が海原に反射してキラキラと光っていて、眩いまでの光景が延々と続くのである。

と、いくら詩的に語ってみても隣に座っていたのは野郎なんですけど(涙)



「逆天地人ルート」もなかなか乙でした。

以上、山形編ようやく完結。

水母を訪ねて百二十三里(6)

2009-07-28 07:47:12 | ぶらりアウェイの旅
前回からのつづき)

そう、いまだにだらだらと山形の話であります。

いよいよクラネタリウムに足を踏み入れる前にウミネコの餌付け。真っ青な海原(天候のせいか日本海っぽく見えなかった)をバックに子供からおっさんまでウミネコに餌付け。定時前から夥しい数のウミネコが建物の屋根でスタンバイしていた。手前のプールでは暑さのせいかアザラシがぐったり・・・。



暑さのせいかペンギンも日陰に隠れたり、ぐったりなご様子。ここまで活動的でないペンギンというのは初めてみたかも。



遂に「クラネタリウム」へ。ヲタとまではいかないにせよ、ちょっとしたクラゲファンとしては垂涎ものであることに間違いはないのだが、30種類近いクラゲが展示されているとなるといちいち名前も覚えきれないというもんで・・・。



ハナガサクラゲ。これはちょっとグロい・・・。生まれてこの方クラゲに刺されたことのないオレだもそう感じるくらいだから、刺された経験のある方はたまらんだろうなと。



これが実は結構小さなクラゲの集団で、大きなクラゲだけでなく、極小のクラゲまで、姿形や色も含めて実にバラエティに富んだクラゲ群。しかし、どうせなら静止画より動画でお見せしないと「クラゲに癒される」という気持ちは理解して頂けないだろうなぁとは思う。静止画は時として確かにグロいかも。



こちらは何とも葉巻型UFOみたいな見てくれのクラゲ。そういえばクラゲには心臓に当たる部位がないらしいのだが、ヤツらの体は一体どういったシステムになっているのか。



名前がわかったらまた適当に書き足します。

(つづく)

水母を訪ねて百二十三里(5)

2009-07-25 01:59:46 | ぶらりアウェイの旅
前回からのつづき)

鶴岡駅からバスに揺られ、東京からの道のり約123里(結構適当な計算に基づく)で遂に到着した「クラゲの水族館」こと鶴岡市立加茂水族館。以前は施設の老朽化と、それに伴う来場者数の減少に苦しんでいたが、それへの対策としてクラゲの展示数を増やし、やがて日本一のクラゲ展示種類数を誇るようになり、現在では来場者も持ち直してきているという水族館。



となれば、どう考えても自分と波長の合うクラゲをいつしか自宅で飼ってみたいという野望を持っている自分としては一度は足を運んでみたいなと。いやまあ連れが見つけてくれたわけなんですが、行かざるを得ないよなと。三十路のおっさんふたりで小学生やおっさんおばちゃんの団体にまみれるというのはまあいつもどおりであります。入口そばではこんな手作り感たっぷりのゴマアザラシ?のオブジェ??が迎えてくれた。




クラゲの展示はその名も「クラネタリウム」。まずは前座から。なんとかイカ。ん、あんまり美味そうじゃないな・・・。



ヤドカリもこれだけたくさんいると正直ちょっとしんどい。



ハゼもこれだけたくさんいると正直ちょっとしんどい。



「おさわり」という言葉に滅法弱いお年頃。



ナマズが川の字になって寝てた。



(つづく)

水母を訪ねて百二十三里(4)

2009-07-19 23:06:21 | ぶらりアウェイの旅
前回からのつづき)

現実逃避以外の何者でもない山形遠征のつづき(笑)



試合翌日は前日遅くまで飲んでいたにもかかわらず頑張って8時過ぎには起床。鶴岡にあるクラゲの展示日本一?という水族館を目指し庄内地方、つまり日本海側にある鶴岡を目指す。しかし山形からのルートは決して整備されておらず、鉄道を乗り継いで行くことに。まずは山形新幹線に乗り込み、山形城大手門下をとおり終点・新庄まで。新庄では陸羽本線に乗り換え、酒田方面行きの電車へ。この時点(AM8:00くらい)で"GRANDE"のTシャツ着用の方を1名確認。



その後はほとんど無人駅のような駅が続き、ひたすら山々や田園風景に囲まれながらの旅。寝不足で少々堪えるものの、こういう非現実を堪能する贅沢な時間の使い方がたまにはあって良いなとあらためて実感(たまにじゃないか・・・)。写真は右はスケバン刑事、左は川浜高校ラグビー部のSHといった感じですな。いや実に長閑でありました。



そして余目(あまるめ)駅(AM9:00くらい)で羽越本線の特急「いなほ」に更に乗り換え。余目駅は少年時代に持っていた「日本特急旅行ゲーム」というボードゲームで良く立ち止まった駅でどんなところかと胸躍らせていたこともあり、少々時間が空いたので駅周辺の散策でも、と思ったが一見して、何もなかったので敢えなく断念・・・(BGM:ギャートルズのエンディングテーマ)。当方少々乗り鉄の気はありますが、特に鉄道ファンというわけでもありませんので誤解なきよう。



そして鉄道の目的地である鶴岡に到着(9:20過ぎ)。ここからはさらに路線バスで最終目的地であるところの「加茂水族館」に向かうのだが、バスの発車まで時間があるため少々観光でもと思ったが寝不足+灼熱地獄で気力がわかず。仕方なく茶でもと思ったが、この鶴岡も駅ビルの半分が閉鎖になっている等それなりに厳しい状況のようで喫茶店さえ見つけられず、やむなくミスドで野郎2人でドーナツを喰らう羽目に。しかしここしか茶できるような場所がないようで、なかなか盛況。



そうして時間を潰しつつようやく乗り込んだ路線バスにしばらく揺られ、11時過ぎに加茂港に到着。この日は鶴岡でサテライト山形×草津の試合があり、赤星のデビューもあったようなのだが、さすがに2週連続で草津サテの試合を観るほどガチにはなり切れませんでした・・・。



(つづく)

水母を訪ねて百二十三里(3)

2009-07-17 23:20:38 | ぶらりアウェイの旅
前回からのつづき)

大分行く前日にのんきに山形の話のつづきであります。

ホテルにチェックインして後は着替えて出発、電車でスタジアムのある天童まで。もうネットのあちこちに貼ってあり、いまさら感ありありですが件の「諸手を挙げて歓迎」ののぼり。巷では「歓迎されるとアウェイ感が削がれて萎える」といった意見もあるようだが、当方はもう歳を重ねたせいかそこは切り替えできるので歓待は素直に嬉しいですね。しかし"We Are Reds."はいくらなんでもやりすぎじゃないかと・・・w



連れが事前にリサーチしてくれていたそば屋を目指し、酔狂なことに駅から歩き始める。天童周辺はこのように屋根の傾斜が緩い家屋が大部分を占めていたのがなんとなく印象に残った。後に庄内の方に足を伸ばすとまたそれはそれで異なるタイプの屋根だったので、積雪量などの気候条件による違いなのだろうか。



辿りついたのがこちらの「一庵」。実は事前に天童出身の会社の先輩@フィリピン赴任中からいろいろと情報収集していたのだが、その先輩の言葉を借りると「天童はそば処で、全国からそば通が集まってくる」のだとか。しかし、その中でも有名な「水車生そば」は浦和者が席巻していることが火を見るより明らかだったので、敢えて外し、しかもピークの時間を外した上でこちらのお店を選択。しかし、15時半前の到着にも関わらず店内はなかなか盛況でびっくり。



正直昼飯に牛肉を喰らって余り腹が減っていなかったのだが、「板そば」(750円、確か)をチョイス。出てきてびっくり、量が多いのはある程度覚悟していたのだが、750円で天ぷらまでついてくるとは。うれしいけど腹いっぱいみたいな複雑な心持ち。しかしもちっとした独特のそばといい、揚げたてであろう天ぷらといい、これがもう悔しいくらいうまいので、腹が膨れていても食べざるを得ない。いや、実に美味でありました。



一庵を出て、そのまま歩きでスタジアムに向かうという暴挙。正直幹線道路を歩いていたのはほぼオレたちだけだったのだはないかと・・・。さて天童といえば将棋の駒の名産地。というわけでマンホール?もこんな感じ。その将棋の駒の名産地というのも恥ずかしながら、確か「桃鉄」経由の知識でしかないわけですが・・・。まあ要は物件がさくらんぼ園と将棋の駒工場?だけ?みたいな。



道中、山形在住経験のある友人お勧めの「腰掛庵」のわらび餅を食おうと思ったら浦和者に席巻されたのか売り切れ宣告されたり、また、白いヘルメットを被ってジャージを着た、まるで南アルプス天然水のCMにでも出てきそうなピュアな女子中学生たちにたいそう澄んだ目で「こんにちはっ!」とかすれ違い様に爽やかに挨拶されて「オレは一体何をやっているんだ!」とか落ち込んだりもしたけれど、三十路のオヤジは元気です。てか、街ですれ違った見知らぬおじさんに挨拶なんて、天童は一体全体どんな教育してるんだろうな。もう心が洗われ過ぎて正直痛いくらいだったわ。あ、あれか、アメリカとかで護身の観点からこっちから挨拶しとけ的なヤツか。いやそんなヒネてないのか。嗚呼わからない、嗚呼!(橘いずみ風にどうぞ)。



さてそんな風に心に傷を負いながらスタジアム到着。キックオフ2時間前くらいにして既にゴール裏ぎっしり状態を確認して萎え、芝生に座り込んでサブグラウンドで山形大学サッカー部の紅白戦(多分)をぼーっと観戦して時間を潰す。この時点で腹いっぱいでスタジアムグルメを食う気力もゼロ。山形ゴール裏に近い場所だったので、背後からは山形選手バスへの拍手とか、浦和選手バスへのブーイングが聞こえてきた。



2000年によく観た「速報J2」とか、今でもたまにJ-Sportsで観るNDスタジアムのバックスタンド後方に広がる山々を実際に見られたのは感慨深いものがあった。雲行きが怪しくてやや雨もパラついたが、天気は持ち直し、キックオフ前には夕焼けも見られた。



(つづく)

水母を訪ねて百二十三里(2)

2009-07-15 07:55:43 | ぶらりアウェイの旅
前回からのつづき)

山形城の締めは東大手門。上の櫓が開放されていたので中に入ってみると、余裕のあるスペースでパネル展示が行われており、当然天地人ブームに乗ったようなものもありつつ、城の復元にあたっての過程が写真つきで詳しく解説されていた。作業員がカメラ目線で写っていたりして、復元過程をここまで生々しく自ら晒した展示というのは個人的には初めてだったので興味深いものだった。



東大手門を抜けて振り返っての一枚。かなり巨大な城だったという山形城に相応しい立派な門で、手前の橋の下は山形新幹線やJR線が走っている。また、春になるとこのエリアは桜の名所らしい。ちなみに付近には「最上義光記念館」という義光公ゆかりの品々が展示された記念館がありなんと入場無料だった。現在のハイライトは義光公が敵方の謀将・直江兼続と対峙した「長谷堂合戦」で着用し、その際の弾痕が残るという兜かな。



今回は浦和者を避ける目的で天地人絡みのものは可能な限り訪問スポットから除外したので、その兜はこの旅における数少ない「天地人もの」だったのかも(みてないけど・・・)。そして城を後にして腹ごなしをかねて市街をうろうろしながら昼飯を食うところでも捜すことに。すっかり曇りか雨だと思っていたところ晴れ上がって結構な暑さで閉口。ところで、大手門近くに「貸テレビ」という看板を掲げていた店があったのだが、果たしてどんなビジネスモデルだったのだろうかとちょっと気になった。



近代的な病院の建物だが、どうやら山形城、というか霞城公園の敷地内にあった建物と同じ「済生館」と書いてあったので、きっと現在の姿なのだろう。その当方の類推が正しければ、まあ随分と立派になったもんであります。



さきほどのビジネルモデル云々の話で云えば、こちらも生まれて初めてみた「牛肉店」という形態。「精肉店」は見たことあっても牛肉のみってのは、建物がレトロな点と合わせてさすがブランド牛肉の産地といったところか。このお店をみてグッと肉を喰いたくなったのだが、このお店の細長い建物の端にあったレストランは営業しておらずがっかり。



それでもどうしても諦めきれず、堪えきれずに「山形牛」という大きな看板を見ただけで飛び込んだお店が大当たり。このボリューム感のある「焼肉重」がランチといえどもたったの1000円というのは破格。新しいお店のようで内装も綺麗で清潔だし、お姉さんも綺麗だし(違)、偶然だがなかなか良いお店を発見してしまった。



その後は試合後に飲み食いできそうな店を下見しつつ暑さの中をふらふら歩き、宿泊先に到着してチェックイン。やはり浦和者が多いようでフロントにはこんなミニフラッグが。今回は宿が空いていなかったため個人的には珍しく老舗っぽいホテルに宿泊したし、また浦和のチームバスが近くに停まっていたからもしかしたら選手たちも同じホテルに宿泊してたのかな?



(つづく)

水母を訪ねて百二十三里(1)

2009-07-06 23:33:11 | ぶらりアウェイの旅
山形はサッカーかどうか問わず今回初めて訪れた地だけに、久々にだらだらと珍道中を綴って行きたいと思う。最近アウェイの遠征先を徘徊する際には「如何に浦和者を出し抜くか」という点に妙に注力していて(だって人混み好きじゃないし・・・)、何かウエイトを置くべきところが違うような気もするのだがw、まあ試合中は気合入れてやってるので何卒ご容赦頂きたく・・・。



土曜は8時前の新幹線で上野を出発。「つばさ」にコトコト揺られながら10時半くらいにはJR山形駅に到着。試合までは時間もあったのだが、他方で後援会ツアーの貸切新幹線が13時半くらいに山形に着くらしいという情報を得ていたので、まるで「逃走中」という番組でMIBのような黒いスーツの「ハンター」がたくさん乗った電車が到着する恐怖に怯えながら逃亡するかのように、それまでにやることやっておかないと・・・という妙な脅威に追われており、早速山形駅からほど近い霞城(かじょうこうえん)公園へ。



霞城公園は山形城址にあるそこそこ広い公園で、敷地内には体育館、野球場、博物館などの文化施設が立ち並ぶという状況で城自体はほとんど残っていない。現在は移設された門や部分的に再建された櫓が残るのみだが、山形市は史跡として整備し直す方針のようで、そうした諸施設は撤去しつつあるよう。しかし再建といってもなかなか当事の様子を伝える資料が不足しているらしく、情報提供を求める市役所の掲示も見られた。そんなわけで、下は発掘調査中のエリアで、近くにはプレハブの事務所も。



公園内で唯一モンテディオ色を感じたのだ、体育館の入口近くに無造作に貼り付けられた下の看板。パイオニアはバレーボールの実業団のチームらしい。山形のスポーツチームというと、このモンテディオとパイオニアに加え後は楽天の2軍くらいになるのだろうか。楽天は違ったっけ?そもそも「山形の野球」というと、清原桑田要するPLにボコボコにやられていたのが山形の高校だったようなおぼろげな記憶があるくらいだが・・・。



明治6年に設立された私立病院・済生館(さいせいかん)の旧い建物を移設したもの。国の重要文化財に指定されているとか。しかし午前中で人が少ないということもあるのだろうが、公園内は博物館など全体的に寂れた感じがありありで、史跡に生まれ変わる過渡期にしても随分と寂しい感じだった。



本丸に続く橋。しかし本丸には現在石垣くらいしかない。本丸御殿は再建を計画しているようだった。ここで当日初めて山形県内で浦和者を目撃。振り返ってニヤニヤしているのは我が連れ合いですが・・・。



山形城は羽州探題として赴任した斯波兼頼によって建立されたもので、斯波氏がその後最上氏を名乗り主となった。その最上氏11代当主にして初代山形藩藩主がこの最上義光(もがみ よしあき)。中興の祖、というよりも、歴代当主の中で最も存在感があったという感じなのかな?



先日とある飲み会で山形出身の方が「敵方のドラマである『天地人』はうちでは絶対観ない!」と豪語しておられたのだが、山形に着いてみると天地人ブームに乗りまくりといった感じで少々拍子抜け。しかし義光公の像の脇にあった解説にあったこの「謀将直江」という表現に何となくそのあたりの感情を汲み取ったつもりになってみたのだが・・・。



(つづく)

晩春の三河路(3)

2009-04-28 07:43:11 | ぶらりアウェイの旅
前回からのつづき)


「三河武士のやかた家康館」は時間が足りなくなってしまい駆け足になってしまって残念だったが、歴史に関する能書きの好きな人だったらそれなりの時間楽しめるつくりになっていたと思う。日本刀、槍、鎧兜といった試装・試着が出来るのはなかなか面白くて、外国人観光客が鎧兜を被り日本刀(勿論刃はない)を持って物凄く楽しそうな顔をしていたのが印象的。こちらでは大きいお友達でも合法的に楽しむことができますので誤解、いやご安心ください。
姿勢

He sat up straight like Hidetoshi NAKATA, former international footballer.

川の間反対から岡崎城天守を撮影してみるも、やはり木々に阻まれてきれいに写真に収められず。ご覧のとおり、やはり桜はやや旬を過ぎた感じ。岡崎城を後にし、腹ごしらえをして豊田に、と思ったが時間もないので駅までの道の途中にあった中華料理屋「成瀬屋」で昼食。中華料理店だが要はなんでもありで、「ヘルシー納豆うどん」を喰ったが量が多すぎて全然「ヘルシー」感なし・・・。昼間からドラゴンズの番組をやっていたのがさすが愛知という感じ。



中岡崎駅から愛知環状鉄道で新豊田駅へ。途中グランパスファンと思しき中高生の集団が乗り込んでくるなどしたところでようやくほのかなアウェイ感を覚える。駅からスタジアムに向かう道すがら、前回はバスツアーのため遠くから眺めるだけだった豊田大橋を遂に渡ることができて、ちょっとしたインフラヲタとしては小さな幸せ。バスケットハンドル型ニールセンローゼ橋という、昔多少インフラの仕事をした自分でも余り耳馴染みのない形式の橋で、故黒川紀章氏の設計によるものでとてもスタイリッシュ。



豊田スタジアムは屋根が閉じていて、この日はかなり暑い日だったこともあって一瞬九石ドームでの蒸し風呂の悪夢が頭を過ぎったが、この屋根が日差しを遮ってくれる上に、意外と風通しもよいのでかえって涼しいくらいで快適だった。立地やアクセスを除けば、サッカー専用でピッチも近く申し分ない。スタジアムフードは余り食べないのでよくわからないけど。



(このシリーズおわり)

晩春の三河路(2)

2009-04-18 01:00:24 | ぶらりアウェイの旅
前回からのつづき)

矢作川沿いから城内に侵入を試みんとす。露天が石垣近くまで占拠しており、石垣の前でのび~るアイスを売るトルコ人(多分)の兄ちゃんという、なんともアンビバレントな状況も。とりあえずお約束で、石垣に纏わりつく苔をパチリ。いつもながら撮影する様子を人様に見られたくはありません。この岡崎城、家康公の生地ゆえ当然に尊ばれ、松平家、江戸時代の譜代大名などそうそうたる面々が城主として名を連ねている。



ほどなく天守。撮影するには恐らくここがべスポジなんだろうが、如何せんこの2本の木が邪魔・・・。天守は裏手も木々に覆われており、結局のところきれいに写真に納めようと思えば少々離れたところから望遠レンズかなんかで撮るしかないんじゃないかなと。この天守、入口のところの案内で「鉄筋コンクリート」と高らかに宣言されているため、ある意味清々しく、かえって建物内の展示に集中できるというもの。


The Okazaki castle. The birthplace of Ieyasu TOKUGAWA, the first SHOGUN on Edo era.

歴史好きにはそれなりに楽しめる構内の展示だった。「日野根頭形葵紋兜」の英訳は"Helmet with hollyhock motif"、日常で"hollyhock"と聞いて何か違和感を覚えてしまうのはサカヲタくらいなものだろう。また、"enemy"とか"border"とか"strategy"なんて単語を使いながら日本人の妻を相手に英語で戦術論を熱っぽく語る白人さんがいたのが何とも印象的だった。最上階からの眺めは普通の街並みが普通に見られるという程度かな。


A view from the top of the castle.

家康が産湯に浸かった際の井戸ということらしい。この他「三河武士のやかた家康館」という展示館もあって、なかなか面白そうだっただが時間がなくて流し見になってしまい悔やまれる。入場料は、大人ならば「岡崎城家康館共通」で500円なので、まあお得感のある方じゃないかと思う。しかしこの日は「晩春」と銘打ったものの、その実既に暑いくらいの日だったな。



(つづく)

晩春の三河路(1)

2009-04-17 07:51:01 | ぶらりアウェイの旅
豊田遠征は「千円」な世の流れに逆らうように新幹線利用。こだまの始発でまずはとろとろと名古屋へ向かった。試合前に岡崎城でも見て行こうということで、名古屋で名鉄に乗り換えて東岡崎駅へ。名鉄は何度乗ってもわかりにくいし、何より名鉄名古屋駅構内に列車が進入してくる際に発せられる奇天烈なサイレンが地元のヤンキー演奏による「ゴッドファーザー」的な音色に聞こえてしまって困る。まあ埼玉県北部出身なもので、そこは大目に見ていただきたいところ。



車窓から見えた天守の姿を頼りに適当に駅から歩いてみると、どうやら思いっきり駅の反対側を歩いていたようでいきなり出鼻を挫かれる。しかし、その反対側には六所神社という杜が。豊田の松平郷という松平家発祥の地にある神社から来ているらしく、なかなか立派そうな神社だった。城に急いでいたため結局参拝しなかったのだが、家康誕生時の産土神(うぶすなかみ)とされたもの。彩り豊かな建物や徳川家康の手形などもあるようで、事前にリサーチしてしっかりと見学しておけばよかったと今更ながら後悔。



この神社で面白かったのは、参道を思いっきり名鉄の線路が横切っていた点。この写真ではわかりにくいのだが、赤い鳥居の向こうに名鉄の線路が横切っていて踏切が設置されているのである。いや面白いとは言っても、さすがにちょっと罰当たりな感じもするが・・・。



矢作川沿いに桜並木があって花見スポットだったが、さすがに桜ももう散り気味。恐らくこの週末が花見の最後の最後のチャンスくらいな感じだったのだろう。岡崎城のそばでは「さくらまつり」みたいなのが開催中で露天が並んでたいそう賑々しい様子だったが、やっぱり桜はちょいと散り気味みたいな。当然ながらこの界隈でも赤い人がちらほらと。

(つづく)

静かな湖畔(6)

2008-12-27 00:31:36 | ぶらりアウェイの旅
前回からのつづき)

反省文のことで何かもうどうでもよくなったのでw、忘れた頃に北海道遠征のつづき。といっても支笏湖を後にして東京行きの飛行機になるために空港に行っただけなのであるが。しかしあんな寂しい支笏湖から新千歳空港まで直接行く路線バスがあったのはちょっとびっくり。路線バスでの1000円超えは初めて。空港にこんなものがあったが今回はパス。



既に有名な生キャラメル協奏曲。各売店は軒並み完売状態で、購入するためには行列に並ぶしかない。ただでさえ普段から飛ぶように売れているのに、ましてや行列好きな浦和者が押し寄せている最中だもの・・・。



当方は生キャラメルはパスで、仲間に頼まれたじゃがポックルを探し回るもののこれもなかなか姿を見ることができない。しばらく空港内をうろうろしていると、ちょうど品出ししているところに遭遇、後ろから迫り来るオバサンの圧力にビビって押されながらガバっと鷲掴みで2箱お買い上げ。



3Fのレストラン「あびよん」にて夕飯。今回は外で食えなかったジンギスカンをということで1000円(だったかな?)で生ビールつきのジンギスカン定食。味はまあこんなもんかなってところ。



むしろ、このレストランのウリっつーのは窓から目前の滑走路が見られることだろう。到着してお客が降りて整備に入る様子や、飛び立つ様子まで楽しめてなかなかである。



(久しぶりなのにこれで終わり)

肌寒いけど熱田神宮 2

2008-12-21 00:50:58 | ぶらりアウェイの旅
前回のつづき)

熱田神宮のつづき。こちらが本宮だが「創祀1900年記念造営工事に伴い大神様が本殿裏の仮の御殿に祀られている」とのことだった。お参りして傘を片手に去っていく綺麗目のお姉さんの姿が印象的。



西楽所(にしがくしょ)、屋根は桧皮葺(ひわだぶき)というらしい。もともとは東西相対した建物だったらしいのだが、もう片方は戦災で焼失してしまったとのこと。将軍・徳川綱吉によって再建されたものということで、境内で数少ない明治以前の建造物のひとつとか。



これは・・・うーん、すいません思い出せません。



清雪門(せいせつもん)。門といっても向こう側に何かがあるわけではなく、天智天皇の時代に新羅の僧が神剣を盗み出す際に通った門といわれ、以来不吉の門として忌まれたとか、いろいろな伝説があるとのこと。 ゆえに「不開門(あかずのもん)」といわれているとか。



摂社のひとつ、南新宮社(みなみしんぐうしゃ)。素盞嗚尊(すさのおのみこと)が祀られており、熱田神宮で唯一の丹塗りの社殿であるとのこと。



こちらも記憶がおぼろげだが、場所的に恐らく孫若御子神社。



となんだか尻すぼみな終わり方ですが・・・。

その他、境内には皇室を初め庶民に至る多くの崇敬者からの奉納品4千余点が展示されている「宝物館」もあり、また本宮・別宮外43社が祀られているらしく、まだまだ見所はたくさんあったらしいのだが、余り時間もなくこの日はこれにて退散。

広大な境内をして、古来は「蓬莱島(ほうらいじま)」と呼ばれていたらしいのだが、ひつまぶしで有名な「蓬莱軒」の由来もその辺なんだろうか。

(終わり)